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2017年04月23日
第701回「言わなくてよかった〜後編〜」
その日も彼は、いつものように、いつもの位置で、いつものパスタを食べていました。
「シーザー・サラダのレギュラー」
2、3人でシェアするサイズの大きなボウルにどっさり入ったレタスに、ザクザクとフォークが刺さっていきます。穏やかのボサノバの調べ。口の中で、マラカスのように、シャキシャキと鳴っていました。そして、再び大きなボウルから小皿に取り分け用としたときです。
「カシャーン!」
鋭い金属音。手が滑って、大きなフォークとスプーンが衝突すると、その勢いで彼の手を離れ、床に落下していきました。
時間が止まりました。ウィスパー・ボイスの歌手も歌うのをやめています。
「え?こういう時、言うの?失礼しましたっていうべき?でも、客なのに失礼しましたって、どうなの?」
背中に突き刺さる視線。勇気を出して体をひねってみれば、厨房の皆がこちらを見ています。言うべきか、スルーするべきか。彼は、床に落ちたフォークとスプーンを拾いました。
「言わないんですか?3秒経ちましたけど」
後ろに店員たちが並んでいます。
「ほら、ぼ、僕は、、、客だから」
「あんなにまくし立てといて、客も店員もないでしょう?」
「忘れたんですか?先週のこと」
「あなたが貸し切りにしているならまだしも、他のお客様もいらっしゃるんですからね」
輪唱のように、次から次へと歌い始めました。
「さぁ、どうぞ!」
「どうぞ?」
「そうです、みんな待っていますから」
厨房のスタッフ、そして、他の客も彼を見つめています。
「失礼、、、しました、、、」
「はい?」
彼は、渾身の力で振り絞りました。
「失礼しました!!」
そして再び、ボサノバ歌手が歌い始めると、他の客たちも食事を再開し、いつもの会話が聞こえてきました。そのあと彼は、味覚を失っていました。
もしもあの時、店員さんに注意していたら、こうなっていたかもしれません。危うく特大ブーメランで流血するところでした。もちろん、褒められることではありませんが、あのとき言うのを我慢してよかったと、心から思う春の夕べ。ピンク色の花びらが、道路を覆い始めていました。
2017年04月16日
第700回「言わなくてよかった〜前編〜」
「言わなくてよかった…」
心から、そう思いました。
桜の花びらが空を覆い始めていたその日も、彼は、イタリアン・レストランのカウンターのいつもの場所に腰掛けていました。パスタが美味しいのはもちろんですが、車を停めやすいこと、それほど混雑していないこと、そして何より、店内に流れるBGMが、彼をこの店に向かわせました。穏やかなボサノバの調べ。しかし、その空間を突き破るように、大きな音が響き渡りました。
「ガシャーン」
おそらく、鉄系の調理器具が落下したのか、散々暴れて、激しい音を撒き散らしました。そういったことは一般的にも珍しいことではないですし、仕方のないことですが、どこか物足りなさというか、腑に落ちない気分でいました。というのも、飲食店などで大きな音がなってしまった場合は、直後に「失礼しました!」という声が聞こえてくるもの。それによって、不快な気分が緩和され、何ごともなかったかのように時間が流れてゆく。しかし、その声が聞こえてきません。たまたま聞こえなかったのか、小さな声で言ったのか、いくら待っても、この言葉が耳に届いてきません。
男は、その言葉を待ちました。3秒ルールじゃないけれど、即座に言わなければ、言葉の効力もなくなります。店員さんを呼んで、今、失礼しましたって言いました?と聞いてみようか。すると、男の耳には、別の音が聞こえてきました。それは、店員同士で楽しそうに会話している音。腹の虫がゴソゴソと動き出しました。これが動き出すと、手に負えなくなることを、彼は知っています。
「すみません、この店は大きな音を立てたあとに、失礼しましたも言えないんですか?」
