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2015年07月21日
第621回「きらきら星はどこで輝く〜第10話 遅れてきた少女」
「じゃぁ、もらっていない人はいませんね?」
羊たちが草を食んでいるポストカードが全員の手に行き渡ったところでした。
「すみません、わたし、まだです!」
そういって現れたのは、見るからに部活から抜け出してきたような、青いジャージ姿の少女。
「部活から直接来たの?」
「はい!」
「そっかぁ、大会前だから、しょうがないよね?水泳部だったっけ?」
「いえ、陸上部です!」
部活の練習で遅刻した設定で進む会話に、笑いが起こりました。それにしても、いままでこの真っ青なジャージの存在に気づかなかったのでしょうか。
「もしかしてキミ、いま来たわけじゃないよね?」
おそるおそる尋ねました。
「はい、いま来ました!」
「じゃぁ、一曲も?」
「はい!」
その清々しささえ感じる返答に、会場が再び笑いに包まれます。彼女は母親とチケットをとっていたようで、母親のほうは最初からいたものの、娘の彼女は部活が長引いたため、急いで来たものの、すべてのプログラムが終えてからの到着になってしまったとのこと。
「しょうがないなぁ…」
それを知ってしまったら、このまま帰すわけにいきません。とはいえ、いまの僕になにができるのでしょうか。ピアノの前に向かうものの、楽譜はすべて楽屋にあり、楽譜なしで弾くとなると、もう、この曲しかありません。
「集中力切れちゃったから、つまずいたらそこで終了だからね」
すでに帰る準備をしていた羊たちがみな、一斉に腰をおろしました。そしてピアノの前に座ると、ドビュッシーのアラベスクを弾き始めました。この曲は今日、前半に弾いた曲で、今回のために楽譜なしでチャレンジした曲でもあります。途中で旅立ちそうになったものの、どうにか最後まで弾くことができました。
「ごめんね、一曲だけで」
申し訳なさそうに伝える僕の体は、充足感に包まれていました。なんというか、弾きたいように弾けたという実感がありました。同じ楽譜なしでも、本編で弾いた時とは確実に、なにかが違いました。「間違えないように」という意識で弾いた演奏と、「もうどうにでもなれ」という意識で弾いた演奏の違いかもしれません。大きな差はないかもしれないけれど、それは、なにか、大きなものを掴んだ手応えでした。
「キミのおかげで、今日はぐっすり眠れそうだよ」
彼女が遅刻してこなかったら、この感覚は味わえませんでした。きっと、自分の不甲斐なさにいらいらして、なかなか寝付けなかったことでしょう。それにしても、この曲を楽譜なしで弾くことにチャレンジしていなかったら僕はあのとき何を弾いていたのでしょうか。偉大なる遅刻。偉大なる部活少女。彼女はフーマンに力を与えてくれました。音楽の神様からのプレゼントだったのでしょうか。それは、ソノリウムに光が差し込んだ瞬間でした。
2015年07月21日 11:01
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