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2017年04月15日
第693回「Believe」
時折、ファンを意味する表現として「信者」という言葉が用いられることがあります。馬鹿にするまではいかないけれど、若干、その熱狂ぶりを揶揄することが多いのは、どこかで「自分は違うけれど」という冷めた目線が含まれるからかもしれません。しかし、熱狂的かは別としても、誰しもが何らかの「信者」ではないでしょうか。
僕に関して言えば、まずあげられるのは、アップル信者、厳密にいうと、Mac信者ということになるかもしれませんが、数年前に改宗しました。もはや、窓信者ではなくなってしまったわけです。しかし、「窓信者」というと違和感があるのに、Mac信者という表現にそれがないのは、当時は今ほどどっぷり浸かっていなかったからでしょう。いまや、情報や新作を渇望し、自覚こそありますが、完全に支配されてしまっています。
このように「信者」というと、どこか盲目的というニュアンスもしばしば込められます。もはや、周りが見えなくなってしまう。その都度、他と比べたりしない。お金を使うことへの抵抗が希薄になってしまう。その思いが強ければ強いほど、否定された時の反発や他者への攻撃が激しくなる。
信者に続いて耳にするのは「洗脳」という言葉。「信者」よりさらにハードな印象です。
「Mac信者」だと自覚する僕も、心酔こそしているものの、「洗脳」されているとは思いません。というのも、そこには、マインドコントロールのような、手段を選ばず、その対象よりも洗脳を行う側の利益が優先されているような印象があるからです。しかし、企業だって利益は軽視できないので、洗脳の境界線は曖昧なものかもしれません。
テレビCMも、ある種の洗脳といえます。いいイメージを刷り込む。もしくは、不安を与えてお金を使わせる。ただ、これを言い出したらキリがありません。やはり洗脳の線引きは非常に難しい。また、仮に洗脳だとしても、本人がそれを幸福だと思っていたら、他者が否定することは困難です。誰かにとってのしょうもない映画でも、感動している人がいるように。
もはや、外からの言葉は聞こえなくなってしまう。支配下に置かれてしまう。人は、弱っていたり、病んでいるときに洗脳されやすく、そこに感動が伴うと、完全に思考停止してしまいます。疑う余地がない。それどころか、それまで自分を苦しめたものを憎むようになってしまうことさえあります。
自分のお店の商品であるにもかかわらず、「それは美味しくないよ」と教えてくれた店主が、「これは美味しいよ」と次に指差したものを誰もが信じてしまうのは、わざわざ不利益になるようなことを正直に言ってくれたと錯覚し、無条件に店主を信じ込んでしまうからです。信じさせることは難しいようで、とても簡単なのかもしれません。
妙な集まりを見ると、「宗教っぽい」という表現をすることがあります。これはとてもおかしな表現です。歌姫が「信じてる」と歌えば美しいのに、それが自分の理解できないものになると「怪しい」と思い込み、宗教っぽいとなる。この使い方は、万国共通ではないでしょう。
信じることはとても尊いこととされているのに、信仰となると、拒否反応を示してしまう。この国では、「信仰」や「宗教」のイメージがあまり良くないのは、かつての事件のせいもありますが、もしかしたら、「宗教」という言葉のイメージが良くなると困る人たちがいるからかもしれません。これもひとつの洗脳です。陰謀論に結びつけるのはよくないですが、それくらいの意識は持っていてもいいかもしれません。
信じる、それは盲目的になったり、疑わないことではありません。いろんな角度の視点を持つことでしょう。大切なのは、自分自身もそういった刷り込みなどの影響を受けている可能性がある、という意識を持つこと。「人は、何かの内側にいる」。出ました、伝家の宝刀。この連載の中で、度々出ているこのフレーズ。ふかわ教の信者の方々にはもう、いうまでもないですが。
2017年04月15日 12:46
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