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2014年12月29日
第597回「きらきら星はどこで輝く〜第三話〜」
「早いですね!」
快晴の空のもと、あたたかいカフェオレを飲みながら向かった、さいたま市文化センター。ほかのだれよりも早くホールに到着したのは、日曜日で道が空いていたからという理由だけではないでしょう。もちろん、朝練も済ませています。
「ついに来てしまった…」
まだまだ先だと思っていても、必ずその日はやってくる。いまだかつて、やってこなかったことなんてありません。時はすべてを飲み込むように、押し寄せてきました。 ここまで来てしまったら、もう、どうしようもありません。どうあがいたって、数時間後にはもう本番なのですから。徐々に、楽団の方たちも姿を現しました。朝のひんやりとした空気に、やわらかい金管楽器の音色が混ざっていきます。逃げ出したい気持ちを押しつぶし、僕は、ある部屋へと向かいました。
「どうぞ、ご自由にお使いください」
グランドピアノのあるリハーサル室。でも、紘子さんも使われますよね?と訊ねれば、彼女は一切使用しないとのこと。さすが、ピアノの神様。おかげで、楽屋にはほとんど戻らずに、ここで最終確認を繰り返すことになりました。どうしても、失敗したくない。悔しい苦い気持ちを味わいたくない。
「もう完璧ね!」
全体の通しリハのなかでピアノ協奏曲を、そのあと紘子さんと連弾をしました。まだお客さんのはいっていない状態とはいえ、この大きな劇場でのリハーサルは、前日とはまた違った緊張感がありました。それでも、練習の甲斐があったのか、自分でも合格点をあげられるくらいには弾けていた気がしました。本番まであと2時間。
「楽屋にいなかったら、下にいるから」
マネージャーに伝えると、僕はそのまま、ピアノの部屋に向かいました。同じスピードとは思えないほど、目を向けるたびに時計の針が大きく進んでいます。そして開場の時間となりました。もう一時間後には、あのステージの上にいる。これほど未来に対して構えたことはあったでしょうか。本番が迫ってくるのは恐ろしいけれど、それを乗り越えればきっとはかりしれない解放感が待っているに違いない。はやくこの重圧から解放されたい。
「よし!これで大丈夫!」
もう、やるだけのことはやりました。あとは強い精神をもっていれば、必ずや、清々しい気分が待っていることでしょう。人事を尽くして天命を待つ。これで失敗したら、それは怠慢によるものではなく、運命。受け入れるしかありません。そして、そのときがやってきました。
「本日は、すてきなお客様をお迎えしました!」
チャイコフスキーのピアノ協奏曲を弾き終えると、ドレスに身を包んだ紘子さんが僕の名前を呼びました。この先へ進んだら、もう、戻ることはできません。深く深呼吸して、拍手のなかに飛び込みました。
「今日は、ピアノの腕前を披露なさってくれんですよね?」
舞台上でどんな会話をしていたのか、あまり覚えていません。大好きなベートーベンの交響曲第七番の二楽章の演奏も、至近距離で聴かせていただいたものの、あたまのなかは、待ち構えている自分の演奏のことでいっぱいでした。そして、ピアノの前に二人が並びました。2000人の聴衆の拍手が止むと、ゆっくりと、きらきら星のあのフレーズが響きはじめました。あまりのギャップに、会場から多少の笑い声が聞こえてきましたが、徐々にスピード感がでてくると、雰囲気は一変、二人の奏でる音色だけが、高らかに鳴り始めました。僕は、紘子さんにしがみつくように、無心で両手を動かしていました。どうか最後まで辿り着いてくれ。どうか、最後まで。
惨敗でした。あれだけ練習をしたのに、自分のピアノを奏でることができませんでした。本番で、100%の力をだしきることができないとわかっていたけれど、それでも、自分で合格点を与えることができないくらい、指が動きませんでした。守りにはいったのでしょう。途中で止まることこそなかったけれど、紘子さんにかなり迷惑をかけてしまいました。
「次はなんと、東京フィルさんと一緒に演奏させてもらうことになりまして…」
僕の心は、悔しさでいっぱいでした。でも、引きずっていてもしょうがありません。気持ちを切り替えなければ。それこそ、2戦2敗にでもなったらもう、立ち直れません。そして、紘子さんがステージ袖へ下がります。冷静に考えれば、ものすごい状況です。指揮者の方と目が合うと、弓がゆっくり動き始めました。