頭の中で台本が作成されました。誰も得しないセリフ。しかも、これを言ったら、今後利用しづらくなるかもしれません。いや、常連客だからこそ言うべきなのか。以前、こんなこともありました。
「おしゃれにするなら、枝、入れないでください」
これだけでは意味がわからないでしょう。パスタを食べていたら、口の中で、棒状のものが暴れ出したのです。口から取り出してみれば、それは、小さな枝。パスタの飾りとして、小さな枝が盛り付けられていたのですが、あまりに照明が薄暗すぎて、気づかず口に入れてしまったのです。間接照明か知らないけれど、おしゃれに演出するのはいいけれど、さすがに暗すぎる。それに、そもそもお皿の上には、口に入れてはいけないものを置くものじゃない。ブレーキは効かず、店員さんに伝えました。冷静に。一言ネタで鍛えた、キレのあるセンテンス。こんな言葉を放って、面倒な客だと思われながらも、彼は、通い続けてきたのです。
「やはり、ここは我慢すべきだろうか。でも、言いたい。常連だからこそ、言いたい…」
穏やかなウイスパーボイスが店内を泳いでいます。これを言ったらクレーマーになるのだろうか。いや、常連客として残念に思うのだ。でも、言ったところでなんになるのか。「申し訳ございません」と言ったとしても、心の中で、「は、何言ってんの、このおっさん」となっているに違いない。男は黙って考えました。
「よし、やめよう!」
どうにか言いたい気持ちをパスタとともに消化し、お店を後にすることができました。会計のレジでもいいそうになりましたが、我慢しました。すると、その一週間後、「言わなくてよかった」と心から感じる時が訪れたのです。もしもあのとき言っていたら、僕はきっと、生きた心地していなかったでしょう。次週、お楽しみに。
2017年04月15日
第699回「大きな好きなこと、小さな嫌なこと」
さて、もうすぐ700回。ロケデラは17周年を迎えます。これらの橋を支える橋脚として、数字の役割は大きいでしょう。竹の節のように、どこかで気持ちを確認するタイミングがないと、撓ってしまうかもしれません。
継続は力なり。どこについたかわかりませんが、この週刊ふかわにおいては、頭の中の整理をしたり、アンテナを張る習慣として、位置付けられている気がします。メルマガにせよ、DJイベントにせよ、特別大きな変化もなく継続してこられたのは、これだけ多様な選択肢がある中で、僕のような不可解な人間に関心を寄せるだけでなく、応援してくれている皆さんの存在があってこそ。本当に感謝しています。お店ではいつも決まったものを注文するように、僕が変化を好まない保守的なタイプというのもあるかもしれません。そして、もうひとつ。好きだからだと思います。
やりたいことをやる。好きなことだから継続できる。もちろん、その中には、やりたくないこともあります。嫌なこともあります。でも、それらはどれも小さなもの。好きなことに比べれば、大したことではないのです。
大きな「好きなこと」の中には必ず、小さな「嫌なこと」が包含され、排除するのはとても難しく、絶対に無くなりません。いや、それらがなくなったらダメなのです。仮に、大きな「好きなこと」の中が、小さな「好きなこと」でぎっしりだったら、きっと、大きな「好きなこと」に飽きてしまうでしょう。小さな「嫌なこと」だけで構築するとは言いませんが、それらは、好きでい続けるために必要なのです。
小さな「嫌なこと」に気を取られて、大きな「好きなこと」を見失ってしまう人もいます。「もう、辞めてやる!」それでせっかく見つけた、大きな「好きなこと」を放棄してしまってはあまりにもったいない。もしも、もったいないと感じないのであれば、それは大して好きではなかったのです。
もちろん、小さな「嫌なこと」に遭遇した時は、それは巨大に感じて、押しつぶされそうになるもの。しかし、冷静になった時、それらが「取るに足らない」ことだと気づくでしょう。小さな「嫌なこと」は、いわば、スープを美味しくするためのスパイスなのです。
「別に死にやしねぇ」
