2008年12月07日

第340回「NORTHERN LIGHTS〜アイスランド一人旅2008〜最終話 すべてはひとつ」

 「あぁ、終わってしまった...」
 もうあとは帰るだけ、という状況ほど旅においてせつないものはありません。せつなさと、いい旅だったという満足感とが交錯し、なんだか泣きたい気分になります。カウンターで荷物を預け、飛行機の出発を待ちました。早朝にもかくわらず出発ロビーは多くの人たちでにぎわっています。リュックをテーブルの上に置き、ぼーっと行きかう人々を眺めていると、これまでのことがスライドショーのように頭に浮かび上がってきました。
 ホテルに向かうバスの中。ディニャンティの滝。ラートラビヤルグの絶壁。一緒に食事をした夫婦。サンドイッチを作ってくれた娘さん。大地から噴きあがる白い煙。水色の温泉。そして、旅の間ずっと僕の心を和ませてくれた羊たち。思い出そうとしなくても勝手に蘇ってきます。
 それにしても、どうしてこんなにも心が潤っているのでしょう。旅の途中で会った人はどうして僕の心を満たしてくれるのでしょう。人と出会い、人と接すること。地位も名誉もすべてを取り払い、人と人とが触れ合うこと。気持ちが通じ合うだけでこんなにも幸せな気分になるのです。おいしいものを食べてお腹が満たされるように、人と接することによって心が満たされる。まるで本能的な欲求が満たされるかのように、それだけで幸せになれるのです。
 もしかすると、すべてはひとつ、ということなのかもしれません。人類は、物理的には離れ離れであるけれど、それはいわば細胞分裂をしているだけであって、もともとはひとつだった。だから、離れ離れだったものがつながるだけであたたかい気持ちになるのです。心が満たされるのです。そのために、愛があるのです。愛がすべてをつなげるのです。愛が人と人とをつなぎ、音楽は言葉を越え、自然がすべてを包み込むのです。だから僕が目にした人も大地も空も海も、すべてひとつなのです。人間は自然をコントロールする生き物ではなく、まぎれもなく自然のほんの一部にすぎないのです。すべて、自然から生まれた子供たちなのです。
 「そういえば、ここで...」
 飛行機が1週間ぶりのコペンハーゲン空港に到着すると、ずっと奥に追いやられていた苦い思い出がよみがえってきました。モノをなくすといいことがある、というのをきいたことがありますが、まさにそういうことだったのかもしれません。財布をなくしたかわりにオーロラを見ることができたのだから。財布をなくさずにオーロラに遭遇というのもいいですが、財布をなくしたからこそ、オーロラはいっそう輝いて見えたのかもしれません。
 「もしかして...」
 でもまだ、少しだけ可能性は残っていました。というのも、紛失したときに伝えておいたインフォメーションセンターに行けば、もしかしたらマリメッコの財布が届いているかもしれません。このまま乗り換えせず、一度ゲートから出れば訊ねることができます。これでもしも財布が戻っていたら、すべて丸く収まるのです。
 「...まぁ、いいか」
 財布をなくしたことも、それもいい思い出。取り戻す甘味よりも、ほかの甘い部分を引き立てる苦味のほうを選びました。
 離陸前に荷物を整理していると、今回の旅で大活躍したCDがでてきました。いま手にしているこの一枚のCDRに、旅のすべてがつまっています。青い空も、水平線にむかう太陽も、視界を閉ざした霧も、雨も。エイジルスタジルの虹。オレンジ色の灯台。夜空に浮かぶオーロラと、執拗に話しかけるドイツ人。このCDの中に、全部つめこみました。このCDがあれば僕はいつでもアイスランドにいくことができます。この中にある音楽がながれたら、僕はいつでもあのオーロラを見ることができるのです。
 「当分、きかないでおこう」
 そして飛行機はコペンハーゲンを飛び立ちました。窓の外を眺める彼の中にはすっぽりと、アイスランドがはいっていました。

あとがきにかえて

 ということで、一週間の出来事を13週、約3ヶ月にもわたって書き綴ってきました。よくもまぁこんなに時間をかけてと思うかもしれませんが、当然僕の中でも、「きっとみんな次回が楽しみでわくわくしてるぞ!」なんていう風には思っていなく、毎回読んでくれている人に申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。ただ、それでも「アイスランドに行きたくなりました」「旅行気分が味わえました」という感想を送ってくれる人もいて、それらの言葉は僕をとても穏やかな気持ちにさせてくれました。だから、ここまでたどり着いたみなさん、本当にありがとう、そしてお疲れ様でした。
 そもそも旅立つ前は、それこそ旅行中は、今回のアイスランド紀行文を書くつもりはまったくなかったのです。書くことを前提に旅をすると、気持ちがそういうモードになって楽しさが半減してしまうからです。しかし、例の自然の神秘に遭遇したとき、これを伝えないで何を伝えるんだ、そんな思いが芽生えてしまったのです。ただ、ひとつ問題がありました。オーロラの感動を伝えるのにどこから書くべきなのか。いきなり最終日でいいのだろうか。そこにたどり着くまでの道のりがあってこそのオーロラ。しかも紛失したCDRの曲とリンクしているんだし。そんなことを考えていたら、13話になってしまったのです。心がアイスランドに旅立ったとき、それがこの紀行文のはじまりなのです。
 強くおすすめするわけではありませんが、これまで毎週読んでくれた人も、そうでない人も、もし余裕があったら完成した状態で、最初から一気に読んでもらうと、よりいっそうイメージしやすいかもしれません。アイスランドをより体感できるかもしれません。さらに時間があれば、2007と2008を読み比べたりするのも。ほんとにおすすめはしませんが。ちなみに今回も写真を添付しなかったのは、読み手のイメージを限定させたくなかったからです。写真を載せることは一長一短ですが、そこに依存したくなかったのと、それぞれ自由にアイスランドをイメージしてほしかったのです。
 今回旅をして、アイスランドが僕の体のなかにすっぽりはいってしまいました。なにをしていても僕のなかにはアイスランドがあるのです。だからもし、興味を持たれた方は、是非いちど実際に足を運んで、わずらわしいことを全部請け負って、体感することをおすすめします。人生観がかわるとはいいませんが、人によっては変わりますが、予想以上に得るものがあるはずです。そして帰ってきたとき、あなたの心の中にもきっとアイスランドがすっぽりとはいっているでしょう。地球をもっと好きになることでしょう。人生に一度、アイスランドを。

