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2017年04月23日

第701回「言わなくてよかった〜後編〜」

 その日も彼は、いつものように、いつもの位置で、いつものパスタを食べていました。

「シーザー・サラダのレギュラー」

 2、3人でシェアするサイズの大きなボウルにどっさり入ったレタスに、ザクザクとフォークが刺さっていきます。穏やかのボサノバの調べ。口の中で、マラカスのように、シャキシャキと鳴っていました。そして、再び大きなボウルから小皿に取り分け用としたときです。

「カシャーン!」

 鋭い金属音。手が滑って、大きなフォークとスプーンが衝突すると、その勢いで彼の手を離れ、床に落下していきました。

 時間が止まりました。ウィスパー・ボイスの歌手も歌うのをやめています。

「え?こういう時、言うの?失礼しましたっていうべき?でも、客なのに失礼しましたって、どうなの?」

 背中に突き刺さる視線。勇気を出して体をひねってみれば、厨房の皆がこちらを見ています。言うべきか、スルーするべきか。彼は、床に落ちたフォークとスプーンを拾いました。

「言わないんですか?3秒経ちましたけど」

後ろに店員たちが並んでいます。

「ほら、ぼ、僕は、、、客だから」

「あんなにまくし立てといて、客も店員もないでしょう?」

「忘れたんですか?先週のこと」

「あなたが貸し切りにしているならまだしも、他のお客様もいらっしゃるんですからね」
輪唱のように、次から次へと歌い始めました。

「さぁ、どうぞ!」

「どうぞ?」

「そうです、みんな待っていますから」

厨房のスタッフ、そして、他の客も彼を見つめています。

「失礼、、、しました、、、」

「はい?」

彼は、渾身の力で振り絞りました。

「失礼しました!!」

 そして再び、ボサノバ歌手が歌い始めると、他の客たちも食事を再開し、いつもの会話が聞こえてきました。そのあと彼は、味覚を失っていました。

 もしもあの時、店員さんに注意していたら、こうなっていたかもしれません。危うく特大ブーメランで流血するところでした。もちろん、褒められることではありませんが、あのとき言うのを我慢してよかったと、心から思う春の夕べ。ピンク色の花びらが、道路を覆い始めていました。

2017年04月23日 11:01

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