「おわった…」
気が付くと、座ったまま、天井を眺めていました。大きく息を吐き、まるで放心状態のよう。自分でも納得のいく演奏だったので、そのあとのくるみ割り人形「花のワルツ」に身を委ねることができました。
「失敗ばっかりで、本当にすみませんでした…」
前半を終え、休憩にはいると、真っ先に僕は紘子さんのところへ向かいました。一瞬、初めてお会いしたときの、あの部屋でのことを思い出しました。なにを言われてもしょうがありません。いくら練習でできたところで、本番で結果を残さなければなんの意味もない世界で戦ってきた人なのですから。
「あらそう?私、耳が遠いから全然気づかなかったわ」
全身に電流が走りました。涙が溢れそうになりました。リハーサル通り弾けていないことや、ミスを連発していたことは、隣の人が一番わかっていたのですから。
「写真撮りましょう!真ん中にはいって!」
指揮者の円光寺さんと、紘子さんに挟まれています。人生40年。こんな瞬間が待っていたなんて。
「またやりましょうね」
「次はぜひ指揮にもチャレンジしてみてください」
初めて出会ったあの日。きらきら星は僕の力で輝かせることはできなかったけれど、悔しい気持ちでいっぱいだけど、今日という日は僕の中できらきらと輝いていました。
第596回「きらきら星はどこで輝く〜第二話〜」
「これは大変なことになった…」
楽譜を開いた僕は、あまりの音符の多さに目を丸くしました。もちろん、それが原曲とは違うことは知っていましたが、想像をはるかに超えるアレンジで、相当の練習量が必要であることを瞬時に感じました。
「これを、ふたりで…」
それは、「きらきら星変奏曲」という曲。あの「きらきら星」を主題として、スピーディーに展開していきます。連弾なのでふたりで弾くのですが、ピアノ2台の場合もあれば、一つのイスに二人が並んで座る場合もあります。いずれにしても、ふたりの呼吸が揃っていないと成立しません。人生初の連弾。それも世界的ピアニストの方と。小学生がイチローとキャッチボールするようなものでしょうか。ことの重大さから、ピアノに向かう日々がはじまりました。
「あの、温泉なんだけどさぁ…」
両親といく予定だった旅館もキャンセルすることにしました。
「ねぇ、これ見てよ」
指先をラジオ番組で共演している遠藤真理さんに、自慢するように見せました。
「爪、割れてるじゃないですか」
毎日鍵盤を触っていたとはいえ、これまではタッチのやわらかいキーボード。それに比べてピアノの鍵盤は堅いし重い。そもそも、曲を作るときの「弾く」と、演奏するときの「弾く」では、根本的に力の入れ方、集中力が異なります。甘やかされていた指先が、久しぶりの堅く重たい鍵盤に、悲鳴をあげているようでした。
「もう、11月は、ピアノに捧げよう!」
朝から晩までひたすらピアノに向かう日々が続きました。ピアノ協奏曲だけだったり、以前弾いたことのある曲だったらまだしも、2曲となると時間も足りません。心のどこかで、間に合わないのではないか、そんな気がしても、できるかぎりのことはやっておきたい。 その原動力はなんだったのでしょう。大舞台で失敗したくない、中村紘子さんに迷惑をかけたくない、という想いもありましたが、それらを含めて、「悔しい思いをしたくない」という感情が、僕をピアノに向かわせていた気がします。どんなに練習を重ねても、本番で思い通りに弾けない悔しさを、これまで何度も味わってきました。こんなにも本番でだめになってしまう自分が不甲斐なさ過ぎる。そんな悔しい思いを、もうしたくない。
「どうですか〜」
本番前日、紘子さんはとてもにこやかな表情ではいってきました。
「やれるだけのことはやってきたんですが…」
僕は、椅子の半分を開けました。
「テンポはどれくらいかしら?」
「たぶん、早いともつれてしまうと思います…」
そして、二人の手が鍵盤の上に乗りました。
「すごいじゃない!完璧!」
決して完璧ではなかったけれど、途中もつれたりしながらも、どうにかゴールまで辿り着くことができました。
「本番で、事故ってしまうかもしれないですが…」
「なに言ってるの、事故大歓迎よ!」
そのあと、ここはこうしたほうがいいとか、ちょっとしたレクチャーを受けつつ、何度か合わせました。
