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2012年05月20日
第488回「手のひらを太陽に」
「ちっとも動きやしないじゃないか」
少年は、心の中でそうつぶやいた。
彼はいつもそこにいた。その場所を気に入っていた。どこでもできるといえばどこでもできるが、カフェでの読書や新幹線での原稿のように、その場所がちょうどよかった。あのひんやりした鉄の部分を腕にからめ、かるく揺れながら操作する。それが心地よかった。ブランコでスマートフォン。友達も必要ないし、サッカーボールも必要ない。ブランコになんて興味はなかったけれど、この機械を持っているときは別だった。風が通り抜けるようにスライドする画面。指ひとつで世界を動かしているような感覚。わずらわしいことはなにもなかった。やがて彼の指が、画面の外に向けられる。こうやって、なにもかも動かすことができたなら。画面と同じように、指先で操ることができたなら。
陽光を遮るように手をかざすと、少年の口から大きく息が吸い込まれた。そして、ゆっくりと画面をスライドさせるように、手のひらを動かした。
「今日は、きっと…」
右手がいつもより、力を持っている気がした。みなぎってくるなにかを感じていた。何度も訓練をした成果がいま、現れる。手の影が少年の顔に重なり。
「あっ」
雲が手に合わせて動いた、そんな気がした。
どうして画面の中はこんなに簡単に動くのに、世界はなにも動かないのか。いったいなにが違うというのか。少年は理解できなくなっていた。それどころか、画面が動くことを無意味にすら感じはじめた。これが動いたところでなんだというのか。なにも変わっていない。世の中を指一本で動かすどころか、なにひとつ変わっていない。足もとを歩く小さな虫さえも動かすことができない。無力な自分。少年は、その機械を地面にたたきつけたくなった。そんな言葉を用意して、山里は、教頭先生のお話に臨んだ。
「みんなはどう思いますか。ブランコを作った人が見たら悲しむでしょう。ブランコは空を眺めるためにある。風を感じるためにある。決してケータイをいじるためにあるのではないのです。画面の中と現実が、区別つかなくなってしまった少年。そんな風にならないでほしい。みんなは、画面の中で生きないでほしい。膝にたくさんのかさぶたを作って、現実を実感してほしい。それがキミたちの務めだ」
朝礼が終わり、誰もいなくなった校庭で、スプリンクラーが回りはじめた。
「教頭先生、今日のお話、素敵でした」
新人教師の真美が山里の傍に駆け寄った。二人の関係はまだほかの教師たちには知られていない。
「ちゃんと伝わっていればいいんだが」
「伝わっていますよ、少なくとも私にはグッときました!」
「そうか、しかし、今日は風が強かったな。何度も煽られて、立っているのが精いっぱいだった」
真美は、それが風のせいでないことは、黙っておくことにした。始業ベルが鳴ると、彼女は微笑んで職員室をあとにした。窓に映る雲がゆっくりと移動して。
2012年05月20日 11:59