2009年02月01日

第347回「大井町の理由」

第347回「大井町の理由」
おかげさまでフニオチコンテスト完売となりました。もしも観覧にいこうと思っていたのに取れなかったという人は本当にごめんなさい。第二回が必ずあるとも言えないし、販売の勢いに押され数十席設ける予定だった関係者用の席もほとんどなくしてしまったので当日券に関しても若干枚になっています。なのでいっそのこと出場者としてエントリーしてみるのもいいかもれません。こういうことから新たな世界が広がったりするので。
いずれにしてもあと一ヵ月となりました。あの大井町の会場に腑に落ちない顔をした人たちが一堂に会すのかと思うとなんだか妙な期待に胸が膨らみます。
大井町、それは惜しくも山手線から一駅ずれた、それほどメジャーではないのだけどマイナーでもなく、派手と言うよりは地味目な街。明るさと寂しさが混在する街、大井町。大井町線という名前は付いているものの、反対側の二子玉川とは華やかさが違う大井町。そういう目で見ると駅員さんや街を歩く人たちもどこか腑に落ちない表情をしているようにも感じます。とにかくフニオチのイメージにはぴったりで、いまとなってはここ以外考えられないくらいフニオチコンテストにふさわしい街だと実感しているのですが、実はこの大井町のきゅりあんで開催することを決めたのは僕ではないのです。というのも、それはコンテストの会場を探している昨年末のことでした。
「どこもいっぱいですねぇ」
なんとなくやるなら、以前からその存在に一目おいていた区民センターのような場所でやりたかったので、東京都内の区民ホールを手当たり次第あたりました。しかし、平日はともかく土日となると一年先まで一杯という状況で、どうしても3月までに開催したいという僕の希望も捨てざるを得ない状況でした。
「3月までの土日だとこの4つです」
どうにかあがってきたのが東京都内で4箇所。当初は日曜日がいいと思っていたものの、そんなわがままも言ってられなくなりました。一度は東京がダメなら地元横浜もありかと思ったものの、ちょうどいい規模のものがなかったり、音楽専用なのでそういった使い方では…と電話で断られたり、もはやどうやってもこの4箇所から選ぶしかなくなりました。そんな矢先のことです。
「あれ、ここって…」
ロケで都内をまわっていたある日、収録場所に着くとロケバスの窓から見覚えのある文字が見えました。
「きゅりあん…?」
なんだか体がその言葉に反応していました。スケジュール表を見ると大井町と書かれています。
「大井町、きゅりあん…」
なんだか激しく聞き覚えのある言葉。僕はカバンの中にいれておいた会場候補リストを見ると、たしかにふたつのキーワードが記されていました。
「ここかぁ…」
それは天のお告げのようでした。これから下見などして会場を決めるという段階で、まるでここにしなさいとでも言うようにロケバスが停まり、収録現場がまさに、その後フニオチコンテストの会場となる大井町のきゅりあんだったのです。
こうなってしまうともう止まりません。この偶然を人は信じてしまいます。早速ロケの空き時間に会場を訪れてステージや楽屋を下見し、そのまま前金を支払って2月28日のフニオチコンテストの会場に決めたのです。完全に衝動買いです。ちなみに、この2月28日も急遽キャンセルがでたからで、これを逃すと一年先まで埋まっている状況でした。だから、なんだか運命的なものを感じてしまうのも無理はないのです。
 街としては迷惑かもしれませんが、勝手に運命を感じてしまった大井町に、今後フニオチさんたちが集うようになって、まだ色のついていない大井町を、フニオチの街として活性化させてもいいかもしれません。フニオチの街、大井町。初めて訪れる人はぜひその街のフニオチ具合も楽しんでください。

出場希望の方はコチラ

1.週刊ふかわ |11:03

2009年01月25日

第346回「リニューアルしました!」

第346回「リニューアルしました!」
いったいどこがリニューアルなのと思うでしょうが、でもタイトル通りリニューアルをしたのです。だから今回の週刊ふかわはこれまでのそれとは大きく違っています。それはある種革命的といっても過言ではないくらい、大きな変化です。気付きましたでしょうか。なにが変わったかというと、今まさにみなさんが目にしている文章は、僕自身があげた文章なのです。こんなことをいうと、やっぱり自分で考えていなかったのかとゴーストライター的なものを想像するかもしれませんがそうではなくて、これまでは管理する人に原稿を渡して、たとえば日曜日の11時というような時間設定でサイトに掲載されるというシステムだったのですが、今回からそういうのをやめて自分で直接あげることになったのです。早いはなし、ブログっぽくなったということです。   
これまでのシステムだとどうしても人為的、機械的ミスが起こりやすく、少なからず読者のみなさんに迷惑がかかってしまっていたので、このような手段を選びました。意識的に内容を変えるつもりはないですが、こういったことが文章のどこかに反映されたりするものです。また、もしかすると土曜日にあがっていたり火曜日にあがっていたりすることも将来的には起こりうるかもしれません。そんなワクワク感もプラスされ、また皆さんの感想もより直接的に僕のところに届くようになるので、一言でももらえると嬉しいです。それを掲載するかは検討中ですが。
このように、基本的にはプラスに働くリニューアルだと思っているのですが、メールマガジンの配信に関しては、やがて終了する予定です。これまでのようにメールで受信するカタチはなくなり、「パソコンやケータイで閲覧する」のみになります。そもそもツタヤオンラインで3ヶ月契約のメールマガジンとしてはじまった「週刊ふかわ」がそもそものはじまりなので、ちょっと寂しい気もしなくはないですが、今後スムーズに展開していくための前向きな終了と捉えてください。おそらく2月いっぱいは配信されると思いますが、突然それがなくなったら、そういうことになります。
日曜日に不釣合いなとても業務的な内容になってしまいましたが、どこかでリニューアルしなければと思っていたのがこのタイミングになったわけです。今後も週刊ふかわをよろしくおねがいします。
PS:mixiはじめました。別の名前ですがすぐに見つかると思います。あと、2月28日に行われる第一回フニオチコンテスト出場者募集しています。(2月7日まで)チケットはなくなりそうなので、もし観覧希望の方はお早めに!

