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2013年11月02日
第548回「美魔女について」
遂にというか、やはりというか、「美魔女論争」なるものが勃発したそうです。たしかにこの三文字はよく目にするし、論争自体は悪いことではありません。ここまで発展するのは、良かれ悪しかれ、世間が関心を持っている証拠といえるでしょう。参戦するわけではありませんが、もし、どちらかにつかなければならないとすれば、僕は、肯定派になります。
たしかに、「美魔女」と呼ばれる人たちのなかには、若干、見るに堪えない、直視できないケースもあります。また、八千草薫さんのような、ナチュラルに年を重ねているほうが、見る側としては安心もします。「美魔女」というネーミングや、「国民的」という響きに違和感を覚えるのも事実。しかし、それら以上に、「女性とはこうあるべき」とか、「主婦とはこういうもの」などと、やたらと「こうあるべき」を主張する人々に、強烈な嫌悪感・違和感を抱くのです。
一体だれが決めたのでしょう。主観でしょうか。常識でしょうか。「女性はこうあるべき」だなんて、教科書でもあるのでしょうか。「こうあるべき」を自分自身で貫くのは一向に構わないのですが、それを他人の生き方に当てはめることは、誰にも許されていません。自分の理想を他人に押し付けているだけ、型にはめようとしているだけなのです。
そもそも、この国では、人を外見で判断したり、外見を磨くことに対して、どこかネガティヴな印象を持っています。私は結婚相手を外見で決めました、というと、白い目で見られてしまう。いったい何が悪いのか。彼の優しさに惚れたという人ほど、実際は外見に惚れていたりします。本当は外見を重視しているのに、口にしてはいけない風潮。「やさしさ」なんて曖昧で、その尺度こそ千差万別。それで他人は否定できないだけ。外見は内面を反映しているのだし、顔には人生が集約される。下手に内面を探るよりも、第一印象で決めるほうがむしろ良い結果を生むもの。もっというと、外見を磨いている人は内面は磨いていない、という発想こそ、偏見甚だしいのです。
おそらく、否定的な人たちも、きっと、美魔女に対してではなく、「美魔女たちをちやほやする風潮」に対してであるのでしょう。時代に対するフラストレーション。しかし、そんなこといったら、もっと目くじらを立てるべき人々はたくさんいます。なぜあんなにちやほやされるのかと。
かつて、「オバタリアン」という言葉をよく耳にする時代がありました。美貌よりも、そのパワフルさ、大胆不敵なキャラクターが世の中を席巻しました。あのときだって、「オバタリアン」は一部だったでしょうし「美魔女」も存在していたでしょう。時代がスポットライトの向きを変えただけなのです。
結局、この国の根底に流れているのは、島国根性。仲間外れや、いじめ、差別意識。これらは半永久的に拭えないのです。出る杭は打たれるか、村八分にされる。多数決が重んじられ、人と違う者は異端扱い。ちやほやされるものは妬まれる。これらは昔からあって、食品偽装同様、もう、なくならないのです。
美魔女さえも許容できない社会になったらおしまいです。それこそ魔女狩りと変わりません。注目を集めている分、向かい風を覚悟しなくてはならないことも事実ですが、いくら整形しようが豊胸しようが、彼女たちが自分の憧れを追求すること、ちやほやされたいと願うことを、だれも否定はできないのです。
2013年11月02日 21:27