「今回のゲスト、ふかわりょうさんです!」
グランドピアノを囲むように、数十名のオーケストラの方たちが目の前で広がっています。腰を下ろすと、ピアノ越しに臨む指揮者の表情。まるで今までもいたかのような合図を送られると、弓が動きはじめました。僕はただ、その流れるような音色のなかに身を委ねるように、鍵盤を動かしはじめましす。オーケストラの音色のなかに重なるピアノの音色。オケの音を聴きながらピアノの音を聴くことは、家の練習とはまったく別次元。余裕なんてまるでないなか、視界の端のほうで動く指揮棒の動きを感じながら、音の波から落っこちしてしまわないように集中しています。連弾とは違った難しさがあるものの、体がぞわぞわっとするような、心地よい感覚がありました。
「では、明日、よろしくお願いします」
ピアノ協奏曲も、どうにかJAFを呼ばずに済みました。しかし、すべては本番。そこでどのような音色が奏でられるか。練習の成果がだせるか。家に帰ってからも、ピアノに向かったことは言うまでもありません。これを弾いたらもう寝よう、を何度も繰り返したのち、いいイメージのまま眠りに就くことにしました。
第595回「きらきら星はどこで輝く〜第一話〜」
「わたしは、待たせられるのが嫌いなの!」
それが、彼女からいただいた、最初の言葉でした。 コンサート出演のお話が来ているのですけど、とマネージャーから報告されたのはまだ暑さの残っている頃。そういった類のオファーはこれまでなかったわけではないのですが、今回の依頼は、資料を手にした僕の目を丸くさせました。
「マジで!?」
小さい頃からCMなどでも拝見し、日本で最も有名な「世界的ピアニスト」の名前と写真が載っています。まさか、その方のコンサートに呼ばれるなんて。でも、なにをするのでしょうか。
「お二人で、トークをしていただきたいようです」
数千人の前だろうと、神聖なクラシックコンサートだろうと、目下、20周年キャンペーンを開催している僕に、断る理由はありません。ましてや、トークとはいえ、世界的なピアニストの方と同じ舞台の上に立つなんて、お願いしたって叶うことではありません。
「中村紘子さんと共演することになったよ」
すごいことをより実感するために、両親に報告しました。それから日が経ち、徐々に具体的な企画内容が決まってくると、どうやらトークだけではなくなってきました。
「オーケストラバックに、ピアノを弾いて欲しいそうなんですけど…」
汗のにじんだワイシャツをハンガーにかける僕の耳にはいってきたマネージャーの言葉は、そのまま脳を刺激しました。オーケストラといっても、そんじょそこらのそれではありません。泣く子も黙る、東京フィルハーモニー交響楽団。これも、お願いしたってできることではありません。人前でピアノを弾くってだけでも大変なことなのに、オーケストラと一緒になんて。お願いしてできることではないとはいえ、はいやりますと、簡単に応じられるものではありません。そして、先方の指定した楽譜が届きました。
「これならどうにかなるか…」
それは、モーツアルトのピアノ協奏曲第21番の第二楽章。ゆったりと流れる美しいメロディーは、クラシック好きでなくともどこかで聴いたことあるでしょう。遅めのテンポだから簡単というわけではないし、東京フィルさんをバックにというのは相当なプレッシャーではありますが、いわゆるチャイコフスキーとかラフマニノフのコンチェルトの類ではないことに、「努力次第」でどうにかなる範囲だと、判断しました。
「混んでるなぁ…」
本番まであと2か月、僕はその日、スーツで運転していました。というのも、これから本番に先駆けての対談インタビュー。中村紘子さんに直接お会いする日。もちろん、初対面、緊張しないわけありません。仕事を終えてすぐに向かったものの約束の時間に間に合わないということにならないよう、時間は遅めの設定をお願いしていたのですが、彼女はすでに到着しているとのこと。スタッフとともにエレベーターをあがり、静かなラウンジを抜け、扉をあけると彼女は待っていました。
「ずいぶん、待ちましたよ」
最初は、冗談の類かと思いました。
「わたしはねぇ、待たせられるのが嫌いなの!」
一瞬にして、空気が凍結しました。こうなるのが嫌だから、散々言っておいたのに。彼女にまつわる伝説を耳にしていたので、ある程度覚悟していたとはいえ、初対面で浴びる世界的ピアニストの言葉にしては痛烈すぎます。憧れの存在の方は、すっかり機嫌を損ねていました。