どんなに嫌なことでも、別に死にやしない。そう感じられる精神こそが、逞しさ。僕自身、逞しくなった部分もあるかもしれませんが、相変わらず繊細なスーパーデリケートゾーンもあります。これはもう、どうにもなりません。大切なのは、己を知ること。自分のキャパシティーを知ること。そのためには経験しかありません。考えていたってしょうがない。書を捨て、旅にでよ。スマホを置いて、外へ出よ。大切なのは、情報じゃない、経験が全て。経験につながるきっかけを与える人物こそ、影響力のある偉人と呼べるでしょう。行動あるのみ。考えることは大切だけど、どうにかなるさと、とりあえず動いてみる。
小さな「嫌なこと」なんて、あって当たり前。それらをくぐり抜けてこそ、素晴らしい光景に出会えるもの。なのに僕らは、日々、情報ばかりを浴びて、小さなことばかりに囚われてしまう。大きな感謝を忘れ、小さな不満ばかりが目立ってしまうのは、紛れもなく、今、平和だからでしょう。幸せだからでしょう。そのことに気がついていないだけ。僕たちは大きな幸せの中にいる、そう信じています。
第698回「素敵なウィークエンド」
ということで、週末は少し余裕ができそうです。金曜日の5時夢と土曜日のラジオがなくなった分。これから全国各地を飛び回って、いろいろなところでDJができそうです、と言ってもいいのですが、おそらくそういう感じにはならないでしょう。現に、4、5月は地方イベントをいれていますが、これらは以前からお願いされていたところ。そこから先は、積極的にクラブイベントで週末を埋めて行く心算はありません。20代の頃であればガンガン攻めていたかもしれないですが。では、クラブイベントに行かず、週末はどこにいるのでしょうか。
「週末は、山梨にいます」
僕が観光大使を務めている山梨県のかつてのキャッチコピー。都心から数時間で壮大な自然に囲まれる場所、やまなし。ほうとう、温泉、馬刺し。これから週末は、大好きなサービスエリアを経て、山梨で温泉ざんまい、なんてのいうもいいですね。牧場の搾りたての牛乳にソフトクリーム。新緑、そして初夏の香り。山の稜線を眺めながら、ひたすらぼーっとする時間。やがて、蝉の鳴き声も聞こえてきて。まさに、週末を過ごすには最適な場所。
そこまで通うのなら、いっそ別荘でも購入して、毎週末を山奥のロッジやバンガローで過ごすのもいいですね。川で釣った魚を焼いて、焚き火なんかして。バンガローから眺める夜空は東京のそれとは全く違うでしょう。なんせ、「バンガロー」と言いたい。もう最高じゃないですか。山の中で好きな色、好きな音に囲まれて。何もしないでぼーっと過ごす、穏やかウィークエンド。週末だけならいいですが、あまりに心地よくて、そのまま隠居生活に入ってしまいそうです。
隠居するには早いですが、プレミアム・フライデーのように、徐々に週末の範囲が広がり、仕事と休暇の割合が変わってしまうかもしれません。どこからが平日で、どこからが週末か。僕が陶芸を始めたり、アマゾンで作務衣を購入したら、それはバランス崩壊の始まり。もう誰にも止められません。やがて、羊たちに囲まれて、アイスランドで始める前の予行演習。そこに大きなリンゴが落ちてきたら、もう、東京に戻ることはなくなるでしょう。
きっと、すぐにはできそうにないですが、こんなことを想像しているだけでも楽しいものです。実際、山梨以外にも素敵な場所はたくさんありますし。いつしか訪れる、穏やかウィークエンドは、これまでと違う景色を眺める有意義な時間になることでしょう。まずは、全国各地で酔っ払いながらDJを楽しんできたいと思います。
第697回「明日の景色が変わる夜」
「明日の景色が変わるかもしれない」
本編ではおそらく口にしたことはないと思いますが、番組の宣伝の時に僕が勝手に付け足したフレーズです。
新しい価値観に出会った時、新しい何かに気づいた時、人は、それまで生きていた世界がまるで違って見えることがあります。だから、世界を変えようと思うなら、自分が変わればいい。そうはいっても、自分を変えることだって決して容易ではなく、なかなかできることではありません。しかし、考え方を変える、別の視点を持つことは、それほど難しい事ではないはず。自分と違う価値観に触れることで、常識や先入観、固定観念を粉砕し、視界がクリアになる。そもそも、視界が曇っていることにすら気づかないでいることも多く、今までこんな曇ったメガネをかけていたのかと、驚くのです。日常が、これまでと違って見える。明日が違って見える。そんな思いで番組にのぞんでいました。