「第1回フニオチコンテスト〜腑に落ちないことが多いから〜」
公演日:2009年2月28日(土)
開場:13:30 開演:14:00
会場:きゅりあん小ホール(品川区立総合区民会館) 
JR/東急・大井町駅前
前売:全席自由1500円/当日:全席自由1800円
出演:ふかわりょうと全国のフニオチさん、他ゲスト多数
主催:日本フニオチ協会
協力:ワタナベエンターテインメント
問い合わせ:ライブ事務局03-3746-1154(平日16〜17時)

チケット購入方法は以下の通りです
(1)ローソンチケットサイト( http://l-tike.com/ )にて
Lコード(33250)もしくは「フニオチ」で検索してください
(2)電話受付にて
0570-084-003にダイヤルし、Lコード(33250)を入
力してください
(3)ローソン店頭「Loppi」にて

詳細はコチラ  

1.週刊ふかわ |05:20

2009年01月18日

第345回「How you say is more important than what you say.」

 なんだか英語の教科書に出てくるような堅苦しい英文に拒絶反応な人もいるかもしれませんが、これは教科書や参考書からの引用でも偉人の言葉でもなく、ある34歳男性のケータイの未送信メールの中にある大量に書き留められた言葉のひとつです。
 なんとなくは感じているのでしょうが、それを言葉で表現している人はほとんどいなく、テレビでもこのことについて言及している人を見かけないので、僕としてはどうして言わないのだろう、気付いてないのかなと不思議でならなかったのですが、とても大切なことだと思うのでここで話したいと思います。
 「あなたがどのように言うかは、あなたがなにを言うかよりも重要だ」
 なぜこれを英語にしたのかは置いておいて、タイトルを訳すとこのようになります。もう少しシンプルに言えば、「言う内容よりも言い方のほうが重要」といったところでしょうか。
 たとえば禁煙エリアにもかかわらず道端でタバコを吸っている若者がいるとします。当然それはよくないことですが、だからといってそれを発見したおじさんが注意しようと「おいお前!ここは禁煙なんだからダバコ吸うんじゃねー!」と言ったとします。確かにルールを破っているのはタバコを吸っている若者なのでこう言われても仕方なさそうですが、この場合、どちらも間違っています。タバコの男性も注意したおじさんもダメなのです。いくら相手がルールを破っているからといって、乱暴に注意をする資格なんて誰にもないのです。乱暴に注意した時点でそのおじさんも、タバコを吸った人同様に人に不快な行為、たとえば「死ね」という言葉を発するのと同じです。「乱暴に注意をすることは、乱暴な言葉を発する以上に乱暴をしている」のです。
 また性質が悪いのは、どさくさにまぎれて自分のストレスも一緒に詰め込んでしまう人です。普段のイライラも一緒にその若者に対して「おいお前!」と、自分が正義だから守られていると誤解して、注意に自分の怒りを上乗せするのです。こういうことが社会ではよくあって、ルールを取り締まる人はこの手のタイプが多いです。立場や権力を利用して、自分のストレスを無意識に上乗せして注意する。これじゃ世の中よくなりません。
 言葉というのは不思議なもので、どんな言い方でも相手の心に届くわけではなく、相手の耳には届いても、それが心に響くかどうかはその人の言い方、表現の仕方によるのです。同じ荷物でも、両手で差し出されるのとドンと投げ捨てるように置かれるのとでは全然違うように、言葉という「想い」を伝える際の運搬の仕方はとても重要なのです。
 どんなに素敵な歌詞でも、いいメロディーがついてこなければ、いくら大声で叫んでも人々の心に響きません。言葉は音楽と同じで、心地良いメロディーに乗せなければ心まで届かないのです。それは声のトーンだけでなく、表情も。理屈は脳に届いても心には届きません。人は感情に左右されるのだから、脳でなく心にうったえないとダメなのです。ネットですぐに殺伐とした空気がながれてしまう理由の多くは理屈だけが横行するからでしょう。
 「How you say is more important than what you say」
 あえて英語にしたのは、比較内容が目で見てわかりやすいからです。どんなに内容が正しくても言い方が間違っていたらそれは間違ったことを言っているのと同じ。どんな正義を貫いても、その伝え方が間違っていたら、それは正義ではない。相手を傷つける権利・資格はどんなときにもどこにも存在しないのです。この未送信メールを世界中の人たちに送ることができたらいいのだけど。

1.週刊ふかわ |12:52

2009年01月04日

第344回「個人的なお知らせ〜後編〜」

 腑に落ちない人たちが集まったらどうなるだろう。腑に落ちないことをみんなで発表しあったらどうなるだろう。そんなことを考えていたら止まらなくなり、気付いたら会場を押さえていました。
 ということで、突然ですが「腑に落ちない」人たちが一堂に会す「第一回フニオチコンテスト」を開催することになりました。腑に落ちない世の中だから、いっそみんなで分かち合おう、ということです。大声コンテストやミスコンテスト、発毛コンテストなど様々なコンテストがありますが、それの「腑に落ちない」バージョンです。NHKののど自慢大会のようなものをイメージしてもらえればわかりやすいかもしれませんが、参加者が歌を歌うのではなく、腑に落ちないことをみんなに伝えるのです。
 年齢も性別も国籍も問いません。ただ、胸につっかかっている腑に落ちないこと、「フニオチ」を持参してもらえればいいのです。コンテストなので優勝者も決めます。審査員もいます。だからといって、話が上手である必要はまったくありません。厳しい目で見るわけではなく、みんなで楽しく「フニオチ」を堪能し、最終的に、かなり独断と偏見で、日本で最も腑に落ちない人を決定します。
 また、このコンテストは、芸能人としてというよりもひとりの人間として、組織というよりも個人的な活動の色が強く、手作り&手探り感満載なイベントになることが予想されますが、参加した人たちの心が少しでも穏やかになればと思っています。
 みなさんの選択肢は3つです。ひとつは、ステージの上で日頃感じているフニオチな話を発表する。もうひとつは、発表はしないけど会場でフニオチを味わう。もうひとつは、まったく興味を示さない。ちなみに第一回とは言うものの、第二回がある保証はどこにもありません。気持ち的には、いつしか武道館までいきたいところですが。
 さぁ、アナタも日頃溜まっているフニオチをぶちまけてみませんか。そしたらちょっとだけすっきりするはずです。いま、もっとも腑に落ちないのは、アナタかもしれない!!


