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2013年10月19日

第546回「窓際のピアニスト」




 おそらく帽子とかコートなどを掛ける用のフックにぶらさがっている紙袋の模様に見覚えがあるものの、それが何のお店だったか思い出せない、東京に向かう新幹線。通路を挟んだ反対側の窓側に座っている女性の頭上で揺れるトリコロールな色彩は、車窓を流れる緑を眺めていた僕の目を奪いました。





 東京に向かう新幹線はいくつかあるけれど、この路線は、比較的トンネルが多い気がします。いい景色が望めるのはわりと最初のほうで、途中からトンネルばかり。やっと抜けたかと思えばもうそこは都会の風景。期待するほど田園風景が広がらず、むしろトンネルの度に窓に浮かび上がるパリの雰囲気。





どこか余所行きの服装は、バグダッド・カフェに登場するあの女性。女性というよりも、婦人。祝日だというのに、この車両があまり混雑していないのは、三連休の最終日だからでしょうか。僕は、イヤホンをしながら、パソコンのキーボードを叩いていました。





「ピアノ?」





 彼女にふと目をやると、座ったまま、胸の高さでピアノを弾いています。見えないピアノ。これから発表会でもあるのでしょうか。それとも、有楽町の国際フォーラムあたりで演奏を聴くのでしょうか。ただ、僕からすると、鍵盤のないところでピアノの練習というのは、よほど必要なとき。普段はもちろんのこと、聴きにいく際にそんなことはまずしません。やはり、自分自身が演奏をする、それもかなり差し迫ってい状況じゃないと、あんな風に、鍵盤のない場所で指を動かしたりはしないでしょう。こちらにまったく気づかないほど夢中で弾いている様子を、僕は横目で眺めていました。





耳からはいってくる音と、彼女の指の動き。まるで、彼女が弾いているかのように感じてきました。音と手の動きが近づいては離れ、近づいては離れを繰り返し、やがてひとつになります。





「それでは、続いてお聴きいただく曲は、私の大好きなお菓子のために作った曲、ラスクの調べです。ラスクを食べているときの幸せな気分を曲にしたので、どうか食べている気分になってもらえたら…」





「ラスク?あ、そうだ、ラスクだ!」





紙袋の正体がわかりました。チョコがついたタイプとかあって、自分で買ったことはないものの、何度か頂いたことがあります。ラスクの食感のような、軽やかな音。ラスクたちも踊りはじめました。そうして演奏が終わると、彼女は、舞台袖へとはけていきました。





「あ、紙袋!」





大事な紙袋を舞台上に置き忘れています。僕はとっさにフックから取り外しました。





「あら、いけない、私ったら!」





「よかった、気づいて。それにしても、素晴らしい演奏でした!」





「聴いてくれていたの?ちょっと間違えちゃったの、わからなかったかしら」





「全然大丈夫です!」





「そう、ありがとう」





そういって彼女は、袋の中に手を突っ込んでラスクを差し出すと、人混みの中へ消えていきました。発車のベルが鳴ります。席に戻った僕は、そろそろ、降りる準備をはじめることにしました。





 



2013年10月19日 20:25

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