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2014年12月29日
第576回「パブリックを取り戻せ!」
フェイスブックやツイッターなどにおける炎上が相変わらず後を絶たないのは、おそらく、彼らがプライベートとパブリックの区別がついていないから。バイト先でイタズラする人間や、悪口を言う人間は昔からいるものだし、どうやっても絶滅することはないから存在自体を否定することはできないのだけど、いざネット上にあげてしまうと袋叩きに遭ってしまうのは、それらが「公の場」だから。そういったシステムを理解・想像していないので、心でつぶやく感覚でツイートし、日記に書く感覚でフェイスブックに投稿してしまう。自分が「公の場」にいる自覚がない。
僕自身、作り途中の曲をネットにあげる際、ほかの人には閲覧できないように、「プライベート」にチェックをするのですが、ひとたび「パブリック」や「公開」をクリックするだけで全世界で閲覧可能になり、地図のマークのとおり、地球規模になってしまう。これは、素晴らしいことであると同時に、恐ろしいものでもあるということを理解していないと痛い目に遭います。 心の中で思うのは自由ですが、そういった想いが身体から離れ、言葉となって旅立ってしまうと、「公の場」に近づき、「責任」が伴ってしまう。それが部屋の中なら構わないのですが、ネットは瞬時に世界と繋がってしまう。いつのまにか「パブリック」の主張になってしまう。一体、「パブリック」とはなんなのか。「公の場」は、どうあるべきなのか。というのも、どうも人々が「パブリックに厳しすぎる」気がしてなりません。
パブリックに、自分の理想を求めたり、パブリックはこうあるべきという先入観が横行し、窮屈になっている。公共の場というのは、そこまで平穏でなくてはならないのでしょうか。がちがちな禁止事項だらけの公園と同じように、「パブリック」という世界が、清廉潔白なものになろうとしている。いつも清潔でなくてはならないと勘違いされている。パブリックはそんなに神聖であるべきなのでしょうか。誰にも迷惑をかけてはいけない場所、なんの汚れのない場所、果たしてそれがパブリックの正しいあり方なのでしょうか。マナーよりもルールで縛り上げた社会。ちょっとでもとがっていると打たれてしまう風潮。それはネットの中だけではありません。テレビの中などもそう。公共性の高いもの。いつか、ファミレスでの友人との会話さえも吊し上げられてしまうかもしれません。
たしかに人間は、昔に比べれば、残虐性は薄まっていると思います。しかしその一方で、社会というものに、まるで無菌室のような濁りのない空間を求め、漠然とした「こうあるべき」という型を押し付けてしまう。自分の納得のいく「パブリック」を求めてしまう。パブリックさえも私物化しようとしてしまう。それはもはや「パブリック」ではありません。パブリックのプライベート化。公は私の尺度でつくるべきではないのです。 もしかすると、人々が利己的、自分中心な考えを持つようになってきているからかもしれません。すべてが自分の思い通りになると勘違いしている人々。すべてが自分にとって都合のいい環境であるべきと勘違いしている人々。それが、寛容のない社会を築いている。自分に甘く、他者や公に厳しい。「深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいている」という言葉があります。怪物と闘う際に、自分自身も怪物になっているかもしれない。本来の「パブリック」を、モンスターたちから取り戻さなければなりません。
2014年12月29日 15:49