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2013年03月17日

第523回「スマホが奪ったもの」




 もちろん、与えてくれたものもたくさんあります。しかし、その恩恵ばかりに気をとられて失われた事象に目を向けないと、気づいたころには手遅れかもしれません。いまや当たり前のように手にしているこの便利な道具も、ドラえもんのそれと同じように、使いかたを間違っては、依存度が高すぎては、どんなに素晴らしいものでも必ず痛い目に遭うでしょう。





 スマホやケータイの普及によって僕たちが失ったもの。いくつもあるなかでひとつ挙げられるのが、ぼーっとする時間です。





 授業中、注意をされたものでした。ぼーっとするな、と。しかし、無意識の世界に迷い込んだようなその時間は、きっと、人間には必要なものなのです。





授業中であればスマホを使用することができないので、まだその時間に充てることは可能かもしれませんが、電車に乗っている人がみなスマホをいじっている昨今、日常の中の余白がどんどん埋められていきます。ケータイからスマホになるにつれ、その傾向は顕著になり、もしかしたら宇宙人の策略ではないかと思ってしまうほど、人々はこの小さな画面に釘付けになってしまいました。





本来、ぼーっとするための時間がなくなって、それのなにがいけないの、と思う人もいるかもしれません。これがいけないのです。なぜなら人間には、ぼーっとする時間が必要だからです。いや、必要だから、ぼーっとしていたのです。この間に、頭のなかも、心のなかも、整理していたのです。自分と向き合う時間。自然との対話ともいえるでしょう。その大切な時間を奪われてしまった生活は、寝返りの打てないベッドで寝るようなもの。いつか、そのツケが回ってくるのです。





その結果、頭も心も整理できず、余裕がなくなり、常に追い込まれた状態になってしまいます。ましてや、他人の意識の中に放り込まれては、鬱につながるのも必然といえるでしょう。休肝日もあれば休脳日。人間の脳も休息が必要なのです。 





こうして、率先してぼーっとする時間を設ける必要性が生じてきました。奪われたなら、取り返せばいいのです。授業中、ぼーっと校庭を眺めている生徒には、注意するのではなく、「もっとしなさい」と。瞑想の時間というと大げさですが、積極的にぼーっとする時間を設けることが、これからの時代は必要なのです。ハンモックに揺られたり、黙々と山を登ったり。極力、自然と触れ合うことが望ましいでしょう。それぞれに、ぼーっとできる場所、空間を探すのです。





人類は、なにかを生むたびに、なにかを失ってきました。きっと、言葉や火が生まれたときも、なにかを失ったはずです。便利さと引き換えに必ずなにかを失っているのです。そして、失うことが、なにかを生んでいる。





先日、このようなことをラジオのテーマにしたら、奪われたものは「空」と答える人がいました。空を眺める時間も奪われたかもしれません。もしかしたら、もっと大切なものも見落としてしまっているかもしれません。僕たちは、どちらを眺めるべきでしょう。だからといって、この小さな窓を眺めるな、ということではありません。小さな窓ばかりになってはいけないのです。ここは、漫画の世界ではないのですから。



2013年03月17日 14:35

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