「はい、じゃぁ、写真とりますね」
こんな空気のなかで、インタビューと撮影が進められます。笑顔の写真なんて撮れるわけないだろうと思っていたのですが、会話を進めるうちに、氷が解けていくように、場も和みはじめ、ときおり笑い声が聞こえるようになりました。それどころか、 「それじゃぁ、連弾しましょうよ!」 なんだか、いろいろ起こりすぎて、うまく受け身がとれません。無理ですなんて到底いえません。なにより、こんなにも場が和んでいるのですから。終わる頃には、「これ、おいしそうだから買ってきたの」と、みんなにお菓子を配っています。その様子は、貫録こそありますが、少女のようでした。 それから数週間がたち、連弾用の楽譜が届きました。すぐに向き合ってしまうと、ほかの仕事に影響してしまうから、あとひと月を切ったら楽譜を開こうと決めていました。そして、11月になりました。
「大変なことになった…」
僕が目にしたのは、うねるように音符が入り乱れる、想像以上に難解な楽譜でした。
第594回「その快楽には、罠がある」
キャンプのカレーが美味しいのは、そこに至るまでに味わう「痛み」が最大のスパイスになっているからで、なんでも無料で食べられる状況は味を薄めてしまうから、この度好楽師匠が手にいれた「食堂無料券」的なご褒美に対しても「かわいそう」と感じてしまうタイプの人間なので、世の中に存在する「便利」と称賛されるもののほとんどが、僕にとっては、「便利」どころか、「脅威」とさえ感じてしまい、喜びを享受できません。
たとえば、便利グッズの代表格であるスマートホンも、ないと不便になるくらいはまだいいけれど、依存度が高くなり、気が付けば四六時中手にしたり目を向けている状況となると、もはや立場は逆転。スマホに使われる立場になってしまう。便利さに溺れ、スマホに支配されるスマホ・スレーヴス。アプリはむしろ人間のほうなのです。
ハードディスクレコーダーにたくさん残せるようになったのはいいけれど、油断すると、残すことに満足し、結局見ずに終わってしまう。自動消去機能でもないかぎり、いつでも見られるという安心感が、結局観ないという結果に結びついてしまう。残せる安心感こそ得たものの、ハードディスクレコーダーに使われただけ。何の目的も果たしていない。ここでも「便利」さに溺れてしまう。 月額いくらで映画見放題も、僕にとっては不幸に思えてしまう。たくさんありすぎて、ありがたみというスパイスもなくなり、味が薄まってしまう。映画館まで足を運んで、お金を払うなど、身を削るからこそ、スクリーンは輝き、心に深く刻まれるもの。痛みやありがたみは、おいしさを増すための重要なスパイスなのに、世の中は「便利さ」を追求するがあまり、そのスパイスをいれることを忘れてしまう。一週間だけ見放題、だったらまだぜんぜん違うのに。
インターネットという便利さ、「つながる」という便利さ。あらゆる「便利」は、人間が油断すると、もしくは甘やかすと、怪物になってしまいます。ストレスをなくすためのヒーローだったのに、いつのまにかそれが悪と化しストレスを与える存在になってしまう。だから、支配されないように、気を付けなければなりません。支配されたら、終わりなのです。
お金もそう。流通のための道具であり、願望を叶えるための手段。しかし、お金を貯めること自体に快楽を見出し、それ自体が目的化し、使うことを放棄してしまう。それこそ、金に溺れ、金に支配された状態。 時間も然り。時間という概念は、日常生活をスムーズに送るための便利な道具。しかし、ひとたび時間に追われるようになってしまうと、時間に支配されてしまうと、乾いた生活になってしまう。遅刻をしてはいけない、という概念が、交通事故を増やしてしまうのかもしれない。時間は利用するもので、支配されるものではないのです。
どんなに便利な道具も、油断していると、その道具に使われることになります。そうなったら、人は、便利さに溺れ、堕落するだけ。そうならないためにも、ほどほどの距離感を保たなければならないのでしょう。その快楽には、罠がある。光にはかならず、影があるのです。
第593回「あの素晴しい愛をもう一度」