「第一回フニオチコンテスト」
目的:世の中、腑に落ちないことが多いから
公演日:2009年2月28日(土)
開場:13:30
開演:14:00
会場:きゅりあん小ホール(品川区立総合区民会館)JR/東急大井町駅前
入場料:前売/全席自由1500円(コンテスト出場者は不要です)
出演:ふかわりょうと全国のフニオチさん、他ゲスト多数
主催:日本フニオチ協会
協力:ワタナベエンターテインメント
詳しくは、コチラに掲載中です。アナタのフニオチ、聞かせてください。素晴らしき慣用句へのリスペクトを込めて。

1.週刊ふかわ |09:28

2008年12月28日

第343回「個人的なお知らせ」

 最近では、一組のアーティストのアルバムよりも、様々なアーティストの曲が収録されているコンピレーションアルバムのほうが勢いがあるそうです。おそらく有名アーティストの曲はダウンロードで済ませられるけど、ある世代やテーマで括られた名曲集をダウンロードするのは容易ではないからかもしれません。僕自身も、よほど好きであればアーティストのアルバムを購入しますが、たいていカゴにはいるのはコンピレーションの類ばかりです。
 そんな僕の机には、様々な辞書が並んでいます。国語辞典や英和辞典をはじめ、ことわざ辞典や四字熟語辞典、その他聞きなれない辞典もあります。なんとなく面白そうな辞書を見つけるとついつい手が伸びてしまうのですが、この感覚がどこかコンピレーションアルバムを購入するのと近い気がします。日本語という膨大な数の言葉をひとつのテーマで括った辞書は、いわば一冊のコンピレーションアルバム。なかでも「慣用句」というテーマで括ったコンピレーションは特にお気に入りで、時間があるときに目を通しては、その素晴らしき慣用句の世界に魅了されるのです。
 慣用句というと国語の授業で聞くような堅苦しい印象がありますが、実際「足が棒になる」「顔から火がでる」「足を引っ張る」など、実はとても馴染み深く、無意識に使用していることが多いのです。前述の「目を通す」もそれにあてはまりますが。慣用句は、表現を豊かにし、その状況をよりリアルに伝えられる一種の「うまい例え」といえるでしょう。そういった見事な「うまい例え」が無数に載っている慣用句辞典は、もはやご飯のおかずになりうる逸品なのです。
 そもそも慣用句はどうやって生まれるのでしょう。「顔から火がでる」と一体だれが最初に表現したのでしょう。きっと第一人者はいるはずです。もしかしたら、清少納言かもしれないし、村人のおじさんかもしれません。いずれにしても、それが国民に支持されなければ今日耳にすることはないのです。実際に顔から火がでることは当然ありえないのに、人々が恥ずかしくなったときについつい使ってしまうほどに絶妙な表現だったのです。つまり、「必要とセンスが慣用句を生む」のです。
 ただ、テレビなどのない時代に、「足が棒になる」が広く伝わるのには時間がかかります。その言葉に力がなければ、一個人の表現で終了です。なのに、現代の流行語のように電波に乗らなくても広まったということは、ある曲がプロモーションなしで大ヒットしたようなもの。「足が棒になる」は、宣伝費なしで全国ドームツアーを敢行できたわけです。それだけ、近年の流行語以上の力を持っているのです。その証拠に、「どんだけぇ」はある期間で終了してしまいますが、「泣く子も黙る」は時代を超えて親しまれているわけで、言うなれば「時代を超えた流行語」のようなものなのです。映画で言うアカデミー賞作品です。当時流行もしたけれど、今見てもなお愛されるもの。「例えのアカデミー賞」なのです。
 ならば、現代にも慣用句になりうる言葉はあるはずです。もしかすると「空気を読む」とか「ハードルがあがる」という表現は、やがて慣用句辞典に掲載されるかもしれません。すでに「エンジンがかかる」や「スポットライトを浴びる」などの現代的な表現も慣用句として載っています。なので「ご飯何杯でもいける」も可能性はあるかもしれません。慣用句というのはまさに、その時代を反映している表現であり、時代が言葉に凝縮されているのです。
 ちなみに、僕の好きな慣用句のひとつに「腑に落ちない」という言葉があります。腑とは臓腑のことで、昔はそこに心が宿るとされていたから、物事が心にすっとはいらないことを「腑に落ちない」と表現したのです。どうですか、この「腑に落ちない」。僕は完全にヘビロテです。アマゾンで売ってたらたくさんカートに入れます。なんとも日本人らしい表現じゃありませんか。みなさんも一度はお試しになられたことでしょう。怒っているわけでもなく、悲しいわけでもない、でもどこかひっかかる。奥歯にネギがはさまっているような、おろしたてのタオルで体を拭くような。この絶妙かつ繊細な表現は世界に誇る日本人の情緒です。だれが言ったのかは知りませんが、素晴らしい例えをしてくれたものです。きっと昔から腑に落ちないことがあったのでしょう。それがいまだにヘビロテなのは、単に好きだからではなく、当然必要だからです。現代社会が僕にこと言葉をヘビロテさせるわけです。つまり、「腑に落ちない」という言葉は、現代社会を象徴しているのです。
 公園に行くと、すべての遊具に柵がしてあったり異常なまでの注意書き。ちょっとした失言をみんなで攻撃したり、部下のあの子が自分より有給をとったり、派遣社員だからという理由で簡単に排除されたり。なんだかどうも納得いかない。いろんなことが腑に落ちない。そう、この世は腑に落ちないことばかりなのです。もしかすると現代社会で腑に落ちることなんてないのかもしれません。ならばいっそ、「腑に落ちない」ことを受け入れてしまってはどうだろうか。そんな想いから、ひとつの考えが生まれました。さぁ、ここからが本題です。前置きが異様に長くなってしまいました。でも前置きも大切なのです。この素晴らしき慣用句「腑に落ちない」を使って、こんなことをしたら世の中ちょっとは楽しくなるかもと思い、あることを企画しました。その内容は、2009年になってから!ということで、今年もありがとうございました。また来年お会いしましょう!よいお年を〜!

