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2013年10月26日
第547回「人間は、無責任な生き物だから」
「もう、店、閉めるんです」
という言葉が、閉店時間を意味するのか、お店を畳むことを意味するのかは、声のトーンでなんとなくわかった。いつかそんな日が来るだろうとさえ思っていなかったから、不意の発表に、すぐに見合った言葉が見つからない。
もうどれくらい来ていなかっただろう。一時期はあんなに頻繁に訪れていたのに。だからといって、忘れていたわけではない。頭のなかに何度か登場したものの、行動にまで結びつかなかっただけ。歯車が噛み合わなかっただけ。それで、まるで海外にでも行くかのような思いで久しぶりに顔を出してみれば、そんな言葉が待っていたなんて。虫の知らせというのはこういうことなのか。やはり今日来ておいてよかったという気持ちと、ここ数年はあまり足を運ばなかったことへの後悔のようなものが、僕の胸のなかで蠢いている。
「そうなんですか、寂しいですね」
人間という生き物は、なんて無責任なのだろう。終わると決まってから、もっと来ていればよかったなんて。もちろん、僕が通い詰めたところでこのお店の閉店を防ぐことができたわけではないけれど、やはり、この「寂しい」という言葉は、ずっと通い詰めた者のみぞ発する資格があるもの。久しぶりにのこのこやってきた者が、ましてや店の人間に対して発していいものか。そんな葛藤が、発表を耳にしたときのリアクションを妨げたのかもしれない。とはいえ、嘘をついているわけでもない。最近足を運んでいなかったとしても、寂しいものは寂しいのだ。とても勝手なことを言ってしまえば、「行かないとしても、存在はしていてほしい」「行かないのと存在しないは全く別」なのだ。
「え?そんなに?!」
彼の口から出てきた数字が僕の目を大きくさせます。
「みなさん驚かれるんですが、たいしたことじゃありませんから」
「いや、たいしたことです。30年なんて、そうそう続きませんよ」
「たしかに、よく続いたなとは思いますが、でも、冷静に考えると、続けた、というよりも、辞められなかった、というほうが合ってる気がして」
「辞められなかった?」
「はい。続けたい、ではなく、辞めたくない。お客さんからすれば、どちらでもいいのかもしれないですが、私は、続けてきた誇りだけで、店を開けたくなかったというか、過去の力で、明日の扉を開けたくないというか…」
彼は続けて言った。
「喫茶tomorrowのマスターが、明日を見失っていたら、駄目ですよね?」
カップがソーサーに着地する音。どう切り返すべきかわからないまま僕は。
「でも、30年っていうと、この街でもかなりの古株じゃないです?」
「そうですね、すっかり溶け込んで、もう空気みたいになってしまいましたね」
「空気かぁ…」
彼がどういう意味でその言葉を使ったのかはわからない。あたりまえすぎて、存在すら認識されなくなってしまうのか。大事になりすぎると、目には見えなくなってしまうのか。
コーヒーのおかわりのついでに、これからのことを訊ねると、彼は、すでに用意してあったかのように。
「なにも考えていません。次にやることを決めてから、辞めたくなかったんです、このお店を。目的地を決めずに出発したい。一度真っ白にして、また、一から描きはじめたい。できることなら。人生を」
人は、無責任な生き物である。寂しいというみんなが足を運んでいたら、店を畳まずに済んだのかもしれない。でも、仮に、責任感が強くて、ずっと足を運び続け、お店を畳まずに済んだとしたら、それが彼の人生を幸福にしていたかどうかはわからない。彼を、このお店につなぎとめて、離れられなくさせていたかもしれない。そう思えば、この閉店が、悲しい出来事とは言い切れない。ここにあったことさえ、社会が忘れてしまったとしても。
「ごちそうさまでした」
「いままで、ありがとうございました。あ、そうだ!」
そういって、一度、奥にはいったかと思うと、すぐに戻ってきた。
「以前、好きだっておっしゃっていたので」
それは、一枚のアルバムだった。僕が通い詰めていたころ、よくこのお店で流れていた曲。
「いいんですか?」
「もちろんです」
「ありがとうございます。これがあれば、いつでもここに来られますね」
見送りを断って店を出れば、アスファルトを雨が濡らしはじめている。コーヒーの味がいつもと違って感じたのは、気のせいではないのだろう。この街からこの店が、なくなる日が来るなんて。このお店のない生活を、どんな風に感じるのか、いまは想像つかないけれど。自転車に跨り、あらためてお店を眺めると、ペダルに載せた足に力を入れた。
2013年10月26日 09:05