厳密にいうとそうではないのですが、心境としては、「人生初のカヴァー」。既存の楽曲のリミックスやアレンジをしたことはこれまでに何度もあるけれど、自ら唄うことは初めてになります。自分でも、まさかカヴァーをするなんて、ましてやこの曲を歌うなんて。
ある曲が頭から離れず、しばらくリピートされてしまうことはみなさんも経験あるでしょう。耳に届く音はたくさんあるけれど、なぜか通り過ぎない曲。心の隙間にはいってしまうのか、よほどキャッチーでインパクトあったのか。テレビで一瞬ながれたフレーズ、ラジオから聞こえてきた唄声、お店で耳にした曲。どこから届いたのかわかりませんが、そのとき、僕の頭から離れなかったのが、この曲だったのです。
合唱コンクールで唄ったという人もいたり、いまでもCMで使用されるほど、この国で親しまれているこの曲は、フォーク・クルセイダーズの名義ではなく、北山修&加藤和彦の名義であることは、ご存じの方もいるかもしれません。「フォークルは、日本のビートルズだ」なんていう人もいますが、オフコースで育った僕は、能動的にはあまり通過せず、サディスティック・ミカバンドのレコードもCDも持っていません。いわゆる、日本人が平均的に耳にする程度でしか馴染みはありませんでした。しかし、前述のように、妙に気になって、いてもたってもいられず鍵盤に向かった僕は、衝撃を受けるのです。この曲、やばいと。
コード進行こそ決して珍しいものではなく、いわゆるフォークでは定番のものかもしれませんが、その上で流れるメロディーラインと、握り寿司のようにその上に乗せられた歌詞が、とてつもなくやばいのです。理屈や好みの問題ではありません。このメロディーラインを耳にしたら、間違いなく言葉がついてくる。どうやっても切り離すことができない。一度耳にしたら、しばらく頭の中からでていってくれない。あらためて、この曲の素晴らしさ、この曲の力を実感したのです。
この曲に対する想いがあふれてきました。ありあまる情熱。もう、やるしかありません。楽曲の音源を揃える高い壁を見上げると、気持ちはリミックスよりも、カヴァーのほうに向けられました。許諾などの手続きは必要ですが、最悪許諾が降りなくても、車の中で聴ければいい。では、誰がカヴァーするのか。あのやわらかく、味のある声の持ち主は、どこにいるのか。
「ここにいるじゃないか!」
まさか、自分の体に白羽の矢が立ちました。女性に唄ってもらっても面白いし、これだけ選択肢がある中で、なぜ、自ら唄おうなんて思ったのか。それは、自分の声や唄に自信があるわけでも、過大評価しているわけでもありません。僕自身が、この曲の世界に入り込んでしまったから。抜け出せないほど、好きになってしまったから。この曲に対する愛情が一番大切だと思ったから。
そうしてできあがった「あの素晴しい愛をもう一度」は、ミラーボールとの親和性はバッチリ。車内でもヘビーローテーションとなりました。車内で自分の唄った曲をガンガン流しているなんて、どれだけ自分が好きなんだと思うかもしれないですが、オリジナルも含めてどうか聴いてみてください。本当に素晴らしい唄。日本の唄を、クラブで流せることは大変嬉しいこと。こうやって、この曲が、時代を越えて語り継がれること、世界が、愛に包まれることを願って。
第592回「少年よ」
叩かれる人間になれ。
叩かれない人間なんて、ひとかけらも面白くない。
叩かれることを怖れるな。
叩かれないように生きるな。
それは雑音でしかない。
耳を傾けるべきは、そこではない。
自分の心の声だけを信じて突き進めば、 いつか素晴らしい景色に出会う。
素晴らしい世界が待っている。
そここそ、自分の場所。
もちろん、叩くなんて論外。
叩く人間は、ひとりじゃなにもできない生き物。
人の生き方に口出しする暇があるなら、 言葉の一つでも覚えたほうがいい。
ただ、居心地がいいからといって、 いつまでもそこにいてはならない。
居心地がよくなったら、また 次の場所を探さなくてはならない。
そうして人は大きくなる。
小さくまとまるな。
叩かれることを怖れるな。
叩かれないように生きるな。
叩かれない人間なんて、ひとかけらも面白くない。
叩かれる人間になれ。
少年よ。
第591回「ミラーボールはまわっていますか」
