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2013年10月13日
第545回「ジャスティス・ハラスメント」
この言葉を聞いただけで、ピンとくる人にはおそらく説明は不要でしょう。きっと、言葉になっていなかっただけで、もやもやとした形で認識していたという人も少なくないと思います。
セクハラ、パワハラ、マタハラ。決して喜ぶべきことではありませんが、これらは現代社会に定着しつつある三大ハラスメント。時代とともに言葉は生まれるものですが、それらがこれまでまったく存在していなかったわけではありません。存在はしていたものの、数が少なかったり、共有できなかったり、表現ができなかったり。ひとたび言葉になると、ぼやけていたピントが合うように、しっかりと存在が認識され、「言葉にできなかった現象に苦しめられた人々」を、救うことが可能になります。悪いことを、悪いと指摘できる社会。たとえば、「彼氏いるの?」と訊ねてきた上司に「それ、セクハラです!」と言えるようになるまで、かなりの時間がかかったことでしょう。苦痛に感じなかった時代もあると思います。社会の変化と、事象が増えることで、伝える必要性が高まり、言葉が生まれる。
ただ、今回の言葉は、理解しやすいものではないので、そう簡単に定着するものではないでしょう。直接の被害者ということでもありません。目に余る現象に、どうにかしたいと思っていたものの、端的に指摘できず、ずっと探していたのですが、あるとき、ぽんと頭に浮かびました。
「ジャスティス・ハラスメント」
正義によって、精神的・肉体的苦痛を受けること。
本来であれば、「正義」は人を傷つけるものではありません。むしろ、それらから守るもの。しかし、どうでしょう。「正義」を武器に、誰かを傷つけている人。「正義」という剣を、ぶんぶん振り回している人。周囲にいませんか。正義による横暴。
悪者を、よってたかって踏み潰す。自分が正義の味方だと錯覚し、あるいは、正義を盾にして、絶対的に守られている立場を利用して、人を、ときに集団の力で、必要以上に傷つける。苦痛を負わせる。まるで、高い山から石を投げつけるように。果たしてそれは、正義と呼べるものでしょうか。そこにあるのは、ただ、いじめたい感情。暴力。「正義であれば、なにをしてもいいわけではない」のです。
悪者をかばっているのではありません。正義を盾にして暴力を振るう人に、疑問を感じるのです。
車両にいる人たち全員で、もしくは町中の人たちで、「痴漢」を吊し上げ、丸裸にし、「この人痴漢しました!」と、世間に知らしめる行為は、決して、「正義」とは呼べません。それどころか、みんなで感情という石をぶつける。もちろん、「痴漢」はしてはいけないこと。だからといって、彼に対してなにをしてもいいわけではありません。
匿名性がそれを助長するのか、ネットの出現によって、このジャスティス・ハラスメントが目立つようになりました。しかし、ネットの世界だけではありません。最大規模でいうと、「戦争」もそうでしょう。正義を口実にしているという意味。また、相手に過失がない場合でも、この「ジャス・ハラ」が発生することは十分にあります。
正義は、押し付けたり、振りかざすものではありません。それは、生き方を支えるもの。当事者は、それが絶対的に正しいと思っているから、余計にたちが悪いのです。
「ジャスティス・ハラスメント」
この言葉で、少しでも世の中から、不必要な苦痛がなくなることを願って。
2013年10月13日 23:43