1.週刊ふかわ |, 3.NORTHERN LIGHTS |23:21

2008年11月30日

第339回「NORTHERN LIGHTS〜アイスランド一人旅2008〜第十二話 ノーザン・ライツ」

 それは、ホテルの人の声でした。
 「ほんとですか?!わかりました!ありがとうございます!」
 受話器を置くと、ベッドから飛び起きました。
 「うそでしょ、そんなことって...」
 上着の袖がうまく通りません。部屋をものすごい勢いで飛び出すと、ものすごい勢いで戻ってきて、テーブルの上にあったオーディオプレイヤーを手に取りました。あらためて部屋を飛び出し、廊下を駆け抜けテラスにでると、ほかの宿泊客が何人かいます。そして僕は肩を揺らし、彼らと同じ様に空を見上げました。
 「これか...」
 僕を待っていたのは、夜空に浮かぶオーロラでした。最終日の深夜1時半、上空に現れたオーロラに気付いたホテルのスタッフが、翌日帰国する日本からの旅人に連絡してくれたのです。
 「これが、オーロラか...」
 それは、ある意味奇跡でした。スウェーデンなどの北部地方で、防寒着をしっかり着込んで何時間も待たないと見られません。それこそオーロラツアーをしても見られずに終わることがあるほどです。つまり、人生で見られるかわからないのです。アイスランドでは比較的オーロラが見えやすいとはいえ、10月以降。しかも、冬でも晴れていないといけません。まだ9月になったばかりのアイスランドの夜空にオーロラは珍しく、相当運がいいということなのです。僕自身、もしかしたらとすら思っていなく、オーロラのことなんてまったくもって期待していなかったのです。
 「まさか見られるなんて」
 すると近くにいた男性が話しかけてきました。
 「キミ、オーロラははじめてかい?」
 「はい、はじめてです!」
 「そうか、キミはラッキーだよ。こんな時期にオーロラは見られない。せいぜい10月くらいだよ」
 ワイングラスを手にし、かなり酔っ払っているようです。
 「君は日本人かい?」
 うなずくと彼は嬉しそうに話し続けました。
 「そうか、日本人か!僕はドイツ人だ。ちなみに日本とドイツは共通点がいくつかある...」
 オーロラを見ていたいけど、酔っ払いの相手もしなきゃいけません。彼の顔とオーロラを交互に眺めます。
 「俺は実はパイロットをやっているんだよ。君は将来なにになりたいんだい?」
 「日本ではいま、テレビの仕事してるんです」
 「テレビの仕事?なれるといいなぁ」
 日本人は若く見えるのでしょう。
 「それにしても、キミはラッキーボーイだよ」
 「あ、はい、ありがとうございます」
 「こんな時期にオーロラは見られない。せいぜい...」
 「10月以降とかですよね」
 「そう。ちなみに日本とドイツは共通点がいくつかある...」
 アルコールが、彼の話をループさせます。共通点を聞いているうちに、ほかの人たちは皆部屋に戻り、テラスには日本人とドイツ人のふたりだけ。第二次世界大戦の影響がこんなところにもでていました。
 「このオーロラはいつまででているのだろうか、写真を撮れないものだろうか」
 さすがに話し疲れたのか、ようやく彼の口の動きが止まりました。もう部屋に戻る、そんな気がしました。
 「いやぁ、しかし、君はラッキーボーイだよ...」
 こんなにもラッキーボーイだとは自覚していませんでした。そのあとはきっと共通点の話をしていたのでしょう。彼の言葉が遠のいていきます。結局30分ちかく話をしていたでしょうか。ようやくドイツ軍は撤退し、僕ひとりだけになりました。
 「やっとじっくり見られる」
 しかし、ようやく初めてのオーロラを一人で浸れる状況になったものの、どこか満たされない感じがありました。というのも、これまで写真で見たものと大分違うのです。光のカーテンなどと表現されるのに、光というよりもどこかかすんだ雲のよう。生で本物を見たという感動こそありますが、規模の小ささとイメージとの違いに多少不満が残りました。
 「まぁ、こんなものか...」
 若干こぶりなのを時期と場所のせいにしながらしばらく眺めていると、突然様子がおかしくなってきました。
 「なにこれ...」
 ひとりになってから間もなく、オーロラが突然動き出したのです。それまでかすんだ雲のように空の一部分にあったものがふわーっと広がり始め、白一色だったのが七色に発光し、あっというまに上空いっぱいに映し出されました。右から左へ左から右へ、そして真ん中からシャワーのように光が流れていきます。たしかに光のカーテンのようで、川の流れのようで、天空の生き物のように光が舞っています。空をスクリーンに、幻想的にうごめく光はもはや現実のものとは思えません。
 「こういうことか...」
 そう考えると、ワイングラスの男性がいたからこの光景に出会えたともとれます。それにしても、この天体ショーはなかなかおわりません。10分たっても20分たっても消えず、しかも常に違う動きをするので目が離せません。ずっと見上げているのがつらくなり体を地面に預けると、その冷たさが背中に伝わってきました。ポケットに入れておいたオーディオプレイヤーをとりだし、かじかんだ手でヘッドホンを装着すると、外の音が遮断され、自分の呼吸や心臓の音が聞こえてきます。そして、音楽が流れてきました。夜空を舞う光と、それと戯れるように、ときおりこぼれおちる流れ星。夜空のフルコースといった感じです。そしてこの宇宙の神秘に遭遇することをわかっていたのように、ディスプレイには「northern lights」と表示されていました。「オーロラ」という意味です。今回の旅のために無限にある曲のなかから選ばれた一曲、その曲と現実がつながりました。いま目にしているすべてがここに刷り込まれていきます。やがて、夜空のページをめくられるように朝日が昇り始めると、それにバトンタッチしてオーロラは消えていきました。
 「やばかった...」
 それは、自然からのご褒美でした。まだオーロラというものが知られていないとき、人はそれをどう思ったのでしょう。もうすべてが終了したと思っていただけに、最後の最後に訪れた予期せぬプログラムに、満足度は測定不能の域に達しました。
 「起こしてくれてありがとうございました」
 空港に向かうのは僕だけでした。
 「なかなか部屋に戻れなくて、結局朝まで見ちゃいました。」
 いろいろ会話をしていると、彼女が僕の好きなアークレイリ出身だとわかりました。冬の雪で覆われたアークレイリもなかなかいいそうです。窓ガラスが結露で覆われた車は、15分ほどで空港に到着しました。荷物を降ろし、二人で写真を撮ると、彼女の手を強く握りました。また来ることを約束して。
 「タックフィリール」
 この言葉が、最初に覚えたアイスランド語になりました。

