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2016年01月31日
第644回「捨てすぎる国」
最近、廃棄食品の横流しにまつわる報道が幾たびかされていました。廃棄を委託された業者はそれでお金をもらっているにもかかわらず、それを廃棄せずにほかの業者に転売しているわけですから、二重の利益であるのはもちろんのこと、道義的にも肯定することはできません。しかしながら、このようなことを可能にしてしまう背景はやはり、この国が、「捨てすぎる国」だからではないでしょうか。
日本は、年間1800万トンもの食料が廃棄されているという調査結果がでています。これは途上国の5000万人分の年間食料。日本の食品輸入量は5500万トン。食料の廃棄率でいえば、アメリカを上回っています。大量に輸入して、大量に廃棄している。しかも、日本の食品廃棄の半分以上は家庭からによるもの。
輸入量の半分以上を捨てている現状。いわゆるフードマイレージや食品ロスの問題は何年も前からあげられていますが、果たして、これはあるべき姿なのでしょうか。ましてや地球上には飢えで苦しんで、たくさんの命が奪われています。距離が遠かったらいいのでしょうか。これで本当に「美しい国」なのでしょうか。
考えてみればそうです。24時間営業の店舗がいたるところにあり、いつでもどこでも食べ物が手に入る環境。これは便利ではあるかもしれませんが、この環境を支えるには、膨大な量の犠牲が伴うことにも目を向けなくてはいけないのでしょう。消費期限を伸ばしたり、食品ロスをなくそうという企業の取り組みはなされています。しかし、現実を知り、消費者の意識が変わらなければ、焼け石に水。いつまでたっても廃棄量は減らないのです。
私たちは、常に商品が並んでいることに慣れてしまっていますが、やはりそれは異常なことかもしれません。本屋さんならまだしも、新鮮な食料品がいつでも棚に並んでいる。少しでも鮮度が落ちてしまったものはそのまま消費者に届かず廃棄される。その感覚はペットショップにまで浸透しています。
常に、なんでもある状態を目指した結果、世界でもっとも食料を廃棄する国になりました。他の国のマナーについてとやかくいう資格はもはやありません。わたしたちは無意識に、残酷なことをしているのです。
日本人は、古いものの価値を低くみすぎている傾向があります。古いものに対する嫌悪感。たしかに鮮度は大切ですが、少し過敏になっている気もします。骨董品や歴史的建造物ならまだしも、ちょっと古くなると、それを劣化したものだとして扱う。日本人の繊細さや清潔感は、食べ物に関しては、多くの犠牲を生んでいるのです。
便利な社会を目指すことは悪いことではないけれど、便利であればなにをしてもいいわけではありません。光だけに気を取られて、影から目を背けるのはルール違反。いつでもなんでも手に入るという光を支えるための、大量廃棄という影。そこに目を向けなければ、かならずや、痛い目に遭うことでしょう。
物事にはいろいろな尺度があり、いろいろな測り方があります。だから、廃棄料だけがすべてではありません。しかし、こんなにも捨てられているという現実は、GDPと同じくらい知るべき現実ではないでしょうか。エコだなんだと騒がれていたけれど、いま、エコを口にしている人は非常に少なくなりました。それは、当たり前になったからではなく、関心が薄まったから。やはり、考え方を変えないといけないのでしょう。24時間営業。年中無休とはどういうことなのか。常にあるということは、どういうことなのか。僕たちには、あらためて、「手に入らない時間」が必要なのです。
スマホでタッチして、即日どころか数時間後に届くこの便利な世界から抜け出すことはもはや不可能でしょう。しかし、これだけのものを廃棄していることを想像したとき、スーパーやコンビニで賞味期限が先のモノにのばしていた手が、賞味期限が近い商品に届くようになるのかもしれません。
人間はどんどん甘やかされています。いつでも手に入る環境が育てる人格。「手に入らない時間」がないことがもたらす影響。自分の思い通りにならないことに対する免疫力が低下し、ひとたび気に入らないことがあると感情を抑制できなくなってしまう人々。むしゃくしゃしたから人を殺しましたとか、気に入らないから刺しましたとか。新しい尺度が必要なとき。いま、折り返し地点かもしれません。
2016年01月31日 22:21
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