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2014年12月29日
第597回「きらきら星はどこで輝く〜第三話〜」
「早いですね!」
快晴の空のもと、あたたかいカフェオレを飲みながら向かった、さいたま市文化センター。ほかのだれよりも早くホールに到着したのは、日曜日で道が空いていたからという理由だけではないでしょう。もちろん、朝練も済ませています。
「ついに来てしまった…」
まだまだ先だと思っていても、必ずその日はやってくる。いまだかつて、やってこなかったことなんてありません。時はすべてを飲み込むように、押し寄せてきました。 ここまで来てしまったら、もう、どうしようもありません。どうあがいたって、数時間後にはもう本番なのですから。徐々に、楽団の方たちも姿を現しました。朝のひんやりとした空気に、やわらかい金管楽器の音色が混ざっていきます。逃げ出したい気持ちを押しつぶし、僕は、ある部屋へと向かいました。
「どうぞ、ご自由にお使いください」
グランドピアノのあるリハーサル室。でも、紘子さんも使われますよね?と訊ねれば、彼女は一切使用しないとのこと。さすが、ピアノの神様。おかげで、楽屋にはほとんど戻らずに、ここで最終確認を繰り返すことになりました。どうしても、失敗したくない。悔しい苦い気持ちを味わいたくない。
「もう完璧ね!」
全体の通しリハのなかでピアノ協奏曲を、そのあと紘子さんと連弾をしました。まだお客さんのはいっていない状態とはいえ、この大きな劇場でのリハーサルは、前日とはまた違った緊張感がありました。それでも、練習の甲斐があったのか、自分でも合格点をあげられるくらいには弾けていた気がしました。本番まであと2時間。
「楽屋にいなかったら、下にいるから」
マネージャーに伝えると、僕はそのまま、ピアノの部屋に向かいました。同じスピードとは思えないほど、目を向けるたびに時計の針が大きく進んでいます。そして開場の時間となりました。もう一時間後には、あのステージの上にいる。これほど未来に対して構えたことはあったでしょうか。本番が迫ってくるのは恐ろしいけれど、それを乗り越えればきっとはかりしれない解放感が待っているに違いない。はやくこの重圧から解放されたい。
「よし!これで大丈夫!」
もう、やるだけのことはやりました。あとは強い精神をもっていれば、必ずや、清々しい気分が待っていることでしょう。人事を尽くして天命を待つ。これで失敗したら、それは怠慢によるものではなく、運命。受け入れるしかありません。そして、そのときがやってきました。
「本日は、すてきなお客様をお迎えしました!」
チャイコフスキーのピアノ協奏曲を弾き終えると、ドレスに身を包んだ紘子さんが僕の名前を呼びました。この先へ進んだら、もう、戻ることはできません。深く深呼吸して、拍手のなかに飛び込みました。
「今日は、ピアノの腕前を披露なさってくれんですよね?」
舞台上でどんな会話をしていたのか、あまり覚えていません。大好きなベートーベンの交響曲第七番の二楽章の演奏も、至近距離で聴かせていただいたものの、あたまのなかは、待ち構えている自分の演奏のことでいっぱいでした。そして、ピアノの前に二人が並びました。2000人の聴衆の拍手が止むと、ゆっくりと、きらきら星のあのフレーズが響きはじめました。あまりのギャップに、会場から多少の笑い声が聞こえてきましたが、徐々にスピード感がでてくると、雰囲気は一変、二人の奏でる音色だけが、高らかに鳴り始めました。僕は、紘子さんにしがみつくように、無心で両手を動かしていました。どうか最後まで辿り着いてくれ。どうか、最後まで。
惨敗でした。あれだけ練習をしたのに、自分のピアノを奏でることができませんでした。本番で、100%の力をだしきることができないとわかっていたけれど、それでも、自分で合格点を与えることができないくらい、指が動きませんでした。守りにはいったのでしょう。途中で止まることこそなかったけれど、紘子さんにかなり迷惑をかけてしまいました。
「次はなんと、東京フィルさんと一緒に演奏させてもらうことになりまして…」
僕の心は、悔しさでいっぱいでした。でも、引きずっていてもしょうがありません。気持ちを切り替えなければ。それこそ、2戦2敗にでもなったらもう、立ち直れません。そして、紘子さんがステージ袖へ下がります。冷静に考えれば、ものすごい状況です。指揮者の方と目が合うと、弓がゆっくり動き始めました。
「おわった…」
気が付くと、座ったまま、天井を眺めていました。大きく息を吐き、まるで放心状態のよう。自分でも納得のいく演奏だったので、そのあとのくるみ割り人形「花のワルツ」に身を委ねることができました。
「失敗ばっかりで、本当にすみませんでした…」
前半を終え、休憩にはいると、真っ先に僕は紘子さんのところへ向かいました。一瞬、初めてお会いしたときの、あの部屋でのことを思い出しました。なにを言われてもしょうがありません。いくら練習でできたところで、本番で結果を残さなければなんの意味もない世界で戦ってきた人なのですから。
「あらそう?私、耳が遠いから全然気づかなかったわ」
全身に電流が走りました。涙が溢れそうになりました。リハーサル通り弾けていないことや、ミスを連発していたことは、隣の人が一番わかっていたのですから。
「写真撮りましょう!真ん中にはいって!」
指揮者の円光寺さんと、紘子さんに挟まれています。人生40年。こんな瞬間が待っていたなんて。
「またやりましょうね」
「次はぜひ指揮にもチャレンジしてみてください」
初めて出会ったあの日。きらきら星は僕の力で輝かせることはできなかったけれど、悔しい気持ちでいっぱいだけど、今日という日は僕の中できらきらと輝いていました。
2014年12月29日 18:55