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2013年03月03日

第520回「ダヴィデにパンツを穿かせよう」




 先日とある番組でコメンテーターが発した言葉を番組が謝罪する場面がありました。不適切な表現がありましたことをお詫びいたします。その「不適切な表現」とは。





「いっそのこと、尖閣諸島に落ちればよかったのに」





隕石についての言葉。たしかに、その部分だけを切り取れば大胆な発言と捉えることもできるけれど、実際その前後を含む穏やかな語り口を見れば、それがいかに悪意のないもの、平和を望む言葉であるかは一目瞭然。謝罪を要求されるような発言には値しないのに、番組は謝罪をしてしまいました。果たして、争いを生むのはどちらだろうか。言葉を切り取って騒ぎ立てる者を正義としていいのでしょうか。謝罪によって、その少数意見が正しかったことになってしまう。謝罪をすることで別の「不快」も生んでしまう。たしかにそのジャッジは難しいけれど、言葉に誤解はつきもの。多少のクレームはあって当然と思わないと何も発信できません。少数のクレームにいちいち振り回されていたら何も生まれない。数の問題でもありません。無責任なクレームに、いちいち責任をとらなくていいのです。





一方で、公園に設置されたダヴィデ像にパンツを穿かせてほしいという要請があったそう。教育上よくない。不快だ。ここで謝罪はなかったものの、議論が生じてしまう。こんなこと、まったく検討に値しないのに。





発端は愛かもしれない。正義かもしれない。しかし、クレームをつける人たちは、自分の言葉が世界を動かしているかのように勘違いし、そこに味をしめてしまう。図に乗ってしまう。やがて快楽を見出してしまう。そんな人たちの意見に振り回されて、なんのメリットがあるのか。設置しようとした者を含む世界の感覚と、不快に思う者、果たしてどちらの気持ちを尊重すべきなのか。





クレームがあって、謝罪して、キャッチ&リリースのように、それらを繰り返している世の中。一歩判断を誤ってしまうと、本当の正義が葬られてしまう。良いクレームもあれば、悪いクレームもあると同時に、良い謝罪もあれば、悪い謝罪もある。でも最近目にするものはどちらも後者ばかり。悪いクレームに悪い謝罪。悪いクレームは、個人の我を押し付け、また、悪い謝罪は、自分の保身。結局そこに、相手に対する愛はなく、自己愛のぶつけあいでしかない。自己愛は一向に構わないけれど、忘れてはいけないことがひとつあります。





「発信する者以上にクレームを言う者が力を持ってはいけない」





糾弾する人たちが力を持ってはいけない。クレームを怖れていたら、なにもできなくなってしまいます。なにもしないことほど怖いものはありません。クレームに屈してはいけない。クレームを怖れれば怖れるほど、彼らは図に乗ってしまう。クレームは言葉によるテロになり得るのです。





もちろん、少数派の意見というのは大切ですし、数だけで判断するものでもありません。しかし、なにも言わずに受け入れている人を無視してはいけない。





 





ダヴィデにパンツを穿かせよう。





ダヴィデにパンツを穿かせよう。





小便小僧にも人魚姫にも、衣服をまとわせよう。





二宮金次郎には椅子を用意しよう。





ダヴィデにパンツを穿かせよう。





ダヴィデがパンツを穿いた日に、





腐っていることに気づくだろう。





笑われていることに気づくだろう。





民度が低いとはまさにことこと。





そうやって、取り残されてゆく。





僕はそれでもかまわないと思っているけれど、





それには覚悟が足りないね。





 





 



2013年03月03日 09:51

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