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2012年07月23日
第496回「これでいいのだと、彼は言うだろうか」
かき氷屋さんができた。一杯千円のかき氷、と聞くとどこか割高な印象を与えるかもしれない。しかし、その氷が特別な場所から採取されたものだとしたらどうだろうか。あの有名な氷を使っているのに1000円とは安すぎると感動する者もいるのだそう。そのように受け止めてもらうほうがお店としては嬉しいだろうが、ふらっと立ち寄った人のなかには、高いといって出て行ってしまう者もいるらしい。これはこれでしかたない。人それぞれの価値観。ただ、経営という目線で考慮すれば、これは死活問題でもある。このお店をどこにだすかによっても反応は違うだろう。
もっとも世界で食されているラーメンは某社のカップラーメンだというのはわりと有名な話。もちろん、カップラーメンはおいしい。深夜、罪悪感に包まれながらすする麺やスープは至福の時を与えてくれる。しかし、どうだろう。だからといって、カップラーメンをラーメンと一緒にしてしまっていいのだろうか。もっとも愛されるラーメンとして扱ってしまうのはどうも腑に落ちない。違和感をおぼえるのだ。もちろん、カップラーメンに限らず、インスタントラーメンも偉大な存在。しかし、本物のラーメンとの区別はするべきなのではないだろうか。
本物はどこにあるのか。なにが本物なのか。
1000円のかき氷がもうひとつあるとする。しかしこちらは、天然の氷を使用しているのではなく、かわいらしい女性が食べさせてくれる1000円。どうだろうか。もしかするといまは、後者のスタイルが注目される時代ではないだろうか。もちろん、流行っていい。存在価値は十分にある。しかし、かき氷の味を求めて並ぶ人の意見と、女性とのコミュニケーションを求めて並ぶ人の意見を、同じ重みにしてしまっていいのだろうか。かき氷が、道具になってしまって、いいのだろうか。
かつてであれば、後者は一過性のもので、やがて廃れる、と言えたかもしれない。しかし、いまはちがう。一過性のものが一過性にならない時代。本物が、埋もれたままになってしまう時代。
クラシック界において、レコード会社によっては、プロの演奏家ではなく、女子大生を集めるらしい。そのほうが売れるのだ。クラシックですらそうだ。いったい、本物を支えるのはだれなのか。本物とはなんなのか。どんな形態であれ、大衆が支持するものこそが本物なのか。
具体的に見えるものならまだいい。つながるつながるうるさいが、本当のつながりは、そういうことじゃない。それは、カップラーメンを食べているにすぎない。
政治に関心を持たなかった人々の価値観が、現在の混迷を生んだといえる。参加者の質が悪ければ、多数決は時代をミスリードする。世の中とは、社会とは、そういうものなのか。これでいいのだと、彼は言うだろうか。
笑いだって、そう。同じ笑うでも、なにを楽しんでいるか、なにを面白がっているかによって、まったくその質は異なる。果たしてこの国は、なにを面白がっているのだろうか。なにを問題視しているだろうか。それこそまさに文化のレベル。知らないことを笑うのではなく、知ったうえで笑うほうが質は高い。できないことを面白がる瞬間があってもいいが、それだけではあまりに悲しい。
本物が残るか残らないか、すべては大衆の感覚、価値観にかかっている。
この国の一部に、他国の民度を揶揄する者がいるが、実際に民度がさがっているのはこちらではないだろうか。自分のことは気づかないもの。耳の痛い話はなかなか耳からはいってこない。いろんな価値観が存在すべきなのにこの国は、いろんなスタイルがあるべきなのにこの国は、偏った価値観にすぐ流されてしまう。本物を追求せずに、安易に結果を得ようとする風潮。果たして、時代をリードするのは、だれなのだろうか。
2012年07月23日 15:47