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2016年02月07日
第645回「パロディーばかりの世の中じゃ」
いつのまにかすっかり関東でも認知されてきた恵方巻きですが、今年は例年にも増して、便乗商品が乱立しました。恵方サンドから恵方チキン、まさかの恵方巻きサイダーなるものまで登場したそうで、もはやここまでくると憤ることもなく、笑うしかありません。もしも宗教的儀式だったらたちまち炎上でしょうが、ハロウィン、クリスマス、そして恵方巻き。本質ではない要素を掘り下げ、膨らまし、自己流にアレンジするのはもはや日本人のお家芸かもしれません。
パロディーやアレンジが得意な民族であることはかつても言われていました。電化製品が飛ぶように売れていた時代、日本は新しいものは作らないけれど、すでに存在する商品を模倣し、独自のものにアレンジばかりしていると揶揄されたものです。海外の商品の真似ばかりしている。模倣、アレンジが悪いことではなく、そういう能力こそ、社会を支えているわけですが、たしかに世紀の大発明といわれるような発想は生まれにくい土壌なのかもしれません。
テレビをつけてみれば、ドラマも映画も続編ばかり。特に近頃目にするのは「パロディーCM」の数々。最近は昔話をモチーフにしたものが流行のように流れています。たしかに面白いのですが、ひとつ言っておきましょう。パロディーというのは、面白くてあたりまえなのです。
ベトナムにいくと、バイクに乗っている人がみな暴走族のようにみえます、というのも、みな黒いマスクをしているからです。これがなぜ悪そうにみえるかといえば、「マスクは白い」という原点があるからです。笑いにしてもそうです。裸族を裸でいることを恥ずかしいとは思わないのです。つまり、原点がはっきりとしているものは、変化させるだけで、「面白い」のです。
パロディーがいけないのではありません。パロディーやカバーにも傑作はあります。一方で、眉をしかめるパロディーもあります。しかし、単に原点からずらすことばかりに甘んじていては、過去の産物を消費しているだけで、生産性がないのです。
事情もわかります。ヒットソングが生まれない。だれもが知っている曲がない。つまり、視聴者の最大公約数がない。そんな時代に、お茶の間の関心を引き付けるためにパロディーに走るのも無理はないのです。
カバー曲のなかには、曲に対する愛情よりも、売れたくてしょうがないという気持ちの方が先走っているものがよくあります。それらを咎めることができないのですが、そこにオリジナルに対する敬意がないと、聞いていて気持ち良くありません。「君の瞳に恋してる」もカバーですが、あれだってカバーされることによって爆発的にヒットしたもの。もちろん、フランキー・ヴァリの段階でもある程度の認知こそされていましたが、そこに胡座をかいたのではなく、あらたに命を吹き込んだのです。同じカバーでも、大ヒットした曲の恩恵を受けるだけのものとはわけが違うのです。
パロディーのほうが簡単といっては少し乱暴ですが、パロディーが、天地がひっくり返っても、オリジナルを越えられないのは事実です。オリジナルが偉大だということは不変的なことなのです。
だから、オリジナルの面白さと、パロディーの面白さを同じ土俵にあげるのはナンセンスで、もっと、オリジナルを称えるべきなのです。ひどいのは、それがカバーやパロディーであるのもかかわらず、オリジナルだと思って称賛される風潮。それでは、創作の神様から天罰がくだります。
音楽でもCMでも、ドラマでも、オリジナルで攻めていく時代にしたいものです。過去の産物の恩恵を受けるばかりでは、この先なにも残らなくなってしまいます。温故知新とは、過去のものにすがることではありません。0から新しいものを創る。なにもないところから、土を耕し、種をまき、根が張られ、幹が育ち、やがて花が咲く。オリジナルという果実を実らせるには、オリジナルを称える風土が必要なのです。
2016年02月07日 17:25
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