色々な考え方がある。いろんな人生の登り方がある。相槌を打ったり、咀嚼したり、聞き手に徹していたので、これまでの番組とは与えられた役割が違いましたが、なかなかお会いすることのない方達を招いて生の声に触れる機会は、とても貴重な時間でした。こだわりを持った人や独特な考え方に出会えたことは、僕自身にとって本当に財産だと思っています。正直、どのリスナーよりも僕が一番、得るものが大きかったと思います。
また、3人で展開するスタイルも新鮮で、僕だけでは気づかないことや拾えないこと、別の角度から切り込んでもらうことで、番組がより立体的になりました。3人だから生まれる空間がありました。
ダイバーシティー。多様化。その一方で、少数派のエゴが目立っている昨今、本当のダイバーシティーとは何か。それぞれが主張しあうのではなく、尊重しあう社会になればいいなと思っています。「違い」を認め合う世の中。日本は島国ということもあり、「違い」に対して怖れを抱いてしまいます。目には見えない壁が、日常の中にたくさんある気がします。そういったものをなくすのは、やはり、ひとりひとりの意識。各々の考え方が変わらなければ、世の中は変わらないのです。
Othersは、どこか、ロケットマンショーの答え合わせだった気がしています。当時は憶測で話していたことが、的確な言葉で解説されていくような。そして、Othersにやってくる人たちは皆、好きなこと、自分に素直に生きている人たちばかり。まさに、「自分に嘘をついていない」人たちでした。
土曜の夜。リスナーやスタッフを含め、たくさんの出会いに感謝しています。ここからはまた、別の船でこぎ出さなくてはなりませんが、ここで手に入れた羅針盤があれば、どんなに荒れた海でも渡っていけると思います。これまで聴いてくれた皆さん、本当にありがとうございました。
第696回「素敵なプレゼント」
「つまり、ジュノンボーイがお盆ボーイになったわけですね!」
このウィットに富んだ素晴らしい一言でスタジオはもちろん、全国のお茶の間が爆笑の渦に包まれました。
ということで、ご存知の方も多いと思いますが、4月から5時に夢中!の金曜日を「お盆ボーイ」こと、原田龍二さんが担当することになりました。そうです、僕は月曜から木曜日の担当。一曜日減ってしまうわけですが、厳密にいうと、もともと四曜日だったので、元に戻るカタチです。
「お盆ボーイに奪われた!あんとき、潰しときゃよかった!」
なんて言いましたが、本音は少し違います。奪われたにせよ、元に戻るにせよ、正直、とてもいいと思うのです。このタイミングで新しい風が吹くことが。
というのも、年末の特番で再ブレイクし、ゲストにも登場した際の親しみやすく嫌味のない人柄。また自作ポエムで独特な世界観を披露。年齢的にも落ち着いていて、それでいてセクシー。つまり、文句なし。さらにR1グランプリでの本家の優勝がさらなる追い風。芸能人って、こういう流れ、とても大事なのです。もはや、ぐうの音も出ないとはまさにこのこと。これが別の人だったらまた違う印象を抱いていたのかもしれませんが、この好采配に、もはや拍手を送ってしまいます。さすが、我らがプロデューサー。僕をMCに迎えただけあります。
僕自身は2ヶ月ほど前から通達されていたわけですが、完全交代をイメージしていたからか、すんなり受け入れられました。原田さんが加わることで、番組全体が勢いを増し、なんと言うか、船自体が大きくなると思っています。これできっとこの船は今まで以上に素晴らしい船旅を続けることになるでしょう。個人の利益よりも全体の利益。なんて番組思いのMCなのでしょう。