新番組も第五回を終え、さすがに気づいているかと思いますが、語りかけてくるのは「僕」ではありません。というと、若干の語弊があるかもしれません。未来の僕。「ターバンをしていたのが30年くらい前」だったり、「昔やっていた夕方の番組」だったり。そうです、彼は、現在の「僕」ではなく、第四楽章を奏で始めた「僕」。ブログの写真にあるように、羊に囲まれた家に住んでいる何年後かの僕が、放送しています。現在と未来が共存するパラレルワールド、なんて言ったらややこしくなってしまいますが。そこは「アイスランド」ではありません。「風とマシュマロの国」からお送りしているのです。
それはさておき、様々な感想をお持ちになるでしょう。彼から送られてくる2時間のミュージックに、温もりや潤いを感じる者もいれば、冷たさや戸惑いを抱く者もいるでしょう。なんせ、行きつけの定食屋さんが急にフランス料理屋になっていたのですから。フランス料理屋だったらまだしも、インテリアショップかもしれません。番組に対して受け手がどう感じようと自由です。ただ、ひとつ、やってはいけないことがあります。それは、「ロケットマンショーを求めること」です。
あれだけ終わったと言っても、新番組だといっても、時間帯やパードナリティーが重なっていることもあり、受け入れることのできない人がいます。それ自体は個人の感想であって、自由なのですが、その想いをぶつけてくる者がいます。ぶつけても構わないのですが、いくらぶつけてもそれらはまったく効果はありません。無駄な消耗になってしまいます。なぜなら、すべて承知の上でスタートしているからです。拒絶反応を起こすものがいないなんて、思うわけありません。むしろ、全員が反発するだろうとわかった上で、「LIFE IS MUSIC」を立ち上げています。ではなぜ、わざわざ反発されるような番組をはじめるのか。それは、「ロケットマンショー的な番組を開始することが、もっとも面白くない」と思っているからです。
収録であっても、メールを募集してネタコーナーをやることは可能です。相槌をお願いすることだって、無理ではありません。笑顔のこぼれる2時間にすることは決して不可能ではないのですが、それをやったら、「面白くない」のです。だいたい想定できるし、4時間が2時間に圧縮されるだけ。ましてや生放送じゃないので、きれいなお水を使えないおそばやさんのよう。笑顔にはなっても、面白くはない。たとえ、多くのリスナーに支持されても、そんな、劣化版とはいわないけれど、新番組で「ロケショー的なこと」をするような人間に、僕は、なりたくない。
だから、もし仮に署名的なものが集まっても、もし仮に上層部の人がいいよと言っても、僕はやりません。ロケットマンショーは8年半のミュージックだったのですから。 「ミラーボールはまわっていますか」 新番組を受け入れて欲しいなんてことは言いません。違和感や反発心を、どうか無駄にしないでください。それらのエネルギーを、どうか有効に活用してください。新しい彼氏・彼女に、以前付き合っていた人の要素を求めないでくさい。いつまでも母校に顔だして先輩面するOBにならないでください。もう、この店で、ハムカツ定食はやっていないのです。
「まわれ!ミラーボール」
それが、ロケットマンショーにおける、僕からの最後のメッセージ。どうか、みんなのミラーボールを回転させてください。みんなの光を、放ってください。
第590回「集まれ!褒め上手!!」
気が付けば、あと10回でこの「週刊ふかわ」も600回を迎えることになりました。順調にいけば、年が明けてまもなく迎えられるわけですが、素通りするのも勿体ないので、密かに、セレモニー的なものを開催できればと思っています。600回記念で開催したいことはなにか。ひとつだけ、頭のなかに浮かんでいるものがあります。それは、かぼちゃ祭りでも、プラネタリウムDJでもありません。いま、僕がもっとも求めていること。
「週刊ふかわ600回記念!ふかわくんを褒めよう!!」
目を疑ったでしょうか。40にもなって褒められたいなんて。よく恥ずかしげもなく発表できるものです。でも、本当に、褒められたいのです。 大人になると叱ってくれる存在がいなくなると耳にしますが、たしかにそんな気もします。では、褒められることはどうでしょう。褒めてくれる存在。頭を撫でてくれるように、やさしい言葉に包まれる瞬間。子供の頃多かったわけではありませんが、大人になると、ストレートに褒められることもなくなり、社会的評価というカタチに変わり、あの頃の「頭を撫でられる感覚」と乖離していきます。
