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2014年12月29日

第578回「とても些細なことだけど」

 気にしない人はまったく気にしないのだろうけど、どうしてもひっかかってしまいます。それは舞台や演説、講演などで使用される、「プロンプター」と呼ばれる装置。これがあると、万が一、スピーチの内容や台詞を忘れてしまっても安心というもので、最近ではニュース番組でも使用されています。いわゆるカンペの進化形。僕自身は使用したことはないのですが、最新のものでは、撮影するカメラと一体化しているものもあり、ニュースキャスターが目線を落とさず、ずっとカメラ目線のまま、読みながら伝えることが可能になります。このアナウンサーはほかの局のアナウンサーに比べて目縁をおとさず優秀だなぁなんて思ってしまいますが、それこそプロンプターのおかげ。もっとも、このプロンプターがなければ原稿が読めないということではないでしょうし、ここに目くじらを立てるつもりもありません。僕がひっかかるのは、政治家の演説です。

  紙を見ながら話す人もいれば、なにも手にしていない場合もあります。後者の中でも、本当になにも見ていない人もいれば、プロンプターを使用している者もいます。この、実際はなにかを見ているのに、さも、いま自分のなかからでてきたかのように発せられた言葉たちが、どうもひっかかるのです。 台本を見ながらの演説と、一切そういったものに頼らないそれと、どちらが聴く者を魅了するかといえば、後者になる可能性は高いでしょう。それ以外の要素もありますが、見ながら話すのと、見ずに話すのでは、同じ内容でも印象は大きく異なります。それに、下手したら、手にしている原稿はもしかするとだれかが考えたものかも、と思ってしまいます。タモリさんの白紙の弔辞は、それを逆手にとったものでしたが。

 それくらい、台本があるのかないのか、読んでいるのかどうかはとても重要なことであるのに、プロンプターを用いていることを一切感じさせず、まるで自分の言葉で発しているように朗々と演説していることは、聴く者を欺いている気がしてならないのです。読んでいるのか、「いま、でてきている言葉」なのか。そこをうやむやにしている人の言うことを、僕は、信用できなくなってしまうのです。

 さも歌っているかのように口パクしている歌手や、ドキュメントのフリをした番組に台本があることなど、その許容範囲はさまざまで、人によって感じ方は異なるでしょう。かつて、情報番組における犬と一緒に旅をするコーナーで、犬を吠えなくさせる手術をしていたときいたとき、僕は、その番組を信用できなくなりました。犬は吠えるのに、それを歪めた番組の、どこに真実があるというのでしょう。

 プロンプターと言うくらいですから、もちろん海外でも活躍しています。どこかの大統領は寝室にもプロンプターがあると揶揄されたほど多用しています。そんな意図はないのかもしれません。ただ、失態を恐れて、万が一のときのために用意しているだけかもしれません。でも、僕にとって、「読んでいる」のか、「いまでてきた言葉」なのかを、曖昧にしてほしくないのです。ましてや、国として、とても大切なことを決めているとき。ワールドカップのタイミングに合わせたり、本当は台本があるのにないように見せている人の言葉は、どうしても国民を欺いているような気がしてなりません。壮大なプロジェクトを遂行するために国家が国民を欺いているのではと、考えたくもないことが浮かんでしまうのです。流暢でなくていいのです。たどたどしくなくてもいいのです。大事なときだから、大切なことだから、自分の言葉で伝えてほしいのです。

 

2014年12月29日 15:55

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