4月からは栃木テレビでもネットが開始され、6月末には放送回数3000回を迎えるようです。2000回にお客さんを入れて放送した記憶があるので、少なくともあれから1000回。正直なところを言うと、もう、おまけの期間だと思っています。これからどれくらい続けさせていただくのかわかりませんが、プロデューサーが卒業する出演者になんらかのプレゼントを渡しているのをこれまで見てきました。僕は、この4月からの期間こそ、卒業プレゼントだと思っています。
番組の性質上、MCはある程度したら次のランナーにタスキを渡すことになります。これまでの例を見れば、もうとっくに次のランナーに渡していてもおかしくないわけですから。ここからはまさしく、おまけ。最高のプレゼント。だからと言って手を抜いたりするわけではないですが、これまで以上にリラックスしてできるかもしれません。ということで、4月からも5時に夢中!をよろしくお願いします。
第695回「三月の風」
今思えばとても不思議なことでした。被災地でレンズを向けてきた旨を伝える言葉と、まるで生まれたばかりの子犬達を託すかのように、たくさんの画像が番組宛てに送られてきたのは、まだ大きな揺れを時折感じていた頃。
僕自身も、何ができるかわからないまま実際に足を運んでみたものの、レンズを向けることはできず、ただ、ぼーっと眺めるくらいしかできませんでした。
心の中に溜まった感情のようなものは、どこにも向けられないまま。しばらくさまよったのちたどり着いたのはやはり、鍵盤の上でした。感情のままに形になった音に、誰が撮影したのかわからない写真を並べました。
「永遠と一日」
この曲が何をしてくれるわけではないけれど、あのとき抱えていた感情のようなものを置く場所が欲しかったのかもしれません。だから、いま、この曲を聴くと、いろんなことを思い出します。いろいろなことが蘇ってきます。
僕が直接感じた大きな揺れは東京でのそれでしたが、あの日見た光景や、あの日を境に人々の心が大きく変わっていったこと。やがて「不謹慎」が猛威を奮い、何が正しくて何が正しくないのかわからなくなったこと。あの丘の上に立った時に、鼻をさした匂いまで。役に立ちたいけれど、役に立たない自分。いかに普段の仕事が、平和という基盤の上に成り立っているのかを痛感する日々。その時に出した答えは、生きていくことでした。
「それでも僕たちは生きてゆく」
あれから月日は流れ、それぞれがそれぞれの想いを抱えて、311を迎えます。何が変わって、何が変わらないままでいるのか。あの時レンズに笑顔を向けてくれた少年たちは、あれから、何を思い、何を支えに生きてきたのだろうか。時間が解決するなんて、そんな生ぬるいことではないけれど、時間にしかできないこともあります。
生きていることは素晴らしい。なのに僕たちは、また、ありがたみに鈍感になり、どうでもいいようなことで争い、文句を言いはじめる。完璧ではないのに、完璧な世界を求める、愚かな生き物。
自然が教えてくれたなんて、僕は思いません。自然はいつも自然であって、異常も通常もない。生きることに意味なんてない。価値はあっても、意味はない。心臓が動いている。呼吸をしている。
失ったものの代わりに、手に入れたものは、笑顔が溢れる社会でしょうか。失敗を許さない社会でしょうか。僕たちは、いつの間にか、臆病になっていないだろうか。むしろ、多くを失った人たちの方が、強く、たくましく生きているのではないだろうか。そんなことを考える、三月の風。
第694回「最後のごちそうさま」
「来週で終わりなんです」
その「終わり」がどういう意味なのかすぐに汲み取れなかったのは、その人が日本人でないというのもあるのだろうけど、そんな日が訪れるとは全く思っていなかったから。
「あれ?こんなところに」
うねるように書かれた「めし処」という文字。妙に説得力のある看板に惹かれて立ち寄ったのはもうかなり昔のこと。年季の入った店内。字体から想像していた世界がそこにはありました。
