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2016年03月06日
第649回「解約できない男 後編」
「解約しちゃうんですね…」
僕は、その表情に戸惑わずにはいられませんでした。
「…はい、この寒さにはかないませんでした…」
ありきたりな返答しかできず、理由をいくらか用意しておけばよかったと後悔しました。
「私、ずっといつ来るかないつ来るかなって、楽しみにしていたんですけど、とても悲しいです…」
女性スタッフの目が潤んでいる気がしました。
「すみません、僕の意思が固かったら…」
そもそも、ジムに通う目的は達成しているので、決して、志なかばではないのですが。
「この時期。みんな辞めちゃうんです」
想像していたとおり、気まずい空気が流れていました。だからといって、ここで引き返すわけにはいきません。
「なにかあったの?」
別の女性スタッフが声をかけてきました。
「いや、解約の手続きをしているんですけど…」
「え?解約しちゃうんですか?」
さっきよりも大きな声がフロアに響きました。
「あ、はい…体重も減らすことができましたし…」
「そうなんですか、でも、運動は続けたほうがいいと思いますよ!」
「そうなんですけど…」
すると、スタッフたちが入れ替わるように様子を伺いにきます。
「え?解約しちゃうんですか?」
「増えるのはあっという間ですよ!」
「また暖かくなったら泳ぎたくなりますって!」
視線を移すと、エアロビクスの人々までも、ガラス越しに、鏡越しに、こちらを見ています。
「解約しちゃうんですか〜解約しちゃうんですか〜」
ウェストサイドストーリーの若者たちのように、指を鳴らして迫ってきます。館内アナウンスまでも「解約しちゃうんですか」と尋ねてきます。
「なんだ、この状況…」
耐えられなくなった僕は、逃げるように建物からでると、道を歩く人が声をかけてきます。
「すみません、解約しちゃうんですか?」
行き交う人々が尋ねてきます。
「解約しちゃんですか?解約しちゃうんですね?」
多くの人々に囲まれて、うわーと叫ぶと、ベッドの上にいました。
「過ぎてしまった…」
時計を見るともうフィットネスクラブの営業時間を過ぎています。解約の締め日を越えてしまったので、一ヶ月の猶予ができてしまいました。また無駄に引き落とされてしまいます。
「お久しぶりです!」
それから数日後、僕はフィットネスクラブに足を運びました。なんとなく顔見知りだったスタッフの目が丸くなっています。意を決してジムに足を運んだ僕は、カウンターを通過し、階段を上がりました。向かったのは、ロッカールームです。
「ほんと、久しぶりだ…」
冬眠からさめた動物のように、僕は、水着を引っ張り出して、泳ぎに来たわけです。フィットネスクラブ側の勝利。作戦に引っかかったわけです。電話で解約できるのであれば、こんな日は訪れなかったでしょう。僕みたいな人はきっと少なくないでしょう。そうして、すでに4、5回ほど泳いでいます。面と向かって断るのが面倒だからということで解約できなかった男が、再び、泳ぎ始めたのです。果たして、意思が強いのか、弱いのか。いずれにしても、春は、みんなに力を与えてくれるのですね。
2016年03月06日 17:29
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