1.週刊ふかわ |, 3.NORTHERN LIGHTS |09:23

2008年11月23日

第338回「NORTHERN LIGHTS〜アイスランド一人旅2008〜第十一話 オレンジ色の理由」

第338回「NORTHERN LIGHTS〜アイスランド一人旅2008〜第十一話 オレンジ色の理由」
 「え、もうでかけるの?」
 「そうだよ」
 「飛行機お昼の便って言ってなかった?」
 「そう。だから出発時刻までに戻るから」
 最後の夜を迎える今日、アークレイリからレイキャビクに12時の飛行機で戻ることになっていましたが、その前に行きたいところがありました。
 「どうしてこの色にしたんだろ」
 写真にオレンジ色の小さな建物が映っていました。シグルフィヨルズルにあるソイザネースの灯台です。右手のひらの中指の先、それが今日の目的地です。でも、僕にとっては目的地はそれほど重要ではなくて、ただ、いろんな景色を見たい、残りわずかとなった時間をぎりぎりまで楽しみたい、その口実として選ばれたのがこの灯台だったのです。
 「しかし、なかなかでてこないねぇ」
 予想では1時間ほどで着くものだと思っていましたが、いけどもいけどもオレンジ色があらわれません。あまり到着まで時間かかると飛行機の時間に間に合わなくなってしまいます。
 「あのカーブをまがったら...」
 ひたすら続く美しい海岸線に感動するものの、なかなか見つからない状況に焦らずにもいられません。こうなったら飛行機に間に合わなくってもなにがなんでも見てやる、そう心に決めたときでした。
 「もしかして、あれ...」
 小さくオレンジ色の建物が遠くの崖の上にポツンとたたずんでいます。銀色の車はカップに近づくゴルフボールのように、その建物に吸い寄せられていきました。
 「いまも使われているのかな」
 それは写真のとおり、なんともかわいらしい灯台でした。緑色の牧草地帯、茶色の山肌、青い海に白い羊たち。ここにいると、なぜこの色になったかわかる気もします。一見、使用されていないように思えるこの灯台も、夜になると明かりがともるのでしょうか。その光景もいつかは見てみたいものです。
 「どうにか間に合いそうかな...」
 灯台を折り返し地点に、車はUターンします。結局、最後のレンタカードライブは往復4時間の旅となりました。
 「これで、本当にお別れだね」
 「そんなあらたまらないでよ」
 「本当にありがとう。君のおかげで楽しい旅ができたよ」
 「そういわれると長距離頑張った甲斐があったな。でも、CDの件、ごめんね」
 「いいんだってそんなの。それもいい思い出だよ。こっちこそごめんね、本当はここじゃないのに」
 「大丈夫、慣れてるから」
 僕は運転席を降りました。
 「また、いつか会えるといいね」
 「うん、また、いつか」
 二人の笑顔がカメラに収められました。
 「また、来れるかな」
 銀色の車が、そしてアークレイリの街がぐんぐん遠ざかっていきます。すっかり国内線の小さい飛行機にも慣れたものです。窓からぼーっと内陸部を眺めていると、ところどころに水溜りが見えました。本来凍っていなければいけないところが融けてしまっているのかもしれません。実際目の当たりにすると、深刻さを実感します。
 レイキャヴィクに戻った僕を、夏のような強い日差しが待っていました。アイスランド最終日は昨年と同じく、最大の露天風呂ブルーラグーンにはいって旅の疲れを落とすことになっています。もう何度も温泉にはいっていますが。空港から目と鼻の先にあるバスターミナルでチケットを購入し、お菓子を片手にブルーラグーン行きのバスを待ちます。ここのラウンジも映画に登場する場所で、多少リニューアルしているものの、当時の雰囲気はまだ残っていました。
 「最終日か...」
 定刻どおり、日本人の旅人と数名を乗せたバスはゆっくりとターミナルを出発しました。改装中の教会も見えなくなり、心の中のカウントダウンももはや時間刻みになります。45分ほどで、温泉の白い煙がみえてきました。まずは、すぐ近くにあるホテルにチェックインをします。
 「昨年もここに泊まったんです」
 その間に増築されたらしく、一階建てのホテルは横に広がっていて、まだ新しい匂いのする部屋に案内されました。荷物をおき、さっそくホテルの人の車でブルーラグーンへ向かいます。
 「すごい賑わってるな」
 ミーヴァトンのそれと違って、あいかわらず多くの観光客であふれています。それでも露天風呂はあまりに広いので、まったく気になりません。マッドと呼ばれる名物の白い泥パックを顔に塗り、端っこのほうでのんびり浸かっていました。
 「日本にもあったらいいのに...」
 せっかく同じ温泉大国なのだから、日本にもこのような場所があってもいいものです。ブルーラグーンジャパンです。当然、日本の和を感じる温泉も好きですが、それとはまた違ったよさがここにあります。いわゆる温泉の概念を覆すことも大事です。プールのように水着で男女混浴できる温泉。館内にはエステとかおしゃれなカフェやラウンジもあって、岩盤浴やホットヨガ、禁煙のダンスフロアもあったりする。いわば、リラクゼーション施設。近いものでスーパー銭湯のようなものもありますが、いわばそれの北欧バージョン。その鍵を握るのが、水色の温泉です。
 「IKEAの隣とかにあったらどうだろう...」
 日本人は北欧という言葉に弱いですから。
 「もう明日帰るのかぁ...」
 もうすぐすべてのプログラムが終了してしまう、そう思うとなかなか腰があがりません。ここからあがるとまたひとつ、ゴールまでのマス目が減ってしまうのです。
 「アイスランド語でありがとうってなんて言うんですか?」
 帰りの車内で、アイスランド語の挨拶を教えてもらいました。アイスランドの人は、当然のように母国語と英語の2ヶ国語を話します。だからほとんど英語が通じるので、前回は一度もアイスランド語を使うことはありませんでした。
 「せめて最後の晩餐は豪華にいこう」
 明日の出発がはやいので、まだ夕日が窓から差し込んでいるうちに夕食をとることにしました。プログラムも残りわずかとなったいま、その思いはすべて夕食に向けられます。ここのホテルの食事はとても美味しいと評判で、昨年もそんな印象を持ちました。アイスランド語と英語で書かれたメニューを眺めると、ある文字が目に留まります。
 「ラムかぁ...」
 アイスランドといったらやはりラムです。
 「ラムの○○ソース...」
 おいしそうなお肉が頭に浮かびました。いいかんじに骨がついて、こんがり焼けています。そして、最後の晩餐のメニューが決まりそうになったとき、別の映像が頭に浮上してきました。これまで遊んできた羊たち、川辺で地面にお腹をつけていた羊たち、そして道路に倒れていた羊。これまでたくさん見てきた羊たちの表情が頭のなかを巡ります。
 「だめだ!今の僕には羊を食べることはできない!」
 もはや、僕にとってラムを食べることは、大好きな犬を食べるようなものでした。
 「いやぁ、おいしかった」
 結局最後の晩餐は、パスタとパンとオレンジジュース。そういえば、海外にいくと必ず体感した和食恋しい病にも最近は悩まされることもなくなりました。部屋に戻ってコーヒーを飲んでいると、お腹いっぱいで眠くなり、寝る前にやろうとしていた荷物の整理は明日の朝に延期になりました。明日は4時半から朝食で、5時半に出発です。
 「これですべてのプログラムが終了した...」
 目覚ましをセットした男の唇のあいだから、深い息が漏れていきました。そして、その息はそのまま寝息にかわりました。
 「電話?!」
 目を覚ますと部屋の電話が鳴っています。誰かのかけ間違いだろうか、でもなかなか鳴り止みません。
 「もしかして、寝坊?!」
 一瞬、そんなことが頭をよぎりました。
 「リョウ起きて!まだ寝てるの?!もう出発の時間よ!!」
 しかし、時計をみると深夜1時半。どうやら寝坊ではなさそうです。
 「もしもし...」
 おそるおそる受話器を持ちあげました。すると向こうから、耳を疑うような衝撃的な言葉がでてきました。