1.週刊ふかわ |09:12

2008年12月21日

第342回「その言葉にまつわる一連の衝動」

 まさかこんな日が訪れるとは思いもよらなかったと言いたいところだがそんなこともなかった。思ったより早かったというだけの話で、その日が来ることを心のどこかで予想していた。ただ、予想していないこともあった。まさかこんな空虚感に襲われるとは思っていなかった。まるで、ずっとそばにいてくれるものだと思っていた彼女が突然姿を消してしまったかのような。
 「え、マジで...」
 一目瞭然だった。スクーターから降りて確認するまでもなく、なにかが終わったことを瞬時に察知した。普段はむしろ前の道を照らしていたほど明るかった店内が外の明かりをすべて跳ね返すように、まるで溶岩のような黒い塊がガラスの向こうにあった。マジックで書かれた張り紙が風に揺れ、カタカタと乾いたエンジン音が鳴っている。小さなレンタルビデオ屋のリニューアルの可能性はその「テナント募集」という張り紙によって絶たれていた。
 「つぶれた...」
 その時、この場所が僕にとって大切な場所であったことに気付いた。
 それが世の中の不況のせいだとは微塵も思わなかった。そんなこととは無関係に経営が破綻したとしか思えなかった。なぜなら、あまりにも品揃えが悪いからだ。そもそもコンビニの半分くらいの規模ということがもはやそのキャパシティーを物語っているうえ、棚には当然のようにVHSのビデオが並んでいる。品揃えでいうと一般の映画好きの人でも頑張れば追いつけるかもしれない。だから、いくらメジャーな作品だからといって絶対に油断はできなかった。どんなに有名作品でも平気でなかったりする。そんなときはいつも「あ、この前まではあったんだけどね、ちょうど処分しちゃったんだよね」といかにも奥さんの尻に敷かれてそうな店長の言葉をきく羽目になる。 
 たとえばアダルトとかアニメに特化するならまだしも、一般作品とそれとの割合は通常の店舗と同じ比率。だから、ほかの店に客を取られてしまうのも無理はない。でも、近くにライバルが存在するわけではなく、その地域で唯一のレンタルビデオ屋。つまり、離れた大型店舗の波に店ごと飲みこまれたカタチ。たしかに大型店に勝る要素は見当たらず、どう考えても完敗だった。
 だからといって、その店を利用している人がいないわけでは当然ない。現に、僕もそのうちの一人で、両方の会員証を持っている僕にとってはむしろ、その小さなレンタルビデオ屋の方が足を運ぶ回数は多かった。大して品数はないとわかっていながら、映画を見たくなったらまずその店に向かった。それは、近いからという理由ではなく。
 「え、現住所ですか?」
 「はい、期間をすぎていますので現住所を証明するものがないと更新できません」
 胸ポケットに黄色いプレートをつけた男の口から無機質な言葉が棒のように出てきた。
 「でも、いままでここで借りていたんだからこのまま更新じゃ駄目なんですか?」
 「はい、期間をすぎていますので」
 ちなみに僕は、その男が数年前からこの店で働いているのを見てきている。おそらく彼も僕のことを認識しているだろう。
 「この更新のお知らせ葉書でも駄目なんですか?」
 「はい、公共料金などじゃないと」
 「今度持ってくるんじゃだめですか?」
 病院は、保険証は今度でもいいって言ってくれる。
 「はい、今じゃないとだめなんです」
 まったく僕の言葉を寄せ付けない。はじかれた言葉が床に落ちていた。たしかに店の規則だからしょうがない。でも僕はこれまでこの店を何度も利用してきた。数日前までは歴とした会員だった。思えば出会ってから10年にもなる。それなのに彼は、これまでの日々がまるでなかったかのように冷めた目を僕に向ける。元カレにかつてのような恋心を一切抱かない女性のように、冷めた態度で接してくる。いや、もはや他人であるかのように。そんなふたりの間に、僕が探してきた4本の作品が並んでいた。選択肢は主にふたつ。現住所を証明するものを家に取りに帰る、もうひとつは、目の前に並ぶ4作品をあきらめる。
 「こんばんは」
 たくさんの人で賑わう大きな箱の前に停めてあったスクーターは、小さなビデオ屋の前に来ていた。店内はさっきとうってかわって、僕以外ひとりも客がいない。そもそも僕はその店で最大5人しか見たことがない。店長を含めて。
 「すみません、○○ってあります?」
 「えっと、ちょっと待ってください」
 こういって店長が探しにいくときはたいていないとき。きまってそのあとに、いつものフレーズがでてくる。
 「あぁ、すみません、この前まであったんだけどね、整理したときに結構処分しちゃったんですよ」
 いったいこの前とはいつのことなのか。何年前から言っているのか。どういう基準で処分したのか。結局、さっき借りるはずだった4本のうち1本しか見つからなかったが、ある意味それはこの店では奇跡に近かった。しかし、ここでも問題が起きる。財布の中にあると思っていた会員証がない。これでは一本も借りられない。なんだか今日はついてない。
 「すみません...」
 会員証がないんです。
 「あ、別にいいですよ」
 とてもあっさりしていた。なんの問題もなかった。一切の滞りもなく僕は、観たい映画を借りることができた。単にいい加減なだけかもしれない。それでも店長の言葉は、さっきの現住所にまつわる無機質なやりとりですっかり乾いていた僕の心を潤した。
 「すみません、○○ってありますか?」
 それからというもの、僕がビデオを借りる際の優先順位は変わり、見たい作品が決まっているときは電話であらかじめ訊くこともあった。
 「えーっと、ちょっと待ってください...あぁ、あったんですけど、この前処分しちゃったんですよ。ちなみに、○○って見られました?」
 電話越しに店長は別のタイトルを薦めてくる。
 「あ、ふかわさん、すみませんねぇ、この前処分しちゃったんでね」
 数分後に現れた僕に、またお決まりの言葉を浴びせてくる。そして、はい、と渡された店長のオススメ映画がまた見事にストライクにはいらないことが多い。
 電話をしないで立ち寄ることも多かった。なにか見つかるかもと、なにも決めずにはいる。静かな店内。テレビの音はしているのにとにかく物音が目立つ。そして「また来ます」となにも借りずに出て行く。そして、品揃えはなにもアップデートされていないのに、またやって来てはなにかないかと探している。 
 そんな、商店街の一角の小さなレンタルビデオ屋でなんとなく映画のタイトルと向き合っている時間がとても好きだったのかもしれない。自分の心境と映画のタイトルを照らし合わせている時間。それがぴったり合わさるとき、合わさらないとき。いずれにしても、とても穏やかな時間と空間がそこにあった。小さなビデオ屋の何百倍もの数の作品が並んでいるあの大きな箱の中に、そんなしあわせな時間はなかった。少なくとも僕にとっては。これまで口にはしていなかったが、なんともいえない味気のない場所だった。それは、単純にいうと、大切にされていない、ということなのかもしれない。大切にされているのは利益。それは決して悪いことではない。でも、無意識にその違いを感じていた。まったく同じ映画でも、どこで借りるかで全然違って見えた。だから僕は小さなビデオ屋で借りていたし借りたかった。これからもずっと。なんだか、社会全体が小さなレンタルビデオ屋から大きなビデオ屋に移り変わっている気がしてならない。
 「すみません、3,4年前に公開した映画なんですけど」
 「ごめんなさい、この前棚を整理したときに処分しちゃったんですよ」
 こんな言葉を積み重ねていたら、この店自体が社会に処分されてしまった。あんなに胡散臭くきこえたこの言葉がいとおしくなるなんて。スクーターはUターンして商店街を抜けていった。

