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2012年07月16日

第495回「悪者さがしはもうやめて」





 またはじまった。いつもそうだ。悪者を決めつけたがる。よってたかって叩きのめして、ぼろぼろになるまで追い詰める。それじゃ、なんの解決にもならない。いじめ以外のなにものでもない。本質に目を向けず、悪者を探すことに躍起になるのは、それが楽だから、それがわかりやすいから。気持ちいいから。快感だから。傍観者もそう。誰かを追い込むことはいじめじゃないの?簡単に誰かを悪と決めつけていいの?面白い構図だね。こうやって、いじめが連鎖して、バームクーヘンのように広がってゆく。正義を振りかざして、いじめていることに気づかない。たちのわるい悪のできかた。叩きのめしたところでなにもならない。どうしていじめたのかを考えなければいつまでたっても解決しない。いじめとはなにかということに目を向けなければ、一向になくならない。陰湿さが増すだけ。方法が変わるだけ。





悪者さがしはもうやめにして、本質に目を向けて。もし悪者がいるのならそれは社会全体。一部の問題じゃない。ましてや一人の問題じゃない。社会全体の責任。大人たちの責任。なのに大人はそれを放棄する。あいつが悪いと糾弾する。いいことはつながりを持とうとするくせに、都合のわるいことは絆を切断する。自分は善人であることを実感する。卑怯としかいいようがない。大切なのは、悪者がだれか、ではない。なぜ、なのか。





猫を蹴っ飛ばして笑っている小学生。犬を溺れさせてたのしんでいる中学生。





 みんながみんなではないのに、なぜ、なのか。





それが快感になってしまったから。そこに快楽を見出してしまったから。ほかに気持ちよくなるものが見つからないから。自分の力を確認できる場所。自分が影響できること。生きる実感。それらが相まって、快感につながる。快楽に溺れる。麻薬と同じ。ほかに見つからなかった。ほかに与えることができなかった。





なぜ、いじめられるのか。それは恋人になってしまっただけ。いじめる人の相手に選ばれてしまっただけ。精神的な支えになってしまった。痴漢のように、ただ、そこにいただけ。だから、痴漢される奴が悪い、にはならない。ただ、「この人、痴漢です!」といわない限り、周囲は気づいてくれないだろう。もし、痴漢ゼロに躍起になる鉄道会社なら、痴漢がなかったようにするだろう。システムが、被害者に不利に働いてしまうことは、世の中では日常茶飯事。いじめられる人はいじめの被害者であり、社会の風潮の被害者でもある。本質に目を向けず、結果だけで判断する社会が、いじめられている人の声を遠ざけてしまった。





どうしたらなくなるのか。それは、両者が被害者であることを認識しないかぎり、陰湿ないじめは減らないだろう。いじめられる人はいじめの被害者。いじめる人は社会の被害者。もちろん、いじめる人を擁護するわけではない。なんらかの処置を受けるべきだろう。中毒になってしまったのだから。その快楽を知ってしまったのだから。しかし、いじめる人を作ってしまう社会に責任をもたない限り、いくら調査しようが、いたちごっことなるだろう。





きっと昔から、いじめも自殺もあったはず。しかし、死に追い込むほどの、陰湿なそれがあっただろうか。いじめの快感。これ自体は否定できるものではない。だからこそ、味をしめてしまわないように。ほかの快楽に出会えるように。社会に足りないもの。生きる実感。システムの弊害。





大人も子供も、生きることに精いっぱいだ。しかし、いくら精いっぱいであろうと、社会のルールを破ることを認めるわけにはいかない。かといって、部分的に見ていても、社会全体を見直さない限り、悲しいニュースはあとを絶たない。まずは、悪者を吊し上げて満足する風潮から脱することだろう。それ自体が、いじめと変わらないのだから。





 





 



2012年07月16日 08:38

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