1.週刊ふかわ |, 3.NORTHERN LIGHTS |09:01

2008年11月16日

第337回「NORTHERN LIGHTS〜アイスランド一人旅2008〜第十話 タビノニガミ」

 ただ、「ピノは4個目からが一番美味い」という言葉もあります。バニラの甘味と、もう終わってしまうかもしれないというせつなさの苦味が見事に絡み合って、さらなる美味しさにつながるからです。
 「よし、出発しよう」
 残り二日となり、旅にせつなさという苦味がでてきたその日、7時に朝食を済ませるとすぐにホテルをでました。今日の目的地は、アイスランドの東端、エイジルスタジルという場所です。アークレイリから300キロ、東京から名古屋くらいの距離です。雲の切れ間から日の光が差し込んでくると徐々にその切れ間が引き離され青空が広がってきました。まずは、去年も訪れた神の滝とよばれるゴーザフォスに寄り道です。
 「いつ見ても素晴らしいよな」
 相変わらず柵もなにもないありのまま姿の滝は、自然の美と強さを実感させ、何回見ても飽きることはありません。神が宿っているというのも、あながち迷信でもない気がします。
 「ここから未開拓ゾーンだ...」
 そしてネイチャーバスの誘惑を振り払い、昨年訪れたデティフォスの滝へ続く分岐点を越え、昨年は踏み入れていなかった道に突入しました。ただ、そこから東端の町エイジルスタジルまでは特に観光スポット的な場所はないらしく、それこそエイジルスタジル自体、外国からの観光客は少ない場所なのです。それでも僕が行きたかったのは、単にアイスランドの別の表情を見たい、それだけでした。
 「しかし、なんにもないな...」
 リングロードを走っていると、周囲の景色ががらっと変わることがよくあるのですが、ここでは牧草地帯の草がすべて食べられてしまったような、不毛な荒涼とした大地が続いていました。さすがに羊を見かける頻度も少なくなり、心細くなってきます。そのかわり、時折あらわれる赤い屋根の家や教会が、心を和ませてくれるのです。
 「虹だ...」
 前方にエイジルスタジルの街が見えてきた頃、まるでゴール地点のアーチのように、虹がかかっていました。そうです、アイスランドは、そのことにいちいちリアクションしないほど、虹が多く見られる国なのです。去年はアークレイリに降り立ってすぐ見えたのですが、今回の旅ではこれが最初の虹でした。
 街の中心部にはスーパーやレストランなどがあるものの、ほかの街と同様に、中心部をはなれるとすぐに大自然に覆われてしまいます。ただ、ここにはほかではあまりみられない森林があるところが特徴で、これもアイスランドの別の表情といえるでしょう。
 街を離れると、山の合間を縫うように静かに川が流れています。今日はのんびりしようと決めていたので川岸へおりてみると、たくさんの羊たちが遊んでいました。草を食んでいたり、眠っていたり。人間がバーベキューをしているようです。車の音がすると、地面に伏せている羊たちがゆっくりと立ち上がって警戒しはじめました。
 「なにもしないよ、大丈夫だよ」
 微妙な距離で立って見つめあっていると、しばらくして疲れたのか、もしくは思いが通じたのが、一度立ち上がった羊たちが徐々にしゃがみはじめました。地面にお腹をつけたそのやわらかそうな体はとても愛らしく、胸がきゅんとしてしまいます。しばらく僕はその光景をただ眺めていました。
 「じゃぁ、またね」
 羊たちに別れを告げ、車は出発しました。そこから東端の町、ネスコイプスタズルまでの間、いくつかのフィヨルドに遭遇します。そこは、ほかのフィヨルドに比べ、荒々しいというよりむしろ静かで美しいという印象をうけます。波音のしない、まるで湖のようにぴたーっと時がとまっているかのような入り江は、ここで生活する人々の心を穏やかにすることでしょう。そして、アイスランド特有の細長いトンネルを抜けると、その街はありました。
 大地に両足をしっかりとつけるようにいくつもの虹がかかっています。自転車に乗った子供たち。地元の人たちが集う喫茶店。こんな東の果てにも当然、人々の生活はあります。アスファルトに包まれた街で暮らすのと、自然の中で暮らすのと、どちらが豊かな生活なのでしょう。欲望に振り回された生き方、自然とのかかわりを大切にする生き方、喜びの価値観はきっと違うはずです。お金のかかる幸福、かからない幸福、うばわれる幸福、うばわれない幸福。刺激をもとめる生活、穏やかさを求める生活。たとえば40歳くらいになって、ここで生活したらどんな気分だろう、そんな想像もふくらみます。
 街を抜け、車を降りて海岸線を歩いていくと、そこにも「地の果て」がありました。2日前はアイスランドの西の端、そしていまは東の端にいます。右手のひらの親指の先。小指の先から親指の先まで横断してきたわけです。
 「ここで朝日をみたら最高だろうな」
 サンセットを見たらサンライズもみたいものですが、それは諦めなければなりませんでした。というのも今日はもうひとつ、予定があったからです。
 「またいくの?」
 「悪い?」
 「だって昨日はいったじゃんか」
 「昨日は昨日、今日は今日。それに今日は天気がいいからきっといいものが見られる」
 エイジルスタジルとアークレイリの中間地点にあるネイチャーバスは22時まで。そこで、日が沈む光景を眺めながら温泉にはいりたかったのです。車はゴムで引き戻されるように、西へと戻っていきました。
 「間に合った...」
 遠くの大地に沈む夕日が水色の温泉を照らし、あたたかい海に浸かっているようです。太陽の美しさはきっと人類共通の価値観なのでしょう。サンセットを眺めながらはいる水色の温泉、楽園にいるような、極上のチルアウトタイムになりました。
 「来年もまた...」
 太陽が沈み、それに吸い込まれるようにゆっくりと光がフェードアウトしていきます。徐々に家々に明かりがともりはじめ、昼間のそれよりもいっそう牧歌的な光景が広がります。昨年は日没後の運転を控えていたのですが、これまでの経験が僕の運転時間を引き延ばしたわけです。薄明かりのなか運転していると、前方に黒い物体が見えました。羊の死体ではないので安心してください。
 「もしかして...」
 僕はすぐに、あることを思い出しました。それは昨年のことです。
 「なんだあれは...」
 温泉帰りの長い坂道を下っていると、横からなにか黒い物体がものすごい勢いで向かってくるのが見えました。
 「犬?」
 黒い犬が牧草地帯を走り抜けてきます。
 「まさか、飛び出してこないよね?」
 しかし、その犬はスピードをおとすことなく、まるで僕の車にぶつかりにくるように走ってきました。
 「ぶつかる!!!」
 ブレーキを思い切り踏み込みました。
 「え?」
 犬の姿がありません。なにかと衝突した音もありません。ただ、ガラス越しに犬の声がします。
 「びっくりした...」
 その犬は、車の後ろから吠えていました。「遊んで」といわんばかりに飛び跳ねて、車の周りで吠えています。おそらく、車が通ると嬉しくて走ってくるのでしょう。それにしても、あまりにぎりぎりで走り回るので、ドライバーがハンドルをきって轢かれてしまわないか心配になります。
 「あのときの犬か?」
 前方の黒い物体が徐々に見えてきました。今度はあらかじめスピードをおとしています。
 「いた!」
 それはやはり、昨年僕の車に突進してきた犬でした。あのときの犬が、通り過ぎる車を待ち伏せするように道路脇で待っています。当然犬はなにもわかっているはずもないですが、僕にとっては一年ぶりの再会です。
 「おー、元気だったか!」
 窓をあけると、逆に怖がって吠えません。通り過ぎる車ばかりだから、車をとめてぐいぐいこられるバージョンにはまだ対応できていないようでした。それでも、一年前に見たあの犬がいまでも元気にしている姿に嬉しくなりました。
 「じゃぁね、また来年!」
 意表を突かれたような様子の黒い犬が、鏡の中で小さくなっていきました。やがて光のフェードアウトが完了すると、すっかり周囲は暗くなり、両脇の反射板が光りはじめました。
 「あと一日か...」
 アークレイリに戻ると、街明かりが夜空を照らしていました。