1.週刊ふかわ |08:59 | コメント (0)

2008年12月14日

第341回「LOVE IS ALL」

 なにをもって平和とよべるかわからないから日本が平和だなんて軽々しく言えないし、就職氷河期や金融不安という言葉をよく耳にするようにいつだって社会はなんらかの問題を抱え、そんな社会に人々は漠然とした不安を抱き、不満を抱え、違和感を覚えながらに日常生活を送っています。不安を煽るという方法でしか関心を集めることができないメディアはまるで世の中が暗黒の世界に突入するかのような表現をするけど、景気が上昇しようと下降しようとそれもこれも見える世界の話で、見えない世界が豊かであれば別にそんなに憂鬱になることもないのに人々は物質主義に溺れているからキャスターの言葉や新聞の文字に一喜一憂してしまうのです。なにが本当の豊かさなのかを知らないからなのか、そういったことを国民に教えてくれる政治家は見当たらず、結局自分のことしか考えていないといわれても無理もなく、彼らのしていることは足の引っ張り合い。彼らがそんな風だからかいつのまにか日本人は揚げ足をとることに躍起になり、空気が読めない人は排除され、いいところを見つけようとせず気に食わないところばかりを探し、日本には心の広い人がいなくなってしまいました。しかも0と1とで構成される世の中になってしまってからというもの、そのちょうどいい中間地点くらいの柔軟な考え方ができなくなってしまい、まるで世界を白か黒かにはっきり分けなければいけないかのような窮屈な社会になっています。そうして人々は心の余裕を失い、便利さに埋没した生活の副作用から、物事を長期的にみることや気長に待つことを放棄し、その瞬間瞬間でしか物事を判断できなくなりました。何年とかけて根を張り年輪を重ねていくことの重要性を忘れてしまいました。
 そうしてできあがった足の引っ張り合いの国は、「あの国の文明は発達しているけど、性格悪いよね」といつか言われそうで不安。そもそも、引き摺り下ろされた人が悪党ならともかく、最近の傾向はそれほど悪くない人がそのターゲットになることで、むしろ悪ではなく本気で頑張っている人。「本気で頑張っている人が、本気で頑張っていることを妬まれて、本気で頑張らない人たちの手によって引き摺り下ろされてしまう」のです。そうして残った人たちは本気で頑張れない人たち。頑張り方がわからない人たち。そんなことの繰り返しで社会は好転するわけがありません。
 そんないまの世の中、なにが足りないって、愛が足りないのです。みなさんもうすうす感じているでしょう。どんなにお金があってもどんなに権力があっても愛が足りなかったら心は満たされません。逆にいうと、なにもなくっても愛があれば心は満たされるのです。たしかに、見える世界の豊かさも必要です。でも、どちらかというと、こっちのほうが大切なのです。世の中に起きる事件の大半は愛の欠如によるものです。幼少期に虐待を受けていたり、人との関わりを避けていたり。愛が欠如しているから、暴力的な埋め合わせをしてしまうのです。愛の注ぎ方も愛の受け止め方もわからずに大人になってしまう。愛というととても胡散臭くきこえるかもしれませんが、言葉を交わすだけで、それは輸血と同じ様に愛は注がれるのです。だから本当は、「嫌いにも愛があり、憎しみにも心がある」のです。このことを知っていれば、些細なことに腹を立てたり傷つくこともなくなります。すべてを受け止め、寛大な心になれるのです。悪い所ばかり探していたら、気付いたときは自分がそんな顔になってしまうものです。人のいいところを見つけていたら自然と自分の顔がそうなるでしょう。顔は、世界に対する自分の心が露呈する場所なのです。どんなものにも愛を持って接すれば、自然と愛に満ちた人間なるのです。
 そんな想いからはじまったユーザー育成型アイドル「COSMETICS」プロジェクト。来週からいろんなサイトで配信がはじまるので、よかったら聴いてみてください。皆さんの愛を彼女たち、そして世界に。

