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2013年06月30日

第536回「ネギと割り勘」


 いわゆる梅雨の谷間というのでしょうか、その日は夏のような強い陽射しが降り注いで、蝉の声でもきこえてきそう。首筋にじんわり汗をかいているにもかかわらず、いつものざるそばではなく、鴨せいろを頼んだのは、数日前からその味を求めていたから。


「あと、卵焼きと、焼き味噌も」





 いつもの脇役。この店の卵焼きはスウィーツのように甘くてふわふわしていて、幸せな気分になる魔法の卵焼き。焼き味噌は、小さなしゃもじの上に、文字通り、味噌が焼かれていて、甘い卵焼きからの流れが抜群なのです。





「はい、どうぞ!」





 思わず目を丸くしてしました。いつもの脇役のほかに、頼んでいないものが並んでいます。焼き味噌の隣にこんもりと、ネギが小皿に盛られています。





「見ていたのか…」





それは、お店の人のささやかな配慮でした。というのも、僕はいつもこの焼き味噌を食べる際、ざるそばについてくるネギをからめて食べていたのです。しかし、今回は鴨せいろなのでそのネギがない。それで、店員さんが見計らって、つけてくれたのです。ということはつまり、本来ざるそばのために刻んだネギを、ちまちまと焼き味噌に載せている光景が、しっかりと見られていたのです。愛想がいい印象ではなかったので、余計に嬉しさがあるものの、恥ずかしさも付きまといます。ふたつの感情を薬味に僕は、鴨せいろを味わっていました。





「それじゃぁ、いこうか」





 少しはなれたところにスーツを着た男性が三人。座り位置からするとおそらく、上司に対して部下二人、といった感じでしょうか。ちょうど僕が、汁のなかの鴨を箸で掴んでいる頃、彼らが席を立ちました。





「僕は、ざるそば」





まさか、と思いました。





「僕は、鴨せいろ」





「僕は…」





少しやるせない気持ちが芽生えました。憶測でしかないのでなんともいえないのですが、個別に支払いをしていることに僕は、胸が痛くなる思いでした。上司が払ってほしい、最悪、上司が払わないにしても、大の大人が、個別会計はやめてほしい。よくある喫茶店で、おばさまたちによる「わたしが払うから」と伝票の引っ張り合う光景も行儀のいいものではないけれど、もはやそのほうがぜんぜん清々しいくらい。僕が世間知らずなだけかもしれません。でも、もしも自分が部下だったら、どんな状況であれ、上司は部下の面倒を見て欲しい。少なくとも、レジでうだうだしてほしくない。こういうところで器の大きさを判断してしまいます。





「ネギ、ありがとうございました」





 僕はそういうと、無愛想ではないけれど愛想を振りまかない彼女の表情が少し緩みました。梅雨の谷間。ネギと割り勘。





 



2013年06月30日 10:51

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