1.週刊ふかわ |, 3.NORTHERN LIGHTS |09:14

2008年11月09日

第336回「NORTHERN LIGHTS〜アイスランド一人旅2008〜第九話 無意識の記録」

 「それにしても、どうしてこのCDにこだわるの?」
 「だって、好きな曲を聴くほうがいいじゃない」
 車は温泉に向かっていました。
 「別に音楽なんてなんでもいいじゃんって思うけど」
 「なんでもよくないよ」
 「どうして?」
 「どうしてって、わからないかなぁ」
 オーディオの音量を少し下げました。
 「たとえばさ、みんな旅行行くときはカメラを持っていくでしょ」
 「うん」
 「言ってみれば、それと同じ様なものだよ。僕にとってこの一枚のCDは」
 「カメラと同じ?余計わからなくなったけど」
 そんなふうに疑問に思う人もいるでしょう。別にCDなんてなんだっていいじゃないか、それこそなくったってなんの支障もないじゃないかと。しかし僕にとって、今回の一人旅でCDを忘れてしまったことは、カメラを忘れてしまうようなこと、いや、それ以上に重大なことだったのです。極端にいうと、カメラかCDのどちらかを置いていけといわれたら、もしかするとカメラを置いていったかもしれない、それほどなのです。
 「カメラよりも大切?」
 「うん」
 なぜなら音楽は、カメラでは捉えることのできない範囲まで記録してくれるからです。
 おそらくこれを読んでいる人のほとんどが、昔聴いていた曲を久しぶりに聴いたときの感動を体験していると思います。音楽が、当時の光景や気温、空気、すべてを再び実感させてくれるのです。一方で、懐かしいアルバムを眺めていると、それはそれで当時のことは蘇るものですが、それはどこか映像的なものだけで、体全体で感じていたディテイルまでは実感しがたいのです。つまり音楽は、一枚の写真ではできない、まるでタイムスリップしたかのような感覚を与えてくれるのです。たいていの場合、この実感は偶然的に遭遇することが多いのですが、それを意図的・計画的にやってみよう、ということです。アイスランドで感じたことを、こうして言葉で綴ることも大事だし、写真に収めることも意味はあります。それと同じように、旅をしながら音楽を聴くことで、僕が目にした光景、空気、温度、すべてが音に刷り込まれていくのです。
 そしてもうひとつ、カメラとの決定的な違いともいうべき大事な点があります。それは、レンズを向けていないところがおさめられる、ということです。これがとても重要なのです。
 写真を撮る場合、おそらくほとんどの人が、撮りたいものを撮る、撮りたいものにレンズを向ける、という方法を選ぶでしょう。撮りたいものがあるのに、あえてそれが映らないところにレンズを向けるというような奇抜な撮影法が仮にあったとしても、それは観光のスナップには向いていません。だからどうしても、撮った写真をあとで見たときに、「あ、こんな場所いったなぁ」「ここの景色よかったなぁ」と、当然一度レンズを向けたものしかでてきません。
 これに対し音楽の場合、レンズを向けていない部分、つまり意識的に「あ、ここ写真におさめよう」と思った光景以外の瞬間が、音に詰め込まれていくのです。だから、旅を終え、いつかこの音楽が流れたときに、「あ、この写真とった」ではなく、自分でも思いもよらぬシーンが、無意識に感じていた光景が、ランダムにフィードバックされるです。カメラが意識したものを記録し、音楽は無意識を記録してくれるのです。そのための音楽を、僕は連日選んでたわけです。
 「まぁ、なんとなくわかったけど」
 「人間って素晴らしいでしょ」
 ただそのとき、予想とは違うことが起きていました。車の中で聴いている僕の頭の中には、ヘッドホンで聴いていたときに刷り込まれた光景が浮かびはじめていました。旅の途中にして、数日前の出来事がもう思い出に変わりはじめていたのです。これはある意味嬉しい誤算でした。
 「あれだ!」
 そしてちょうど、CDRが終了するころ、今日の終着点が見えてきました。地面から勢いよく白い煙があがっています。昨年も訪れた温泉、ミーヴァトン・ネイチャー・バスです。
 アイスランドには、レイキャヴィクにブルーラグーンという巨大温泉があり、そこはアイスランドを訪れた人は必ず行くのに対し、ここの温泉はそれほど有名ではありません。それだけ、巨大な温泉にたった一人ということもあり、地球の最後の一人になってしまったような感覚を味わえるのです。それで昨年同様、まだ有名になっていないだろうという願望も込めて、今回のプランに組み込まれていました。
 「きれいになってる...」
 多少設備があたらしく改装されていました。秘密の場所が徐々に知られてしまう寂しさはありますが、少なくとも改装中じゃないだけよかったのかもしれません。脱衣所で全身を洗ってから外にでると、濡れた体を冷たい空気が覆います。その凍えそうになった体を、水色の温泉がやさしく包み込んでくれるのです。
 「明日は晴れるといいけど...」
 冷たい雨が顔面にぶつかってきます。頭が凍りそうになるのでときおり頭をもぐらせながら浸かっていると、長旅の疲れもみるみるうちに抜けていきます。しかし、このときすでに、僕の頭の中ではカウントダウンがはじまっていました。数日後に帰らなくてはならないという意識が芽生えていました。ピノでいう3個食べたあとの心境です。人はそのとき、なにかが終わる、ことの終わりを感じはじめるのです。5泊7日の折り返し地点は、僕を少し感傷的にさせました。

1.週刊ふかわ |, 3.NORTHERN LIGHTS |09:22

2008年11月02日

第335回「NORTHERN LIGHTS〜アイスランド一人旅2008〜第八話 別れの情景」

 出発して8時間が経過しようとしていた頃、ようやく見覚えのある町並みが見えてきました。長時間のドライブだったとはいえ、飛行機であれば20時着だったところ、見知らぬ景色を見ながら15時に着いたのだから、悪くない選択だったかもしれません。
 昨年訪れて以来すっかり僕を虜にしてしまったその町は、アークレイリと呼ばれるアイスランド北部の町です。レイキャビクに次ぐ2番目の町なのですが、それでも人口は1万5千程度。ちなみに夏は太陽が沈まなくなり、ミッドナイトサンシティーとも呼ばれます。実際、昨年の滞在日数で考えると最も長くいた場所で、僕にとってはレイキャビク以上に馴染み深く、愛着のある町なのです。人口の8割が集まるレイキャビクは交通量が多いのに比べ、水辺にあるこの街はとても静かでいつも落ち着いています。水の近くであることが、この町の人々の心を落ち着かせているのでしょう。
 ここから1時間ほど車を走らせると、巨大な滝や温泉にであうことができます。「巨大」は温泉にもかかっています。見知らぬ場所もいきたいけど、昨年の感動をもう一度味わいたくて、早い段階から今回の旅のプランにはいっていたのです。これまでの数百キロの道のりも運転できたのも、ゴールに温泉があるからでしょう。でも、その温泉に行く前に、僕にはやるべきことがありました。
 「疲れたぁ...」
 「そうだよね、さすがに8時間だもんね」
 「やっぱりそんな経つのか...」
 「でも、もう大丈夫、安心して」
 「安心?」
 「そうだよ。もうゆっくり休めるから」
 車はガソリンスタンドにはいっていきました。
 「どしたの?まだぜんぜん残ってるのに」
 「わかってる。でも満タンにしないといけないから」
 「しないといけない?」
 給油を終え、運転席に座ると僕は、真剣な表情で彼に伝えました。
 「君とは今日でお別れだよ」
 「お別れ?」
 「あぁ、そうだ」
 「え?どして急に?」
 「わかるだろ、もう君とはやっていけないんだ」
 「やっていけないって、なんで?ここまで楽しかったじゃない!」
 「だって、CDが聴けないんだもの」
 「そんなのどうでもいいじゃんか!ヘッドホンだってあるんだし!」
 「どうでもよくないんだよ!!」
 その言葉に彼は黙りました。
 「ごめん、大きい声だしちゃって...でもやっぱり俺、CDが聴きたいんだ。ヘッドフォンじゃぽろぽろ落ちちゃうし、音圧も弱くなる。もっと体で感じたいんだよ!」
 「そんなぁ...」
 「だから君とは...この街でさよならだ」
 「この街で?」
 僕は黙って頷きました。
 「...それで、どうするの?」
 「新しいパートナーを見つけるさ」
 「ここで別れたら、乗り捨て料金かかるよ」
 「わかってるよ。いくらお金がかかっても、車でCDが聴きたいんだよ。大きいスピーカーで聴きたいんだよ。だから...」
 「だから?」
 「ありがとう...」
 エンジンのかかる音がしました。車はスタンドをはなれ、レンタカーオフィスにはいっていきました。
 「すみません...」
 奥から若い男の人がでてきます。
 「あの、ここで借りた車ではなくて...」
 レンタルしたイーサフィヨルズルのオフィスに夕方返す予定だったことと、引き続き借りたいこと、そして、できることなら...。
 「車を替えたいんですけど」
 僕はおもいきって気持ちをつたえました。こんなにも気持ちをこめて「change」を発音したことがあったでしょうか。
 「つまり君は、あの車をイーサフィヨルズルから乗ってきて、引き続き乗りたいけど車は替えたい、ということなんだね。わかった。でも、車を替えたいというのはどうしてだい?」
 「それはですね...」
 CDが聴けないこと、そしてそのことがいかに重要なことか伝えました。
 「CDが?」
 「そうなんです、デッキにはいらないんです」
 確認をしに車に向かう彼の後についていきました。
 「なんか中にある鉄のシャッターみたいのが閉まってるんですよ」
 車内では、アイスランド人と日本人がCDの挿入口を見つめています。そして彼は持ってきたCDを挿入口に向けました。
 「あ...」
 CDは彼の手元からはなれ、なんの滞りもなくすーっとはいっていきました。
 「え?!」
 僕は目を丸くしました。スピーカーからしっかりと音が流れています。
 「嘘でしょ...」
 「問題ないみたいだね」
 「いや、違うんです!ほんとにはいらなかったんです!」
 それは単純なことでした。なぜか、日本では見かけない「load」ボタンがあり、このボタンを押さないとCDがはいらず、拒絶してしまうのです。
 「ったくほんとにおっちょこちょいだなぁ」
 「っていうか、自分の車のことなんだからそれくらい知っておいてよ」
 結局パートナーは替わることなく、旅を続けることになりました。
 「よし、じゃぁ出発だ」
 「え?まだ走るの?ちょっと休もうよ」
 「だめだよ!温泉に間に合わなくなっちゃう!」
 そして、遂にそのときが訪れました。念願のオリジナルコンピレーションCDがようやく輝くときです。僕の指がロードボタンにふれると、鉄のシャッターが開放され、ニンジン嫌いの子供が突然ニンジンを好きになったかのように、そこからCDがすーっとはいっていきます。そして、スピーカーから音が流れてきました。
 「やっぱりヘッドホンよりいいよ」
 この状態をどれだけ待ち望んだことでしょう。すべてが、すべての汗の結晶がいま、音になって僕を包んでいました。車はアークレイリの街から離陸するように、坂を登っていきます。鉄のカーテンに無理矢理ねじこんでいたために周囲がガリガリになった痛々しいCDがデッキの中で回転していました。

