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2014年02月11日
第560回「目の不自由な画家の作品を目が見える者が描いてはいけない」
ここ数か月、見ない日はないのではないかと思うくらい、毎日、「偽」の文字を目にしています。こんなに日々使用されては工場も追いつきません。完全に、品切れ状態。このままでは入荷待ちになってしまう勢いだという矢先、追い打ちをかけるように急発注がかかりました。それは、まさかの音楽産業から。
物質としてはまったく変わらないものなのに、ひとたび化けの皮が剥がれてしまうと、これまでのようには聞こえなくなってしまうのは、聴く側の精神状態が変化したから。今回のように、作曲した背景がドラマティックで、それを前面に打ち出していればなおのこと。話が違うとなると、これまで心を穏やかにしてくれた音に、苛立ちや憤りを覚えてしまう。その矛先は、過剰に煽ったマスコミやレコード会社、騙された自分にさえ向けられることもあるでしょう。
なかには、「曲に罪はないのだから、それが素晴らしいことには違いない」と述べる者もいますが、もちろん罪はないとしても、作曲の背景込みで聴いていた者にとっては、「耳の不自由な人間が作り出した音」に酔いしれていたのだから、事実を知ってしまったら、これまでと同じ音に感じるのは困難というもの。魔法にかかりたくても、かかれない。やはり、「目の不自由な画家」の作品を、目が見える画家が描いてはいけないのです。
ゆえに、もしもゴーストライターが、同じ曲を本人名義でリリースしていたら、それが世に広まっていたかはわかりません。マスコミが取りあげる確率は低いため、それなりに売れたとしても、「耳の不自由な作曲家」には及ばない。少なくとも、氷上で響くものにはならなかったでしょう。良い悪いは別として、「耳の不自由な作曲家」は、プロモーション能力に長けていたのです。
では今後、ゴーストライターが実名を名乗って曲を発表した場合はどうなるでしょう。これだけのことがあったのだから注目こそ浴びるものの、それが素晴らしい作品になるかどうかは未知数。素晴らしいものとして「聞こえる」かどうかは、それこそ、プロモーション次第。「悲劇のゴーストライター」などのキャッチコピーをつければ、美しく「聞こえる」かもしれません。大なり小なり、みんな、こうやって魔法を使うのです。
ただ、ひとつ言えるのは、ゴーストライターに才能があることは間違いないのですが、ひとたび実名で作曲しようとしたとき、完全なる自由を手に入れたとき、その能力、その才能を開花させることができるとは限らないということ。スタイリストとデザイナーが違うように、人によって、発揮できる分野、場所、というものがあり、これは揶揄でも称賛でもなく、彼は、「ゴースト力」に長けている人間なのです。「耳の不自由な作曲家」のために作る場合と、自分のために作る場合とでは、どうしても力の入り方が異なってしまいます。他人のために作ったからこそ、人の依頼を受けたからこそ、ここまで昇華できたともいえます。そういう意味では、皮肉なことに、「耳に不自由な作曲家」が、彼の能力を引き出したわけです。出会わなかったら生まれなかった曲。良かれ悪しかれ、二人の出会いが、お互いの才能を開花させたのです。
アーティストは正直であることが仕事だから、18年にも及ぶ、「偽りのストーリー」は、ある種の詐欺行為で、表現者としてあるまじき姿勢。言語道断であることを前提として述べさせてもらうと、結局、なかなか聞く耳をもってもらえない、ということになります。CDが飛ぶように売れた時期も過ぎ去り、ましてやクラシックの世界。名を挙げるのは困難。それなりの神秘性や話題性を作り上げることは必要なのです。聴く耳をもってもらうため。手に取ってもらうため。ただ、今回に関しては、その魔法というか、催眠術があまりに大がかりすぎました。僕はというと、いまだ、魔法を使いたくないと思ってしまう厄介者なのですが。
「耳の不自由な作曲家」が、今後、ゴーストに頼らず、自分の力のみで作曲したとき、彼の本当の音が生まれます。苦悩の先に生まれた響き。それがあまりに稚拙だとしても、これまでとまったく違う音でも。そのときはじめて、本当の「美」に気付くのです。
「曲が、作れないんだ…」
ゴーストライターをひとたび辞めた途端、記譜をするペンが止まりました。
「よかったら、僕が作ろうか…」
これまでと逆転した立場での創作活動がはじまる。さすがにこんなことは、現実には起こらないでしょうが。
2014年02月11日 08:47