1.週刊ふかわ |09:13

2008年12月07日

第340回「NORTHERN LIGHTS〜アイスランド一人旅2008〜最終話 すべてはひとつ」

 「あぁ、終わってしまった...」
 もうあとは帰るだけ、という状況ほど旅においてせつないものはありません。せつなさと、いい旅だったという満足感とが交錯し、なんだか泣きたい気分になります。カウンターで荷物を預け、飛行機の出発を待ちました。早朝にもかくわらず出発ロビーは多くの人たちでにぎわっています。リュックをテーブルの上に置き、ぼーっと行きかう人々を眺めていると、これまでのことがスライドショーのように頭に浮かび上がってきました。
 ホテルに向かうバスの中。ディニャンティの滝。ラートラビヤルグの絶壁。一緒に食事をした夫婦。サンドイッチを作ってくれた娘さん。大地から噴きあがる白い煙。水色の温泉。そして、旅の間ずっと僕の心を和ませてくれた羊たち。思い出そうとしなくても勝手に蘇ってきます。
 それにしても、どうしてこんなにも心が潤っているのでしょう。旅の途中で会った人はどうして僕の心を満たしてくれるのでしょう。人と出会い、人と接すること。地位も名誉もすべてを取り払い、人と人とが触れ合うこと。気持ちが通じ合うだけでこんなにも幸せな気分になるのです。おいしいものを食べてお腹が満たされるように、人と接することによって心が満たされる。まるで本能的な欲求が満たされるかのように、それだけで幸せになれるのです。
 もしかすると、すべてはひとつ、ということなのかもしれません。人類は、物理的には離れ離れであるけれど、それはいわば細胞分裂をしているだけであって、もともとはひとつだった。だから、離れ離れだったものがつながるだけであたたかい気持ちになるのです。心が満たされるのです。そのために、愛があるのです。愛がすべてをつなげるのです。愛が人と人とをつなぎ、音楽は言葉を越え、自然がすべてを包み込むのです。だから僕が目にした人も大地も空も海も、すべてひとつなのです。人間は自然をコントロールする生き物ではなく、まぎれもなく自然のほんの一部にすぎないのです。すべて、自然から生まれた子供たちなのです。
 「そういえば、ここで...」
 飛行機が1週間ぶりのコペンハーゲン空港に到着すると、ずっと奥に追いやられていた苦い思い出がよみがえってきました。モノをなくすといいことがある、というのをきいたことがありますが、まさにそういうことだったのかもしれません。財布をなくしたかわりにオーロラを見ることができたのだから。財布をなくさずにオーロラに遭遇というのもいいですが、財布をなくしたからこそ、オーロラはいっそう輝いて見えたのかもしれません。
 「もしかして...」
 でもまだ、少しだけ可能性は残っていました。というのも、紛失したときに伝えておいたインフォメーションセンターに行けば、もしかしたらマリメッコの財布が届いているかもしれません。このまま乗り換えせず、一度ゲートから出れば訊ねることができます。これでもしも財布が戻っていたら、すべて丸く収まるのです。
 「...まぁ、いいか」
 財布をなくしたことも、それもいい思い出。取り戻す甘味よりも、ほかの甘い部分を引き立てる苦味のほうを選びました。
 離陸前に荷物を整理していると、今回の旅で大活躍したCDがでてきました。いま手にしているこの一枚のCDRに、旅のすべてがつまっています。青い空も、水平線にむかう太陽も、視界を閉ざした霧も、雨も。エイジルスタジルの虹。オレンジ色の灯台。夜空に浮かぶオーロラと、執拗に話しかけるドイツ人。このCDの中に、全部つめこみました。このCDがあれば僕はいつでもアイスランドにいくことができます。この中にある音楽がながれたら、僕はいつでもあのオーロラを見ることができるのです。
 「当分、きかないでおこう」
 そして飛行機はコペンハーゲンを飛び立ちました。窓の外を眺める彼の中にはすっぽりと、アイスランドがはいっていました。

あとがきにかえて

 ということで、一週間の出来事を13週、約3ヶ月にもわたって書き綴ってきました。よくもまぁこんなに時間をかけてと思うかもしれませんが、当然僕の中でも、「きっとみんな次回が楽しみでわくわくしてるぞ!」なんていう風には思っていなく、毎回読んでくれている人に申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。ただ、それでも「アイスランドに行きたくなりました」「旅行気分が味わえました」という感想を送ってくれる人もいて、それらの言葉は僕をとても穏やかな気持ちにさせてくれました。だから、ここまでたどり着いたみなさん、本当にありがとう、そしてお疲れ様でした。
 そもそも旅立つ前は、それこそ旅行中は、今回のアイスランド紀行文を書くつもりはまったくなかったのです。書くことを前提に旅をすると、気持ちがそういうモードになって楽しさが半減してしまうからです。しかし、例の自然の神秘に遭遇したとき、これを伝えないで何を伝えるんだ、そんな思いが芽生えてしまったのです。ただ、ひとつ問題がありました。オーロラの感動を伝えるのにどこから書くべきなのか。いきなり最終日でいいのだろうか。そこにたどり着くまでの道のりがあってこそのオーロラ。しかも紛失したCDRの曲とリンクしているんだし。そんなことを考えていたら、13話になってしまったのです。心がアイスランドに旅立ったとき、それがこの紀行文のはじまりなのです。
 強くおすすめするわけではありませんが、これまで毎週読んでくれた人も、そうでない人も、もし余裕があったら完成した状態で、最初から一気に読んでもらうと、よりいっそうイメージしやすいかもしれません。アイスランドをより体感できるかもしれません。さらに時間があれば、2007と2008を読み比べたりするのも。ほんとにおすすめはしませんが。ちなみに今回も写真を添付しなかったのは、読み手のイメージを限定させたくなかったからです。写真を載せることは一長一短ですが、そこに依存したくなかったのと、それぞれ自由にアイスランドをイメージしてほしかったのです。
 今回旅をして、アイスランドが僕の体のなかにすっぽりはいってしまいました。なにをしていても僕のなかにはアイスランドがあるのです。だからもし、興味を持たれた方は、是非いちど実際に足を運んで、わずらわしいことを全部請け負って、体感することをおすすめします。人生観がかわるとはいいませんが、人によっては変わりますが、予想以上に得るものがあるはずです。そして帰ってきたとき、あなたの心の中にもきっとアイスランドがすっぽりとはいっているでしょう。地球をもっと好きになることでしょう。人生に一度、アイスランドを。