1.週刊ふかわ |, 3.NORTHERN LIGHTS |09:23

2008年10月26日

第334回「NORTHERN LIGHTS〜アイスランド一人旅2008〜第七話 カナシミノムコウ」

 その日は、昨日の青空を覆い隠すように、朝からどんよりとした雲が広がっていました。のどかさと雄大さとダイナミックさが融合されたアイスランド特有の風景が、もやに包まれていっそう幻想的になります。
 「昨日と同じ道とは思えない」
 途中まで昨日と同じ海岸線なのに、夏のそれと冬のそれの違いくらい別のタイミングで来たかのようです。お腹空いていないと言ったものの、朝から散歩をしていたせいか、さっそくサンドイッチをほおばりながらアイスランドの朝を走り抜けていました。
 「あれ...」
 遠くに羊らしき姿が見えます。羊はそれまでもいたるところで見てきましたが、どうも様子が違いました。いつもなら車が近づくとよけるのに、動く気配がありません。車に気付かないほど熟睡しているのかとも思いましたが、通常3頭単位で動いているので一頭だけというのも気になります。しかも道路脇でなく、道の中央に。
 「おかしいな...」
 やがて僕は、その羊が眠っているのではないことに気付きます。道路の真ん中に一頭の羊が倒れていました。呼吸もなく、目を開き、口を開けたまま。
 胸をしめつけられる思いでした。いたるところで放牧されているから、道路を横切る羊をひいてしまう事故があるとは聞いていたものの、実際運転してみると、よほど乱暴な運転や夜中などでなければ、そのようなことはないように思っていました。そんな乱暴な車が走っていたのか、もしかしたらこの羊は夜中にうろうろしていたのかもしれません。
 車を降りてしばらく呆然と見つめていました。しかし、これ以上どうすることもできません。羊の死体を素手でつかんで道路わきに移動させる勇気もありません。僕にできるのは、ただ、ほかの車が轢いてしまわないことをひたすら願うだけでした。うしろめたい気持ちと、そうするしかできなかったという罪悪感に襲われながらアクセルを踏みました。もしも自分がひいてしまったら、きっと、一生頭からはなれず、アイスランドにはもういかなくなっていたかもしれません。羊への愛着が強かっただけに、この光景は激しく心に刻まれました。
 やがて海岸線を抜けると、ガソリンスタンドが見えてきました。アイスランドのガソリンスタンドは無人のセルフタイプが多く、カードであれば24時間使用できるようになっています。
 「あれ、どうやってやるんだっけ?」
 一年ぶりの機械に、使い方を忘れていました。都市部ならまだしも、めったにみかけないガソリンスタンドなので、ここで給油できないといつ遭遇できるかわかりません。無理してガス欠にでもなったら、東京のようにどうにかなるものでもありません。そして、途方にくれる準備をしようとすると、ちょうど一台の車がはいってきました。
 「すみません...」
 運転席に女性が乗っていました。
 「使い方を教えてもらいたいんですけど」
 「いいわ、カードは持ってる?」
 彼女は僕に説明をしながら機械を操作すると、雨の中、給油までしてくれました。
 「ありがとうございます!」
 こんなちょっとしたやりとりも、旅の途中だととても印象的なシーンとして記憶されます。車と同じ様に、心も満たされていました。
 「あの人が来なかったらどうなっていたことか」
 滅多に車とすれちがわない場所で、たいして待たずに済んだのはとても幸運なことでした。しかし、ガス欠の危機は回避できたものの、別の危機が迫っていました。
 「これは大丈夫か」
 山をのぼると、一気に視界が悪くなりました。深い霧に覆われて、まるで雲の中に突入する感じです。晴れていれば見晴らしのいい道なのだろうけど、すっかり霧に覆われてほとんどなにも見えません。カーブに気付かず直進してしまえばそのまま山から転げ落ちてしまいます。
 「ちょっと、ぜんぜん見えないよ」
 「わかってる、だからゆっくり走ってるでしょ」
 車はゆっくりと進んでいきました。さすがにこのときばかりはヘッドホンをはずしています。そして慎重に走ること1時間。(あんなに深かった霧が嘘だったかのようにすっかり晴れてきました。)ようやく霧を抜けるとそこには、小さなかわいらしい街がありました。それまで反射板だけだった道路脇に街灯が並んでいます。
 「ここで一休みしよう」
 アイスランドには、全長1500キロほどの道路が円を描くように走っています。それがリングロードと呼ばれる1号線なのですが、ほとんどアスファルトでできていて、それに乗って走れば迷うことなく一周できるのです。渋滞も、信号で停められることもなく、気分のまま走れることは東京では考えられません。出発したら自分の意思がないかぎり、停車することはないのです。
 僕がいた北西部は、そのリングロードの左斜め上で、たどり着くまでかなりの距離があります。そのリングロードにぶつかる少し手前に、その町はありました。
 それは、ブーザルダールルという小さな街でした。通り沿いにあるスーパーにはちょっとしたラウンジがあり、ラウンジマニアである僕としては、入らずにはいられません。さすがに日本のようにラーメンやらお好み焼きやらがあるわけではないですが、ちょっとしたファーストフードがあり、なにより、この地域で生活しているかのような感覚になれるのが、とても好きなのです。
 「チーズバーガーとポテトと...」
 迷ったらポテトを頼め、これは海外経験をつんだ結果うまれた言葉です。ポテトはどこの国で食べてもはずれはなく、たいがい美味しく感じるものなのです。だから、冒険することも時には必要ですが、へたに冒険して味覚の違いに打ちのめされるよりは、ポテトを注文したほうが無難なのです。
 また、日本ではなんてことない買い物も、海外だとそのつど緊張や不安が伴い、それだけひとつの買い物ができたときに達成感があります。たかが「フライドポテト」や「水」の一単語がまったく通じず、一苦労したこともありました。それだけに、自分の思い描いたとおりのものがでてくると、ものすごい満足感が得られるのです。
 ラウンジの窓から日が差し込んでいます。お昼時ということもあり、徐々にお客さんも増えてくると、観光地でもない小さな町を訪れた見知らぬアジア人を、皆、物珍しそうに見てきます。
 「そろそろ出発しよう」
 またいつか訪れる日が来るのだろうか。もし訪れたとき、どんな気分になるのだろうか。なんてことない小さな町も、しっかりと旅人の心に刻まれます。帰り際に注文した海外サイズのソフトクリームが指までたれてきそうなのと格闘しながら、その町をあとにしました。ブーザルダールルは太陽にきらめくアクセサリーのような町でした。

