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2012年04月08日

第482回「正義とはなにか」





「正義の味方」という言葉を耳にした幼少のころはなんの滞りもなくすとんと心に届いていたけれど、いまになってどうものどのあたりで引っかかるようになってしまったのはどうもこの「正義」というものに違和感を覚え始めたから。果たして正しいものなのか。仮に正しいとして、正しいと思ったことを貫くことはいいことなのだろうか。「正義」それ自体が正しいとしても、それを「貫く」ことは別次元なのではないか。「貫く」ことがむしろ世界を窮屈にしてしまうのではなかろうか。





犯罪のない世界があるべき姿ではない、というと誤解されてしまうかもしれないが、社会の秩序を乱す行為はもちろん咎められるべきで、犯罪が発生しないように社会は努めるべきだけど、それが取り締まりの強化によるものでは根本的に違うのではないだろうか。





ネットによる社会制裁。正義を振りかざす市長。どちらも「正義」。だれもが「正しいこと」を行使してまさに「正義の味方」を実感しているはず。しかし、だれも疑わない「正義」にこそ本当の恐怖があるのではなかろうか。なんでも力を持ちすぎたらそれは別のものに変貌するもの。いくら「正義」だろうがなんだろうが、それを振りかざして圧倒してしまえばそれは「暴力」。「正義」もたくさん集まれば「悪」になりうるのだ。果たして彼らはそこに気づいているのだろうか。「悪」を自覚した「悪」よりも、「正義」だと勘違いしている「悪」のほうがよっぽど性質がわるいことを。





正義かどうかはその立場によって尺度は変わるのはもちろんのこと、たとえどんな正義であってもそれを振りかざすことは「正義」を凶器に変えてしまう。だれも「正義」を他人に押し付ける権利なんてない。「正義」なんて所詮人間にとって都合のいいルール。そもそも限界があるものだし、「正義」で世界を丸くおさめようとした段階で愚かさの極みなのだ。いってしまえば、「正義」なんて存在しない。そんなものはあれと同じで、人間が生きる上で都合よく構築した幻想にすぎないのだ。





いろいろな人間がいる。様々な価値観が共存できる社会こそ健全なもの。ひとつの価値観を押し付けるようではそれは暴力とかわらない。言葉だったら何を発してもいいわけではない。ヒトラーだって時代によっては正義の味方だったはず。あの国にとっては、いや、いまでもそう捉えている人もいるだろう。正義がヒトラーを生んだのだ。





「世の中とはそういうものなんだ」





社会がすべてを受け入れるようになったとき、人はなにを正義とするのだろう。





「世の中に悪は存在してはいけない」





この考えは果たして、いつまで続くのだろうか。争いは、正義たちの戦いなのだ。



2012年04月08日 00:21

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