実際のところ、褒められていないわけではありません。ありがたいもので、お手紙やメールなど、お褒めの言葉をいただくことは現在でもあるのですが、これまで散々いろんな言葉を浴びてきたので、良かれ悪しかれ、それらの言葉を素直に、額面通りに受け取れない大人になってしまったのです。いただいた文章を、極度に圧縮し、心のどこかにしまってしまう。そんな、こじらせ系中年の堅く閉ざされた心の扉は、一筋縄では開かないのです。では、どうしたら扉が開くのか。それはやはり、生身の声しかありません。つまり、直接、褒められたいのです。
以前開催していた「フニオチコンテスト」のように、お客さんを入れてステージ上で発表するというのもなかなか面白い空間で魅力的ですが、お客さんの前だと緊張したり、受け狙いに走る人もでてくる恐れがあり、心の扉が開かない可能性があります。本気で褒めてもらわないとだめなのです。もう、重症ですね。
理想は、教会の懺悔室。小部屋に入り、網の向こうの神父さんに懺悔するように、おじさんを網越しに褒める。ほかに誰も聴いていません。網越しおじさんの息遣い。お地蔵さんにお供えするように、みなさんの心の中から取り出したやさしい言葉たちが、網の向こうのおじさん捧げられます。お返しに、お菓子をくれるでしょう。おじさんは、朝から晩までずっとそこにいます。そんな一日。 こんなイベントのために協力してくれる教会はまずないと思いますが、いま、僕がもっとも開催したいのは、こんな空間なのです。
「褒められて伸びる」
でも、伸びるために褒められたいのではありません。それは心のマッサージ。ただ、褒められたい。20年の活動を支えてきた心をほぐしてもらいたい。上手じゃなくていいのです。むしろ、つたない言葉のほうが、効くかもしれません。これから歩んでいくための、褒められる一日。実現しないかなぁ。
第589回「深夜3時に会いましょう」
ということではじまりました、「LIFE IS MUSIC」。初回は、「風とマシュマロの国」から「northern lights」を、第二回は、「さよなら親切の国〜step into the sunshine」をお送りしました。アイスランドとポルトガルの旅行記。実は、これをやろうと思ったのは、ブースにはいった瞬間でした。初回なので、リスナーからのお便りがない状況。 なにをするか固まっていなかったのですが、もしかしたら引用したくなるかもと思って一応持参していた「風とマシュマロの国」を開いた瞬間、2時間のイメージが広がり、「今日はこれでいこう!」となったのです。
5回分の旅行記があるなかで悩まず「northern lights」を選んだのは、やはりオーロラのシーンが印象に残っていたから。ラジオでオーロラを伝えたい。深夜のベッドの上に、オーロラを出現させたい。アイスランドの空気を感じてもらうタイミングとして、深夜3時は理想的な時間帯ではないでしょうか。それも2時間たっぷりなんて、ある意味贅沢なこと。長時間の朗読は、自分の文章とはいえ決して容易なものではないですが、きらクラや、リーディングの舞台を経験していたことが少なからず、僕の背中を押してくれました。
アイスランドにしてもポルトガルにしても、いざ朗読してみないとどれくらいの時間がかかるかわからないので、録るだけとって、あとは引き算。本で読む場合はあっていい箇所も、朗読ではカットしたほうがいい場合があり、それは何度も聞いたうえで、スリムにしていく作業の積み重ね。それらを音楽でつないでいく。それが時間経過であれ、感情を増幅させるものであれ、文章の終わりに音が流れてくる瞬間の心地よさといったら。ほとんど苦痛の作業ですが、この快感のためにやっているのはやはり、DJ体質なのでしょうか。
そういえば、かつて自分たちでお笑いライブをやる際に、コントとコントの間に流れる音楽も、自分で決めていました。コントのオチのあとどんな音が流れるのか。それが、ロケットマンのそもそものきっかけでもあったのですが。だから、朗読に音楽をからめながら進む時間は僕にとってまさしく極上の2時間。非常に申し訳ないのですが、もはや、自分のためにやっていました。苦痛こそ伴うけれど、こんなに楽しい作業はない。それに、もう一度、旅をした気分にもなれます。 物語のための音楽のようで、音楽のための物語のようで、それらはお互いに引き立てあっているのですが、気持ち的には、曲のための朗読でした。極端にいえば、旅行記というスタイルをとった曲紹介。同じ曲にしても、「それでは次はこちらの曲です」と言ってから流れてくる音と、朗読の世界のなかで無造作に流れてきた音では、まったく印象は異なるもの。頭のなかでの膨らみ方。広がりかた。これが違うからこそ、僕は、この世界にいるのです。