秋刀魚定食、鯖の味噌煮、野菜炒め。一人暮らしをしている男性にとってこれほど魅力的なサウンドはありません。実家暮らしの頃は、そのありがたみに気づかないものですが、いざ一人暮らしを始めると、なかなかありつけるものではありません。今では、街全体が「おひとりさま」シフトになっているから、鯖の味噌煮までの距離もそれほど遠くはなくなりましたが、それをスーパーの惣菜コーナーで買うのと、定食屋で食べるのではやはり、大きな差があります。
「鯖の塩焼き定食に、しらすおろしと、とろろ」
大人になったものです。垂乳根の母くらい、鯖といえば味噌煮、ご飯との相性もいいですが、ここに来るとどうも塩焼きが食べたくなります。しらすおろしに醤油をかけて、とろろは最後に残ったご飯にかける。ご飯が見えないくらい、ふわふわで覆ってしまう、建ぺい率200%。
サラリーマンばかりかといえば、若い女性の姿も見られ、仕事の後、家庭の味を求めてやって来るのでしょう。頻繁に通っていたわけでもないけれど、最近の生活リズムに組み込まれ、これからは週一で通うことになると思っていた矢先のことでした。
「終わりって?」
「もう、お店、閉めちゃうんです」
どうやら、来週の金曜日で店をたたむそう。リニューアルではなく閉店。路面店ではあるけれど、ビルの一階なので、ビルの改装により、続けられなくなった模様。それ以上は聞いていないけれど、これはなかなかの悲しい知らせでした。
「今日はいっぱいかもしれないな…」
閉店の前日、鉄道の最後のように人で溢れかえっているかといえば、むしろいつもより人が少ないように感じたのも束の間、カウンターで座っていると、続々と「めし処」に集まってきました。
「鯖の塩焼き、しらすおろし、とろろ」
脇にはお味噌汁とお新香と、小鉢の肉じゃが。僕が、ここで一番目にした光景です。
「今まで、ありがとうございました」
最近まで、あまり足を運ばずにいたことに対する後ろめたさもあるけれど、少なくとも閉店前に来ることができてよかった。最後の「ごちそうさま」を伝えて僕は、店を後にしました。さて、来週からどうしようか。
第693回「Believe」
時折、ファンを意味する表現として「信者」という言葉が用いられることがあります。馬鹿にするまではいかないけれど、若干、その熱狂ぶりを揶揄することが多いのは、どこかで「自分は違うけれど」という冷めた目線が含まれるからかもしれません。しかし、熱狂的かは別としても、誰しもが何らかの「信者」ではないでしょうか。
僕に関して言えば、まずあげられるのは、アップル信者、厳密にいうと、Mac信者ということになるかもしれませんが、数年前に改宗しました。もはや、窓信者ではなくなってしまったわけです。しかし、「窓信者」というと違和感があるのに、Mac信者という表現にそれがないのは、当時は今ほどどっぷり浸かっていなかったからでしょう。いまや、情報や新作を渇望し、自覚こそありますが、完全に支配されてしまっています。
このように「信者」というと、どこか盲目的というニュアンスもしばしば込められます。もはや、周りが見えなくなってしまう。その都度、他と比べたりしない。お金を使うことへの抵抗が希薄になってしまう。その思いが強ければ強いほど、否定された時の反発や他者への攻撃が激しくなる。
信者に続いて耳にするのは「洗脳」という言葉。「信者」よりさらにハードな印象です。
「Mac信者」だと自覚する僕も、心酔こそしているものの、「洗脳」されているとは思いません。というのも、そこには、マインドコントロールのような、手段を選ばず、その対象よりも洗脳を行う側の利益が優先されているような印象があるからです。しかし、企業だって利益は軽視できないので、洗脳の境界線は曖昧なものかもしれません。
テレビCMも、ある種の洗脳といえます。いいイメージを刷り込む。もしくは、不安を与えてお金を使わせる。ただ、これを言い出したらキリがありません。やはり洗脳の線引きは非常に難しい。また、仮に洗脳だとしても、本人がそれを幸福だと思っていたら、他者が否定することは困難です。誰かにとってのしょうもない映画でも、感動している人がいるように。
もはや、外からの言葉は聞こえなくなってしまう。支配下に置かれてしまう。人は、弱っていたり、病んでいるときに洗脳されやすく、そこに感動が伴うと、完全に思考停止してしまいます。疑う余地がない。それどころか、それまで自分を苦しめたものを憎むようになってしまうことさえあります。