1.週刊ふかわ |, 3.NORTHERN LIGHTS |23:21

2008年11月30日

第339回「NORTHERN LIGHTS〜アイスランド一人旅2008〜第十二話 ノーザン・ライツ」

 それは、ホテルの人の声でした。
 「ほんとですか?!わかりました!ありがとうございます!」
 受話器を置くと、ベッドから飛び起きました。
 「うそでしょ、そんなことって...」
 上着の袖がうまく通りません。部屋をものすごい勢いで飛び出すと、ものすごい勢いで戻ってきて、テーブルの上にあったオーディオプレイヤーを手に取りました。あらためて部屋を飛び出し、廊下を駆け抜けテラスにでると、ほかの宿泊客が何人かいます。そして僕は肩を揺らし、彼らと同じ様に空を見上げました。
 「これか...」
 僕を待っていたのは、夜空に浮かぶオーロラでした。最終日の深夜1時半、上空に現れたオーロラに気付いたホテルのスタッフが、翌日帰国する日本からの旅人に連絡してくれたのです。
 「これが、オーロラか...」
 それは、ある意味奇跡でした。スウェーデンなどの北部地方で、防寒着をしっかり着込んで何時間も待たないと見られません。それこそオーロラツアーをしても見られずに終わることがあるほどです。つまり、人生で見られるかわからないのです。アイスランドでは比較的オーロラが見えやすいとはいえ、10月以降。しかも、冬でも晴れていないといけません。まだ9月になったばかりのアイスランドの夜空にオーロラは珍しく、相当運がいいということなのです。僕自身、もしかしたらとすら思っていなく、オーロラのことなんてまったくもって期待していなかったのです。
 「まさか見られるなんて」
 すると近くにいた男性が話しかけてきました。
 「キミ、オーロラははじめてかい?」
 「はい、はじめてです!」
 「そうか、キミはラッキーだよ。こんな時期にオーロラは見られない。せいぜい10月くらいだよ」
 ワイングラスを手にし、かなり酔っ払っているようです。
 「君は日本人かい?」
 うなずくと彼は嬉しそうに話し続けました。
 「そうか、日本人か!僕はドイツ人だ。ちなみに日本とドイツは共通点がいくつかある...」
 オーロラを見ていたいけど、酔っ払いの相手もしなきゃいけません。彼の顔とオーロラを交互に眺めます。
 「俺は実はパイロットをやっているんだよ。君は将来なにになりたいんだい?」
 「日本ではいま、テレビの仕事してるんです」
 「テレビの仕事?なれるといいなぁ」
 日本人は若く見えるのでしょう。
 「それにしても、キミはラッキーボーイだよ」
 「あ、はい、ありがとうございます」
 「こんな時期にオーロラは見られない。せいぜい...」
 「10月以降とかですよね」
 「そう。ちなみに日本とドイツは共通点がいくつかある...」
 アルコールが、彼の話をループさせます。共通点を聞いているうちに、ほかの人たちは皆部屋に戻り、テラスには日本人とドイツ人のふたりだけ。第二次世界大戦の影響がこんなところにもでていました。
 「このオーロラはいつまででているのだろうか、写真を撮れないものだろうか」
 さすがに話し疲れたのか、ようやく彼の口の動きが止まりました。もう部屋に戻る、そんな気がしました。
 「いやぁ、しかし、君はラッキーボーイだよ...」
 こんなにもラッキーボーイだとは自覚していませんでした。そのあとはきっと共通点の話をしていたのでしょう。彼の言葉が遠のいていきます。結局30分ちかく話をしていたでしょうか。ようやくドイツ軍は撤退し、僕ひとりだけになりました。
 「やっとじっくり見られる」
 しかし、ようやく初めてのオーロラを一人で浸れる状況になったものの、どこか満たされない感じがありました。というのも、これまで写真で見たものと大分違うのです。光のカーテンなどと表現されるのに、光というよりもどこかかすんだ雲のよう。生で本物を見たという感動こそありますが、規模の小ささとイメージとの違いに多少不満が残りました。
 「まぁ、こんなものか...」
 若干こぶりなのを時期と場所のせいにしながらしばらく眺めていると、突然様子がおかしくなってきました。
 「なにこれ...」
 ひとりになってから間もなく、オーロラが突然動き出したのです。それまでかすんだ雲のように空の一部分にあったものがふわーっと広がり始め、白一色だったのが七色に発光し、あっというまに上空いっぱいに映し出されました。右から左へ左から右へ、そして真ん中からシャワーのように光が流れていきます。たしかに光のカーテンのようで、川の流れのようで、天空の生き物のように光が舞っています。空をスクリーンに、幻想的にうごめく光はもはや現実のものとは思えません。
 「こういうことか...」
 そう考えると、ワイングラスの男性がいたからこの光景に出会えたともとれます。それにしても、この天体ショーはなかなかおわりません。10分たっても20分たっても消えず、しかも常に違う動きをするので目が離せません。ずっと見上げているのがつらくなり体を地面に預けると、その冷たさが背中に伝わってきました。ポケットに入れておいたオーディオプレイヤーをとりだし、かじかんだ手でヘッドホンを装着すると、外の音が遮断され、自分の呼吸や心臓の音が聞こえてきます。そして、音楽が流れてきました。夜空を舞う光と、それと戯れるように、ときおりこぼれおちる流れ星。夜空のフルコースといった感じです。そしてこの宇宙の神秘に遭遇することをわかっていたのように、ディスプレイには「northern lights」と表示されていました。「オーロラ」という意味です。今回の旅のために無限にある曲のなかから選ばれた一曲、その曲と現実がつながりました。いま目にしているすべてがここに刷り込まれていきます。やがて、夜空のページをめくられるように朝日が昇り始めると、それにバトンタッチしてオーロラは消えていきました。
 「やばかった...」
 それは、自然からのご褒美でした。まだオーロラというものが知られていないとき、人はそれをどう思ったのでしょう。もうすべてが終了したと思っていただけに、最後の最後に訪れた予期せぬプログラムに、満足度は測定不能の域に達しました。
 「起こしてくれてありがとうございました」
 空港に向かうのは僕だけでした。
 「なかなか部屋に戻れなくて、結局朝まで見ちゃいました。」
 いろいろ会話をしていると、彼女が僕の好きなアークレイリ出身だとわかりました。冬の雪で覆われたアークレイリもなかなかいいそうです。窓ガラスが結露で覆われた車は、15分ほどで空港に到着しました。荷物を降ろし、二人で写真を撮ると、彼女の手を強く握りました。また来ることを約束して。
 「タックフィリール」
 この言葉が、最初に覚えたアイスランド語になりました。

