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2013年12月15日

第554回「反省やめました」




 まるで「冷やし中華はじめました」のように、「反省やめました」という貼り紙を掲げ始めたのは一年ほど前。わざわざ周囲に知らせることでもないのかもしれませんが、ひそかにこんなテーマで臨ませてもらいました。これが、20代前半の駆け出しの頃であれば多少の違和感もあったでしょうが、自然とこのような心境に至ったのです。





人生で、はじめて反省をしたのはいつでしょう。小学校にはいって、「反省会」というシステムに押し込まれたとき。いや、それだって最初は、本当の反省はしていなかったかもしれません。反省のマネなら猿でもできますが、実際、動物のなかで人間だけなのでしょう。





そもそも「反省」とは、あとから振り返って、どこが悪かっただの、あそこをこうしていればよかっただの、時間を設けて問題点を浮き彫りにし、事態を改善させる行為。もちろん良い点も含まれますが、実際には悪かった部分が大半で、次回に反映させる。二度と失敗を繰り返さないようにする。そういう意味では、とても大切な行為。では、どうしてこんなにも大切なことを放棄するのか。それは、「そんなことしなくても、充分わかっている」から。





思い通りいかなかったとき、そのギャップを埋めるべく、反省をする。反省したくなるのです。どこが悪かったのか、どうすればよかったのか。頭のなかで整理して自分なりの結論を出すのは、自分が納得したいから。もやもやを取り除きたい。次は失敗したくない。つまり、反省という行為は、「心のなかにあるもやもやや、やりきれなさを、自分の納得のために言語化しているだけ」であって、ならば、心で、体で、感じているだけで充分なのです。わざわざ言語化したり、原因を追求する必要はありません。そんなことに時間を割くよりも、気にせず前に進んだほうがいいのです。





それは、責任逃れでも、聞く耳をもたないことでもありません。むしろ責任を持ち、自分で決断しているからこそ、「反省しない」のです。例えになるかわかりませんが、トイレだけ利用した罪悪感を払拭したいがためにお水を買うくらいなら、その罪悪感を抱いていた方がいい、ということです。





実際のところ、こういう性格だから、「よし、今日から反省しない」と決めても、すぐに実行できるものでもありません。「どうして反省してしまうんだ」と、反省することもあります。本当に反省しない者は、こんなこと考えることさえないでしょう。また、交通事故を起こしたり、ワールドカップの出場をかけたサッカー選手であったら、もちろん話は別。現在の職業、これまでの経験、そして自分の性格を考慮したうえで、このスタンスがベターだろうという判断。だから、押し付けたり、強要するものではありません。僕はいま、こんな生き方をしています、というだけ。いつか、「反省はじめました」という紙が貼られないことを願うばかりです。





 





 



2013年12月15日 11:26

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