自分のお店の商品であるにもかかわらず、「それは美味しくないよ」と教えてくれた店主が、「これは美味しいよ」と次に指差したものを誰もが信じてしまうのは、わざわざ不利益になるようなことを正直に言ってくれたと錯覚し、無条件に店主を信じ込んでしまうからです。信じさせることは難しいようで、とても簡単なのかもしれません。
妙な集まりを見ると、「宗教っぽい」という表現をすることがあります。これはとてもおかしな表現です。歌姫が「信じてる」と歌えば美しいのに、それが自分の理解できないものになると「怪しい」と思い込み、宗教っぽいとなる。この使い方は、万国共通ではないでしょう。
信じることはとても尊いこととされているのに、信仰となると、拒否反応を示してしまう。この国では、「信仰」や「宗教」のイメージがあまり良くないのは、かつての事件のせいもありますが、もしかしたら、「宗教」という言葉のイメージが良くなると困る人たちがいるからかもしれません。これもひとつの洗脳です。陰謀論に結びつけるのはよくないですが、それくらいの意識は持っていてもいいかもしれません。
信じる、それは盲目的になったり、疑わないことではありません。いろんな角度の視点を持つことでしょう。大切なのは、自分自身もそういった刷り込みなどの影響を受けている可能性がある、という意識を持つこと。「人は、何かの内側にいる」。出ました、伝家の宝刀。この連載の中で、度々出ているこのフレーズ。ふかわ教の信者の方々にはもう、いうまでもないですが。
第692回「テレビはエアコン」
「すみません、エアコンはどちらにありますか?」
「はい、こちらですけど」
「いや、僕が探しているのは、このエアコンではなくて…」
「…はい」
「社会のエアコンです」
「社会の?」
「はい、世の中の空気を調節するエアコンです」
こんなお客さんがいたら店員さんも困惑どころか、この忙しい時になんなんだ、といった感じでしょう。
「テレビは、エアコンである」
テレビのなかで生活して二十余年。いま、特に感じること。選択肢が増え、その存在感や意義がかつてと異なっている昨今、テレビの役割のひとつがこの「エアコン」としての機能なのです。
「テレビがエアコン?」
「そんなこと言ったって、どこから冷たい風がでるのさ。どこから暖かい風がでるのさ」
風こそ出ませんが、世の中の空気を快適に調節する役割を担っています。
たとえば、ある事象に対してコメンテーターの発した内容に、「よくぞ言ってくれた!」と、膝を打つことがあります。視聴者の気持ちがスカッとしたそのとき、テレビから、心地よい風が流れているのです。逆に、ネットでは騒がれているのにテレビで扱わないと、視聴者の不満はたまり、ストレスになる。そのとき、お茶の間の空気は滞留し、澱みが生じているのです。溜飲を下げるも上げるも、テレビ次第。世の中で氾濫する、情報という空気を快適にコントロールする機能を、テレビは持っているのです。
この情報自体は主に、スマホから発生ことが多いでしょう。それで世の中の空気が滞留しているのをテレビが整える。どう受け止めていいかわからない事象を解説したり、ときには権力に抗ったり。「コントロール」というと誤解が生じてしまうかもしれませんが、もちろんそこに「操作」があってはなりません。あくまで情報を整理し、流していく。お茶の間のもやもやした空気を打破する。これが、いま、そしてこれからのテレビが担う重要な役割になるのです。
かつてテレビは、時代を映す窓として脚光を浴びましたが、これからは、それだけで輝くのは困難でしょう。スポーツ、娯楽、エンターテイメント、そういった要素も大切ですが、強く求められるのは、世の中に滞留する情報という空気の澱みをなくすこと。そうすることで、多くの人々の心のもやもやを解消し、社会が快適になるのです。そういう意味で、「テレビはエアコン」ということ、逆にいえば、その機能を失ったとき、テレビは片隅に追いやられてしまうでしょう。