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2013年12月15日
第553回「痛みは、川のせせらぎのように」
「もう、最悪だ…」
前にも後ろにも、ぎっしりと無数の車が並んでいます。郊外での仕事のために車で向かったものの、帰りが行楽帰りのタイミングとぶつかってしまい、大渋滞にはまっていました。のろのろ動いたり、まったく動かなかったり。こういうときに限って、事故が発生し、さらに渋滞は激しくなります。いったい何時に家に着けるのか。自慢じゃないですが、この世で一番と言っていいほど、渋滞が苦手。閉所恐怖症ならぬ渋滞恐怖症。精神が不安定になってしまうのです。たとえ時間がかかってもいいから、一般道にでてここから抜け出したい。その気持ちが、インターチェンジでハンドルをきらせました。もちろん、東京まではまだまだ。それでも、この状況を打破したかったのです。
「こっちもか…」
しかし、流れたのも束の間、まもなく渋滞にはまり、進むスピードもさっきと変わらなくなりました。見知らぬ道なので、いったいいま、どこらへんを走っているのかもわかりません。
「あのまま降りなければ…」
絶対に言ってはいけない言葉。口にはしていないものの、心のなかでリフレイン。しかし、引き返すわけにはいきません。それは傷口に塩を塗る様なもの。だからといってこのまま進むのは、傷口を広げるようなもの。どっちにしても苦痛は伴うというなか、僕は、引き返すのではなく、前に進むことにしました。
「なんでこんなところにいるんだ…」
見知らぬ街のコンビニ。ケータイの充電もなくなり、さらに心の余裕もなくなります。コーヒーが喉を通過していくと、再び見知らぬ道を走りはじめました。ナビはつけないタイプなので、標識と勘を頼りに進む、日曜日の夕暮れ。すると、高速の標識が現れました。それは、さっき渋滞していた高速ではありません。別の高速道路。これならきっと流れているだろうと期待に胸を膨らませて乗ってみれば、一瞬にして膨らんだ胸は萎みました。
「最悪だ…」
何度心でつぶやいたでしょう。やりきれない気持ち、やり場のない怒り。いったい何時間ハンドルを握っているのか。こんなこと二度と経験したくない。そうしてどれくらい経ったでしょう。もう計算したくないほど、帰宅までとてつもない時間がかかりました。飛行機に乗っていたら余裕で海外。そんな、最悪だった時間が、二度と味わいたくない時間が、どうしたことでしょう。いまとなっては、あれも悪くなかったと思えてきました。それどころか、むしろ愛おしくなっています。あのコンビニで飲んだコーヒーが、見知らぬ街のネオンが、記憶のなかで、妙な輝きを放っているのです。
苦痛でしかなかったあの時間、あの痛みが、記憶のなかで、心地いいものに変わっている。最悪だった一日が、最良とまではいかないまでも、素敵な一日に、変わっている。痛みとはいったいなんなのでしょう。もちろん、思い出すのも嫌な痛みもこの世にはあります。しかし、あの時あんなに辛かった時間が、日常生活のなかでときどき、川のせせらぎのように、きらきらと輝くのです。それは、単に懐かしさからくるものではありません。痛みが、世界を輝かせる。痛みが、人生を、輝かせるのです。
2013年12月15日 11:23