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2008年12月21日
第342回「その言葉にまつわる一連の衝動」
まさかこんな日が訪れるとは思いもよらなかったと言いたいところだがそんなこともなかった。思ったより早かったというだけの話で、その日が来ることを心のどこかで予想していた。ただ、予想していないこともあった。まさかこんな空虚感に襲われるとは思っていなかった。まるで、ずっとそばにいてくれるものだと思っていた彼女が突然姿を消してしまったかのような。
「え、マジで...」
一目瞭然だった。スクーターから降りて確認するまでもなく、なにかが終わったことを瞬時に察知した。普段はむしろ前の道を照らしていたほど明るかった店内が外の明かりをすべて跳ね返すように、まるで溶岩のような黒い塊がガラスの向こうにあった。マジックで書かれた張り紙が風に揺れ、カタカタと乾いたエンジン音が鳴っている。小さなレンタルビデオ屋のリニューアルの可能性はその「テナント募集」という張り紙によって絶たれていた。
「つぶれた...」
その時、この場所が僕にとって大切な場所であったことに気付いた。
それが世の中の不況のせいだとは微塵も思わなかった。そんなこととは無関係に経営が破綻したとしか思えなかった。なぜなら、あまりにも品揃えが悪いからだ。そもそもコンビニの半分くらいの規模ということがもはやそのキャパシティーを物語っているうえ、棚には当然のようにVHSのビデオが並んでいる。品揃えでいうと一般の映画好きの人でも頑張れば追いつけるかもしれない。だから、いくらメジャーな作品だからといって絶対に油断はできなかった。どんなに有名作品でも平気でなかったりする。そんなときはいつも「あ、この前まではあったんだけどね、ちょうど処分しちゃったんだよね」といかにも奥さんの尻に敷かれてそうな店長の言葉をきく羽目になる。
たとえばアダルトとかアニメに特化するならまだしも、一般作品とそれとの割合は通常の店舗と同じ比率。だから、ほかの店に客を取られてしまうのも無理はない。でも、近くにライバルが存在するわけではなく、その地域で唯一のレンタルビデオ屋。つまり、離れた大型店舗の波に店ごと飲みこまれたカタチ。たしかに大型店に勝る要素は見当たらず、どう考えても完敗だった。
だからといって、その店を利用している人がいないわけでは当然ない。現に、僕もそのうちの一人で、両方の会員証を持っている僕にとってはむしろ、その小さなレンタルビデオ屋の方が足を運ぶ回数は多かった。大して品数はないとわかっていながら、映画を見たくなったらまずその店に向かった。それは、近いからという理由ではなく。
「え、現住所ですか?」
「はい、期間をすぎていますので現住所を証明するものがないと更新できません」
胸ポケットに黄色いプレートをつけた男の口から無機質な言葉が棒のように出てきた。
「でも、いままでここで借りていたんだからこのまま更新じゃ駄目なんですか?」
「はい、期間をすぎていますので」
ちなみに僕は、その男が数年前からこの店で働いているのを見てきている。おそらく彼も僕のことを認識しているだろう。
「この更新のお知らせ葉書でも駄目なんですか?」
「はい、公共料金などじゃないと」
「今度持ってくるんじゃだめですか?」
病院は、保険証は今度でもいいって言ってくれる。
「はい、今じゃないとだめなんです」
まったく僕の言葉を寄せ付けない。はじかれた言葉が床に落ちていた。たしかに店の規則だからしょうがない。でも僕はこれまでこの店を何度も利用してきた。数日前までは歴とした会員だった。思えば出会ってから10年にもなる。それなのに彼は、これまでの日々がまるでなかったかのように冷めた目を僕に向ける。元カレにかつてのような恋心を一切抱かない女性のように、冷めた態度で接してくる。いや、もはや他人であるかのように。そんなふたりの間に、僕が探してきた4本の作品が並んでいた。選択肢は主にふたつ。現住所を証明するものを家に取りに帰る、もうひとつは、目の前に並ぶ4作品をあきらめる。
「こんばんは」
たくさんの人で賑わう大きな箱の前に停めてあったスクーターは、小さなビデオ屋の前に来ていた。店内はさっきとうってかわって、僕以外ひとりも客がいない。そもそも僕はその店で最大5人しか見たことがない。店長を含めて。
「すみません、○○ってあります?」
「えっと、ちょっと待ってください」
こういって店長が探しにいくときはたいていないとき。きまってそのあとに、いつものフレーズがでてくる。
「あぁ、すみません、この前まであったんだけどね、整理したときに結構処分しちゃったんですよ」
いったいこの前とはいつのことなのか。何年前から言っているのか。どういう基準で処分したのか。結局、さっき借りるはずだった4本のうち1本しか見つからなかったが、ある意味それはこの店では奇跡に近かった。しかし、ここでも問題が起きる。財布の中にあると思っていた会員証がない。これでは一本も借りられない。なんだか今日はついてない。
「すみません...」
会員証がないんです。
「あ、別にいいですよ」
とてもあっさりしていた。なんの問題もなかった。一切の滞りもなく僕は、観たい映画を借りることができた。単にいい加減なだけかもしれない。それでも店長の言葉は、さっきの現住所にまつわる無機質なやりとりですっかり乾いていた僕の心を潤した。
「すみません、○○ってありますか?」
それからというもの、僕がビデオを借りる際の優先順位は変わり、見たい作品が決まっているときは電話であらかじめ訊くこともあった。
「えーっと、ちょっと待ってください...あぁ、あったんですけど、この前処分しちゃったんですよ。ちなみに、○○って見られました?」
電話越しに店長は別のタイトルを薦めてくる。
「あ、ふかわさん、すみませんねぇ、この前処分しちゃったんでね」
数分後に現れた僕に、またお決まりの言葉を浴びせてくる。そして、はい、と渡された店長のオススメ映画がまた見事にストライクにはいらないことが多い。
電話をしないで立ち寄ることも多かった。なにか見つかるかもと、なにも決めずにはいる。静かな店内。テレビの音はしているのにとにかく物音が目立つ。そして「また来ます」となにも借りずに出て行く。そして、品揃えはなにもアップデートされていないのに、またやって来てはなにかないかと探している。
そんな、商店街の一角の小さなレンタルビデオ屋でなんとなく映画のタイトルと向き合っている時間がとても好きだったのかもしれない。自分の心境と映画のタイトルを照らし合わせている時間。それがぴったり合わさるとき、合わさらないとき。いずれにしても、とても穏やかな時間と空間がそこにあった。小さなビデオ屋の何百倍もの数の作品が並んでいるあの大きな箱の中に、そんなしあわせな時間はなかった。少なくとも僕にとっては。これまで口にはしていなかったが、なんともいえない味気のない場所だった。それは、単純にいうと、大切にされていない、ということなのかもしれない。大切にされているのは利益。それは決して悪いことではない。でも、無意識にその違いを感じていた。まったく同じ映画でも、どこで借りるかで全然違って見えた。だから僕は小さなビデオ屋で借りていたし借りたかった。これからもずっと。なんだか、社会全体が小さなレンタルビデオ屋から大きなビデオ屋に移り変わっている気がしてならない。
「すみません、3,4年前に公開した映画なんですけど」
「ごめんなさい、この前棚を整理したときに処分しちゃったんですよ」
こんな言葉を積み重ねていたら、この店自体が社会に処分されてしまった。あんなに胡散臭くきこえたこの言葉がいとおしくなるなんて。スクーターはUターンして商店街を抜けていった。
1.週刊ふかわ |2008年12月21日 08:59