1.週刊ふかわ |, 3.NORTHERN LIGHTS |09:23

2008年11月23日

第338回「NORTHERN LIGHTS〜アイスランド一人旅2008〜第十一話 オレンジ色の理由」

第338回「NORTHERN LIGHTS〜アイスランド一人旅2008〜第十一話 オレンジ色の理由」
 「え、もうでかけるの?」
 「そうだよ」
 「飛行機お昼の便って言ってなかった?」
 「そう。だから出発時刻までに戻るから」
 最後の夜を迎える今日、アークレイリからレイキャビクに12時の飛行機で戻ることになっていましたが、その前に行きたいところがありました。
 「どうしてこの色にしたんだろ」
 写真にオレンジ色の小さな建物が映っていました。シグルフィヨルズルにあるソイザネースの灯台です。右手のひらの中指の先、それが今日の目的地です。でも、僕にとっては目的地はそれほど重要ではなくて、ただ、いろんな景色を見たい、残りわずかとなった時間をぎりぎりまで楽しみたい、その口実として選ばれたのがこの灯台だったのです。
 「しかし、なかなかでてこないねぇ」
 予想では1時間ほどで着くものだと思っていましたが、いけどもいけどもオレンジ色があらわれません。あまり到着まで時間かかると飛行機の時間に間に合わなくなってしまいます。
 「あのカーブをまがったら...」
 ひたすら続く美しい海岸線に感動するものの、なかなか見つからない状況に焦らずにもいられません。こうなったら飛行機に間に合わなくってもなにがなんでも見てやる、そう心に決めたときでした。
 「もしかして、あれ...」
 小さくオレンジ色の建物が遠くの崖の上にポツンとたたずんでいます。銀色の車はカップに近づくゴルフボールのように、その建物に吸い寄せられていきました。
 「いまも使われているのかな」
 それは写真のとおり、なんともかわいらしい灯台でした。緑色の牧草地帯、茶色の山肌、青い海に白い羊たち。ここにいると、なぜこの色になったかわかる気もします。一見、使用されていないように思えるこの灯台も、夜になると明かりがともるのでしょうか。その光景もいつかは見てみたいものです。
 「どうにか間に合いそうかな...」
 灯台を折り返し地点に、車はUターンします。結局、最後のレンタカードライブは往復4時間の旅となりました。
 「これで、本当にお別れだね」
 「そんなあらたまらないでよ」
 「本当にありがとう。君のおかげで楽しい旅ができたよ」
 「そういわれると長距離頑張った甲斐があったな。でも、CDの件、ごめんね」
 「いいんだってそんなの。それもいい思い出だよ。こっちこそごめんね、本当はここじゃないのに」
 「大丈夫、慣れてるから」
 僕は運転席を降りました。
 「また、いつか会えるといいね」
 「うん、また、いつか」
 二人の笑顔がカメラに収められました。
 「また、来れるかな」
 銀色の車が、そしてアークレイリの街がぐんぐん遠ざかっていきます。すっかり国内線の小さい飛行機にも慣れたものです。窓からぼーっと内陸部を眺めていると、ところどころに水溜りが見えました。本来凍っていなければいけないところが融けてしまっているのかもしれません。実際目の当たりにすると、深刻さを実感します。
 レイキャヴィクに戻った僕を、夏のような強い日差しが待っていました。アイスランド最終日は昨年と同じく、最大の露天風呂ブルーラグーンにはいって旅の疲れを落とすことになっています。もう何度も温泉にはいっていますが。空港から目と鼻の先にあるバスターミナルでチケットを購入し、お菓子を片手にブルーラグーン行きのバスを待ちます。ここのラウンジも映画に登場する場所で、多少リニューアルしているものの、当時の雰囲気はまだ残っていました。
 「最終日か...」
 定刻どおり、日本人の旅人と数名を乗せたバスはゆっくりとターミナルを出発しました。改装中の教会も見えなくなり、心の中のカウントダウンももはや時間刻みになります。45分ほどで、温泉の白い煙がみえてきました。まずは、すぐ近くにあるホテルにチェックインをします。
 「昨年もここに泊まったんです」
 その間に増築されたらしく、一階建てのホテルは横に広がっていて、まだ新しい匂いのする部屋に案内されました。荷物をおき、さっそくホテルの人の車でブルーラグーンへ向かいます。
 「すごい賑わってるな」
 ミーヴァトンのそれと違って、あいかわらず多くの観光客であふれています。それでも露天風呂はあまりに広いので、まったく気になりません。マッドと呼ばれる名物の白い泥パックを顔に塗り、端っこのほうでのんびり浸かっていました。
 「日本にもあったらいいのに...」
 せっかく同じ温泉大国なのだから、日本にもこのような場所があってもいいものです。ブルーラグーンジャパンです。当然、日本の和を感じる温泉も好きですが、それとはまた違ったよさがここにあります。いわゆる温泉の概念を覆すことも大事です。プールのように水着で男女混浴できる温泉。館内にはエステとかおしゃれなカフェやラウンジもあって、岩盤浴やホットヨガ、禁煙のダンスフロアもあったりする。いわば、リラクゼーション施設。近いものでスーパー銭湯のようなものもありますが、いわばそれの北欧バージョン。その鍵を握るのが、水色の温泉です。
 「IKEAの隣とかにあったらどうだろう...」
 日本人は北欧という言葉に弱いですから。
 「もう明日帰るのかぁ...」
 もうすぐすべてのプログラムが終了してしまう、そう思うとなかなか腰があがりません。ここからあがるとまたひとつ、ゴールまでのマス目が減ってしまうのです。
 「アイスランド語でありがとうってなんて言うんですか?」
 帰りの車内で、アイスランド語の挨拶を教えてもらいました。アイスランドの人は、当然のように母国語と英語の2ヶ国語を話します。だからほとんど英語が通じるので、前回は一度もアイスランド語を使うことはありませんでした。
 「せめて最後の晩餐は豪華にいこう」
 明日の出発がはやいので、まだ夕日が窓から差し込んでいるうちに夕食をとることにしました。プログラムも残りわずかとなったいま、その思いはすべて夕食に向けられます。ここのホテルの食事はとても美味しいと評判で、昨年もそんな印象を持ちました。アイスランド語と英語で書かれたメニューを眺めると、ある文字が目に留まります。
 「ラムかぁ...」
 アイスランドといったらやはりラムです。
 「ラムの○○ソース...」
 おいしそうなお肉が頭に浮かびました。いいかんじに骨がついて、こんがり焼けています。そして、最後の晩餐のメニューが決まりそうになったとき、別の映像が頭に浮上してきました。これまで遊んできた羊たち、川辺で地面にお腹をつけていた羊たち、そして道路に倒れていた羊。これまでたくさん見てきた羊たちの表情が頭のなかを巡ります。
 「だめだ!今の僕には羊を食べることはできない!」
 もはや、僕にとってラムを食べることは、大好きな犬を食べるようなものでした。
 「いやぁ、おいしかった」
 結局最後の晩餐は、パスタとパンとオレンジジュース。そういえば、海外にいくと必ず体感した和食恋しい病にも最近は悩まされることもなくなりました。部屋に戻ってコーヒーを飲んでいると、お腹いっぱいで眠くなり、寝る前にやろうとしていた荷物の整理は明日の朝に延期になりました。明日は4時半から朝食で、5時半に出発です。
 「これですべてのプログラムが終了した...」
 目覚ましをセットした男の唇のあいだから、深い息が漏れていきました。そして、その息はそのまま寝息にかわりました。
 「電話?!」
 目を覚ますと部屋の電話が鳴っています。誰かのかけ間違いだろうか、でもなかなか鳴り止みません。
 「もしかして、寝坊?!」
 一瞬、そんなことが頭をよぎりました。
 「リョウ起きて!まだ寝てるの?!もう出発の時間よ!!」
 しかし、時計をみると深夜1時半。どうやら寝坊ではなさそうです。
 「もしもし...」
 おそるおそる受話器を持ちあげました。すると向こうから、耳を疑うような衝撃的な言葉がでてきました。

1.週刊ふかわ |, 3.NORTHERN LIGHTS |09:01