事前に旅行記を読んでいた人、初の旅行記が今回だった人。いずれにしても、僕は、ラジオを、そしてリスナーの感性を信じていました。信じていないと、あんなことはできませんだから、だから、またいつかやりたい、というか、間違いなくやるでしょう。おそらく、あの国を旅するのではないかと思います。 内容的に、何年も続ける番組ではないかもしれません。そもそも長く続けようと思っていません。だからこそ、いままでやったことのない時間を、空間を、創造したいと思っています。「LIFE IS MUSIC」みんなが、穏やかな気持ちで、朝を迎えられるように。
第588回「まわれ!ミラーボール」
「ちょっとお話があるので、本番終わったらお時間いいですか」
ようやく夏らしくなった、梅雨明け間もない頃でした。決して珍しいことではないのですが、さすがはDJ。声のトーンの微妙な違いを気付かずにはいられません。これはわりと大きなサイズの話だな、DJの耳が、メルヘンおじさんの勘が、ビンビン反応しています。
「ちなみに、ジャンルは?」
「…ラジオです」
少しためらったマネージャーからでてきた言葉に、僕は、すべてを察知しました。
「ついに来たか…」
それを口にしたかどうかは覚えていません。時計は5時になろうとしていました。 生放送を終え、具体的な報告を聞き、ハンドルを握る帰路の途中、実感とともに様々な感情があふれてきましたが、不思議なことに、不満やら不服やら、それこそ怒りや憤りのようなものが一切見当たりません。あるのは、いままでありがとうという感謝の気持ち。もちろん、淋しさのようなもの、もうちょっとやりたいという気持ちがなかったわけでもありませんが、一番大きな感情はやはり、感謝でした。
なにせ、こんな番組はありえないですから。話すことも自由。かける曲も自由。もちろん、信頼された上でのものだから、いくら深夜とはいえ、なにをやってもいいということではありません。しかし、それはやらないでくれと言われたことはありませんでした。僕の頭のなかに描いた4時間を、そのままカタチにできました。なんのしがらみも、なんの制約もない。そんな場所はほかのどこにあるでしょう。大変じゃないと言ったら嘘になりますが、この大変さはむしろ買ってでもしたいもの。この番組は僕の精神を支える場所でもありました。
番組から、いろんなものが生まれました。ネタ本やコントCDをはじめ、僕が次々に発表する楽曲だって、聴いてもらえる場所があることが少なからずその原動力になっていました。たくさんの出会いがありました。フニオチコンテストにはじまり、バーベキューや鍋パーティーによる、リスナー同士のつながり。ロケフェスだって、このラジオがなかったら生まれていなかったでしょう。みんなで迎える日曜の朝。 だから、とにかく、感謝の気持ちでいっぱいなのです。
「ふかわりょうのLIFE IS MUSIC」
本来なら、ここですぱっと終了するほうがいさぎよくて格好いいのかもしれませんが、たとえ半分になっても、たとえ収録でも、なにかできるかもしれない。なにか生まれるかもしれない。材料も設備も整っていないから、いままでと同じ料理はできないけれど、むしろ往生際の悪さを材料にして、あらたな料理をみんなのところに届けたい。
「ロケットマンショー、スタートです」
それは、ずっと前から決めていた言葉。番組は終わってしまうけど、これから先、ふとした瞬間。思い悩んでいるとき。決断を強いられるとき。思いもよらぬ瞬間に、聞こえてくる。あのときは意味がわからなくても、やがて「そういうことだったのか」と実感する瞬間が訪れる。他愛もない会話が、いつしか聞こえてくる。ロケットマンショーがきこえてくるのは、心に響くのは、これからなのです。だから、なにも不安にならず、自信を持って、大海原に飛び出してください。迷った時は、必ずきこえてくるはずだから。心の中で周波数を合わせてください。終わってしまうけど、もう、一緒に朝を迎えられないけれど、本当のはじまりは、いまなのです。ミラーボールがまわるのは、これからなのです。