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2017年04月16日

第700回「言わなくてよかった〜前編〜」

「言わなくてよかった…」

 心から、そう思いました。

 桜の花びらが空を覆い始めていたその日も、彼は、イタリアン・レストランのカウンターのいつもの場所に腰掛けていました。パスタが美味しいのはもちろんですが、車を停めやすいこと、それほど混雑していないこと、そして何より、店内に流れるBGMが、彼をこの店に向かわせました。穏やかなボサノバの調べ。しかし、その空間を突き破るように、大きな音が響き渡りました。

「ガシャーン」

 おそらく、鉄系の調理器具が落下したのか、散々暴れて、激しい音を撒き散らしました。そういったことは一般的にも珍しいことではないですし、仕方のないことですが、どこか物足りなさというか、腑に落ちない気分でいました。というのも、飲食店などで大きな音がなってしまった場合は、直後に「失礼しました!」という声が聞こえてくるもの。それによって、不快な気分が緩和され、何ごともなかったかのように時間が流れてゆく。しかし、その声が聞こえてきません。たまたま聞こえなかったのか、小さな声で言ったのか、いくら待っても、この言葉が耳に届いてきません。

 男は、その言葉を待ちました。3秒ルールじゃないけれど、即座に言わなければ、言葉の効力もなくなります。店員さんを呼んで、今、失礼しましたって言いました?と聞いてみようか。すると、男の耳には、別の音が聞こえてきました。それは、店員同士で楽しそうに会話している音。腹の虫がゴソゴソと動き出しました。これが動き出すと、手に負えなくなることを、彼は知っています。

「すみません、この店は大きな音を立てたあとに、失礼しましたも言えないんですか?」

 頭の中で台本が作成されました。誰も得しないセリフ。しかも、これを言ったら、今後利用しづらくなるかもしれません。いや、常連客だからこそ言うべきなのか。以前、こんなこともありました。

「おしゃれにするなら、枝、入れないでください」

 これだけでは意味がわからないでしょう。パスタを食べていたら、口の中で、棒状のものが暴れ出したのです。口から取り出してみれば、それは、小さな枝。パスタの飾りとして、小さな枝が盛り付けられていたのですが、あまりに照明が薄暗すぎて、気づかず口に入れてしまったのです。間接照明か知らないけれど、おしゃれに演出するのはいいけれど、さすがに暗すぎる。それに、そもそもお皿の上には、口に入れてはいけないものを置くものじゃない。ブレーキは効かず、店員さんに伝えました。冷静に。一言ネタで鍛えた、キレのあるセンテンス。こんな言葉を放って、面倒な客だと思われながらも、彼は、通い続けてきたのです。

「やはり、ここは我慢すべきだろうか。でも、言いたい。常連だからこそ、言いたい…」

 穏やかなウイスパーボイスが店内を泳いでいます。これを言ったらクレーマーになるのだろうか。いや、常連客として残念に思うのだ。でも、言ったところでなんになるのか。「申し訳ございません」と言ったとしても、心の中で、「は、何言ってんの、このおっさん」となっているに違いない。男は黙って考えました。

「よし、やめよう!」

 どうにか言いたい気持ちをパスタとともに消化し、お店を後にすることができました。会計のレジでもいいそうになりましたが、我慢しました。すると、その一週間後、「言わなくてよかった」と心から感じる時が訪れたのです。もしもあのとき言っていたら、僕はきっと、生きた心地していなかったでしょう。次週、お楽しみに。

2017年04月16日 11:00

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