1.週刊ふかわ |, 3.NORTHERN LIGHTS |09:50

2008年10月19日

第333回「NORTHERN LIGHTS〜アイスランド一人旅2008〜第六話 サンドイッチの朝」

 「4時かぁ...」
 ヨーロッパに行くと必ずそうです。時差ボケでやたら早く起きてしまい、いつも朝食までの時間を持て余すのです。もう一度寝ようとしてもどうも眠くならず、ホテルの周辺を散歩することにしました。
 昼間は10度近くまであがるものの、朝晩はかなり冷え込み、手袋が恋しくなります。日が昇る気配もなく、ただ一本の街灯が暗闇を薄めています。湾の向こう側にはパトレクスフィヨルズルという町があり、その街明かりがぼんやりと浮かんでいました。娘さんが言うにはそこが一番近い街で、往復1時間半かかるそうです。5分でコンビニにいける世界ではありません。空は灰色の雲で覆われ、いまにも泣き出しそうです。羊や馬たちはまだ眠っているようで、ただ波の音だけが時折きこえてきます。
 「今日はどうしようか」
 特にきっかり予定を決めていなかった僕は、夕方の飛行機で昨年訪れたアークレイリという街に行こうと思っていましたが、なんだか無性に車で行きたくなってきました。というのも、その場所への直行便はなく、一度レイキャビクを経由しなければならず、また、来た道を戻るよりも見知らぬ地を通過したいからです。たとえば大阪から金沢にいくために、一度羽田によらなければならないのなら、大阪から金沢まで車で行ってしまおう、みたいなことです。さらに、アークレイリの先にある温泉にはいるには夕方の飛行機だと間に合わなくなる可能性もあり、それこそ悪天候で飛行機が飛ばなくなる恐れだってあります。
 とはいえ、実際予想される距離は大阪から金沢どころの話ではありません。500キロ近くあるのでおそらく車で7,8時間はかかるでしょう。となると、朝食までじっとしているこの状態がいてもたってもいられなくなります。これが10日間くらいの旅であればのんびりもできるのだけど、今回の日数だとどうしても無駄にしたくないという思いが強くなるのです。
 「よし、出発しよう!」
 そして旅人は荷物をまとめはじめました。朝食を待たずに出発することにしたのです。外は明るくなってきたものの、誰も起きている気配はありません。まるで夜逃げするように荷物を車に運んでいると、お見送りするかのように、3頭の羊が山から下りてきました。
 「これでいいかな...」
 入り口の机に置手紙と宿泊代金を置き、車に向かいました。しかし、どうも心がついてきません。体はチェックアウトできても心がだめなのです。昨晩、時間をともにした人たちに黙って出ていっていいのだろうか、挨拶せずに帰っていいものだろうか、そう思うとエンジンをかけることもできません。そんな自問自答をしていると、建物から食パンを抱えた娘さんが出てきました。
 「おはようございます!」
 早起きに驚いた様子でした。
 「あの実は、急遽予定を変えて、もう出発することにしたんです」
 そして、お金を置いたことを説明しました。
 「そうなの?わかったわ。ところで、朝食は?」
 「あ、大丈夫です、そんなお腹すいてないですし」
 「いいわ、つくってあげる」
 「いや、大丈夫ですって!」
 僕の言葉が言い終わる前に彼女は厨房へはいっていきました。冷蔵庫の開く音や包丁の音が聞こえてきます。そして5分もたたないうちに彼女は戻ってきました。
 「はい、これ持っていって」
 それは、茶色の食パンで作った、ハムとチーズのサンドイッチでした。
 「ありがとうございます!ここに泊まってほんとによかったです。あと...」
 続けて言いました。
 「手紙にも書いたんですけど、昨日一緒に食事をしたアメリカ人の夫婦にも...」
 「もちろん、伝えておくわ」
 そして二人で写真をとると、握手をかわし、また来ることを約束しました。
 「やぁ、おはよう!」
 サンドイッチを手にして車に戻ると、その横で荷物の整理をしている男性がいました。
 「早起きだね、どこかいくのかい?」
 昨日一緒に夕食を食べた男性です。僕は彼女と同じ様に、経緯を話しました。
 「そうか、もう出発か。あ、ちょっと待ってな」
 写真が趣味という彼は車の中にもぐりこむと、中から三脚つきのカメラを取り出しました。
 「じゃぁそこの前に立って」
 静かな朝にシャッターを切る音が響きます。そして僕のカメラにも二人の姿がおさめられました。
 「幸運を祈るよ!少年!」
 「はい、奥さんにもよろしくお伝えください」
 「わかった、伝えておくよ。気をつけてな」
 「はい、ありがとうございます!さよなら」
 砂利道を走るタイヤの音が彼と白い建物を遠ざけていきます。
 「直接伝えられてよかった」
 うしろめたい気持ちは一切なくなりました。もしなにもいわず出発していたら、気になって途中で引き返していたかもしれません。
 それにしても、ほんの一日なのにどうしてこんなにもせつないのでしょう。人と人とが知り合うことが、どうしてこんなにも素晴らしいと感じられるのでしょう。もうあの夫婦と出会うことはないかもしれない、でも、この一度きりの出会いは一生、僕の心に残るはずです。幸せとせつなさとが涙になってあふれてきます。
 「いつかかならず...」
 沿道の羊たちは、朝食をとりはじめていました。

<サイン会情報>
本日10月19日14時〜金沢・文苑堂書店にて
「ジャパニーズ・スタンダード」のサイン会を行います。お近くの方はぜひご参加ください。

〜「ジャパーズ・スタンダード」(KKベストセラーズ刊)〜
〜     発売記念サイン会金沢にて開催!     〜

10月19日(日)14時〜 
文苑堂書店示野本店
(イオン金沢示野ショッピングセンター内)
問い合わせ先: 076-267-7007
※上記書店にて「ジャパニーズ・スタンダード」をご購入の方に整理券を配布します。

1.週刊ふかわ |, 3.NORTHERN LIGHTS |09:25

2008年10月12日

第332回「NORTHERN LIGHTS〜アイスランド一人旅2008〜第五話 レットイットビー」

 大自然に囲まれた場所に、そのホテルはありました。そもそもアイスランドではレイキャヴィクを離れると大自然に囲まれないほうが難しいのですが。ホテルのまわりでは馬や羊たちがのんびり草を食み、反対側には入り江も見えます。ホテルという名前はついているものの、その外観は一階建ての小さな箱。そこに窓がいくつかある程度で、むしろコテージやユースホステルという言葉のほうが近いかもしれません。
 キーをまわすと、エンジン音が空に吸収されていきました。経営しているのかわからないくらい、人の気配がありません。一抹の不安を抱きながら建物に向かう僕を迎えてくれたのは一頭の羊でした。「ようこそ」といわんばかりに僕を見ています。不安になるとあらわれる、羊はもしかすると神様か神の使いなのかもしれません。その姿をカメラに収めると、ゆっくり扉を押しました。
 「こんにちは...」
 中は静まりかえり、物音ひとつしません。しばらくして奥から足音が聞こえてきました。
 「あの、予約した者なんですけど...」
 出てきたのは、おもいのほか若い女の子でした。彼女は頷きながらノートを広げます。
 「リ、リ・ヨ・ウ?フッカーワ?」
 裸足のまま僕を部屋に案内すると、彼女は中の設備を簡単に説明して戻っていきました。ベッドと窓と机とランプ。とてもこじんまりした部屋は窓から牧場が望めます。7時くらいでもまだ外はあかるく、夜になる気配がありません。僕は、デジカメなどの充電をしながらベッドに横になりました。
 「はたして夕食はでるのだろうか...」
 のどかでいいものの、若干そのことが気がかりです。そういえばホテルでの朝食以来なにも食べていません。最悪、お菓子で乗り切る覚悟はしているものの、できることならちゃんとしたものが食べたいのです。旅館のように連絡がくるのだろうか、ガイドブックには食事らしきマークが記されているが、それは朝食のことなのだろうか。ほかに宿泊客がいなそうなのに、僕のためだけにつくるだろうか。
 「すみません...」
 いてもたってもいられず、再び声をかけにいきました。
 「ご希望であれば、作りますよ」
 きいてみてよかった、きかなければベビースターになるところでした。それにしてもどこで食べるのだろうか。どう考えてもレストラン的な場所は見当たりません。言い方からして、私が作りますっぽかったけど、彼女が作るのだろうか。そしたら彼女と向かい合って食べるのだろうか。そもそも彼女ひとりできりもりしているのだろうか。ほかの従業員はいないのだろうか。なんだか、いろんなことが気になってきます。
 「っていうか、何時なんだろ」
 夕食の時間が気になるものの、また声をかけたら「この日本人しつこいな!」と思われるかもしれません。そんな葛藤を繰り返していると、ドアをノックする音がしました。
 「夕食ができたので、隣の建物にきてください」
 ちょっとした別館といったところでしょうか。ホテルの横に小さな小屋のような建物がありました。中にはテーブルがいくつか並び、それぞれにオレンジ色のランプが点いていました。
 「よかった、ほかにもいる」
 一番手前に二人組が座っていました。見た感じ40代の夫婦のようです。その横のテーブルに座ろうとすると、男性の方が声を掛けてきました。
 「こんにちは、お一人ですか?よかったら一緒にたべませんか?」
 突然の誘いに一瞬とまどいました。
 「ありがとうございます...でも、英語得意じゃないですけど、いいでしょうか?」
 「全然かまわないよ、さぁどうぞ」
 そして僕は、アメリカからやってきた夫婦と3人で夕食をとることになりました。
 「アイスランドははじめてですか?」
 「アメリカからだと何時間くらいですか?」
 「日本人で知っている人はいますか?」
 お皿の上には、アイスランドの家庭料理といった感じの、とても素朴でシンプルな料理がのっています。僕が話すたびに彼らは手をとめて、しっかりきいてくれました。
 「お口に合いましたか?」
 すっかり打ち解けてきた頃、奥からおばさんがでてきました。おそらく彼女のお母さんなのでしょう。
 「おいしかったです。あの、あれって弾いてもいいんですか?」
 近くに年季の入った木製のピアノが置いてありました。
 「どうぞどうぞ」
 「なんだ、きみ弾けるのかい?」
 フタを持ち上げると、鍵盤にはいろんな落書きがされています。このホテルに昔からあるものなのでしょう。鍵盤を指で押すと、少し歪んだ音が鳴りました。
 「すごいじゃないか」
 演奏が終わると、ホテルの母娘、そしてアメリカ人の夫妻が拍手をしていました。日本からはるか遠い異国の地で、まさかこんな風にピアノを弾くとはおもいませんでした。もしかしたら、海外でピアノを弾くことは初めての経験だったかもしれません。それまでまったく知らなかった人と心を通わせられたことに、胸が熱くなります。なんにもない、ケータイもつながらない。でもなんだかすごく、心が満たされていました。
 「朝食は朝8時からです。ではおやすみなさい」
 ようやく辺りも暗くなりました。ベッドに横になって窓から空を眺めているうちに、まぶたが重たくなってきます。デジカメの充電ランプは消え、ラートラビヤルグの夜は、静かにふけていきました。

<サイン会情報>
10月19日14時〜金沢・文苑堂書店にて「ジャパニーズ・スタンダード」のサイン会を行います。お近くの方はぜひご参加ください。

1.週刊ふかわ |, 3.NORTHERN LIGHTS |09:58

2008年10月05日

第331回「NORTHERN LIGHTS〜アイスランド一人旅2008〜第四話 地の果て」

 「あと80キロ...」
 ようやく今日の目的地である「ラートラビヤルグ」の文字が看板に現れました。アイスランドの道路標識は必要最低限しかないので滅多に見かけません。それだけ混乱することもなく、ましてや普段大都市で無数の看板や交差点で鍛えられている人にとっては、よほどのことがないかぎり道に迷うことはなさそうです。それだけ、この国で運転していると、普段いかに無意識にいろんな情報を確認しながら運転しているのかを痛感するのです。
 「あと60キロ...」
 ところで先程からでている「ラートラビヤルグ」とは一体なんなのかというと、アイスランドでも特別メジャーな場所というわけではありません。ガイドブックなどを見ても必ず載っているわけではなく、なんとなく軽く触れている程度。それこそ、このアイスランド北西部というエリア自体が、「神秘的なエリア」とか「不思議な体験に遭遇するかも」、といった抽象的な表現ばかりで、明確な観光名所が提示されていないのです。僕自身、映画の舞台となっていなかったら訪れていたかわかりません。それでも今回の旅の目的にしたのは、そこで体験したいことがあったからです。
 「時間のある人は、ぜひラートラビヤルグで地の果てを実感して欲しい」
 本に書かれたこの文字が、僕をその場所へ向かわせたのです。
 「地の果てって一体どんな感じなんだ」
 ラートラビヤルグはアイスランド北西部の先端、右の手の平をひろげたときの小指の先に位置します。そこに、何百メートルにもわたる、高さ数十メートルの断崖があるのです。逆に言えば、断崖があるだけです。しかし、その崖に立ったときの感じる「地の果て」は、なかなか体験できるものではないだろうと、勝手な期待をしていたのです。
 「あと15キロ...」
 起伏が激しく、ぐんぐん登ったかと思うと、一気に下っていく、そんなことを何度もくり返します。羊を見かける頻度もだいぶ下がってきました。そして、インフォメーションの人の言うとおり、車を借りてから5時間ほどたった頃です。
 「ここだ...」
 その道の終点が訪れました。もう先に道はなく、ガラス越しに灯台らしき小さな白い建物がみえます。エンジンをとめてドアを開けると、一気に風が流れ込んできました。車を降り、ゆるやかに傾斜している地面を歩いていくと、白い灯台の向こうに海がひろがってきました。夕方5時くらいなのに太陽が真上から照らしています。周りには誰もいません。ただ、風の音と波の音とが入り混じってきこえています。
 「ここが地の果てか...」
 まるで大陸が刃物で切り落とされたような断崖がそこにありました。やはり柵もなにもありません。そこでばっさりと大陸が終わっています。あと一歩前にでたらそのまま海に転落するというところに立ち、真下を覗き込むとさすがに足がすくみます。ただ、そこはまだ一番高いポイントではなく、崖のふちに沿って歩いていくと、崖はそこから空に続くようにさらに高くなっていきます。
 「結構歩いたな...」
 ラートラビヤルグの断崖の一番高いところに僕はいました。車はもうはるか遠くにいます。崖の下からたくさんの鳥たちがものすごい勢いで飛び、もう人間の領域ではない場所にやってきたかのようです。風と海の音、太陽の光とそれに照らされた海の輝きを一度に感じられる「地の果て」は、なんだか現実と非現実の境界線のよう。人類の支配がとてもちっぽけで愚かにすら感じてしまいます。
 「これはやばいかも」
 さっそくオーディオプイヤーをとりだし、ヘッドホンをはめると、自分の息遣いが鮮明に聞こえてきました。そして音楽が流れてきます。部屋で聴くと退屈に聞こえるようなゆったりとした音楽も、こうした場所できくと見事に自然とシンクロするのです。フィルムにやきつけるように、光景や肌で感じたものを音楽の中につめこみます。いわば、極上のサンセットシーンのインストールです。
 時間があるので、しばらく崖に腰掛けて眺めていようとしましたが、突然誰かが押すかもしれないという恐怖に襲われて座っていられません。それですこし内側にはいったところに座ろうとすると、意外なものが目に飛び込んできました。
 「こんなところにも?」
 それは羊たちのフンでした。羊たちがこんなところにまで来ていたことを証明するかのように、フンが散らばっていました。もしやと思い周辺を見渡すと、とおくで羊たちが草を食んでいます。本当にアイスランドは羊の国です。羊の国に人間が住まわせてもらっているようです。
 日が沈むまで眺めていたい気分もあったものの、ほんとにそんなことしたら真っ暗な道を確実に泣きながら帰ることになるので、その前に出発することにしました。
 「どうだった?」
 「いやぁ、すごかった...」
 「すごかったって、どう?」
 「とにかく、地の果てって感じ?」
 それは確かに、言葉にならない、感じるものかもしれません。あえていうなら、人間の支配できる世界とできない世界の境界線のようなもの。地の果てをあとにした車は、ホテルを目指しました。

1.週刊ふかわ |, 3.NORTHERN LIGHTS |09:00