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2012年03月24日
第480回「パイとタルトとマトリョーシカ」
最終話 パスポートケースはシナモンの香り
「まっしろだ…」
声を集めている間に旧市街は着々とお色直しをしていました。まっしろな雪たちに覆われたラエコヤ広場は童話の絵本を見ているかのようです。屋台の三角の屋根にもふわふわした綿のような雪がかぶさり、広場一面を真っ白に染めています。誰もいないステージ。足跡のない雪の絨毯。あのにぎやかだった時間はどこへいってしまったのでしょう。空から降ってくるスノーフレーク。昨日お店で買った頭をすっぽり覆う帽子の上にも集まっています。町中が雪で覆われて、だれかが巨大なタルトを作っているようです。このタルトは一体だれが食べるのでしょう。
目が覚めると、雪が反射する光が窓から差し込んでいます。4日目の朝。ホテルで朝食をとると、外を歩かずにはいられません。まだ動き出す前の旧市街。真っ白に覆われた石の街。朝の雪景色は夜のそれとはまた違った印象で、車も三角の屋根も石畳も、まぶしいくらいの白を発しています。
「今日でお別れだ」
日曜日のラエコヤ広場に人々が集まってきました。屋台が順番に開けられると、いつもの賑わいが戻ってきました。フランクフルトの光沢、アーモンドのシナモンの香り、ホットチョコレート、アップルパイ、たくさんの香りがあつまる場所は今日もしあわせの音が風船のように空へと飛んでいきます。
「これください」
旅の記念に購入したパスポートケースには、まるで街をテイクアウトするように、タリンの旧市街が映っています。気が済むまで歩いて、ようやく出発する気持ちが整ってきました。
「あれ?」
出発の準備をしていたときです。
「おかしいなぁ…」
パスポートが見当たりません。せっかくケースを買ったというのに、というよりも、見つからないと船に乗ることさえできません。荷物という荷物、カバンというカバンをあさってもなかなかでてきません。
「…キミ?」
パスポートケースといっしょに購入したマトリョーシカがこっちを見つめていました。それは、出掛けるたびにいつも窓越しに目があっていたもの。
「まさかね…」
もはや開けられるものはこれしかありません。いまにも逃げ出しそうなマトリョーシカをそーっと手にすると、雑巾を絞るようにお腹をねじりました。
「やっとだ…」
灰色の雲の下で、オレンジ色のスーツケースが真っ白な絨毯に映えています。久しぶりの城壁の外は、雪に覆われているものの、アスファルトの上を車が走っていて、現代に戻ってきたよう。葉のない真っ黒な木々が空に亀裂をいれていました。
「それでは、歌う方はこちらに並んでください」
帰りの船は、行き以上に賑わっていました。生演奏やビンゴなどをしたスペースではカラオケ大会がはじまり、誰かが歌いだすとダンスフロアに人が集まります。知っている曲はほとんどなくても、見ているだけでしあわせな気分。まだまだ夢の中にいるようです。
「それにしてもおかしいなぁ…」
パスポートがあんなところにはいっているなんて。いったい誰の仕業なのでしょう。そして、ベッドの下に落ちていた謎のメモは相変わらず財布のなかにはいっていました。
「しまった、見てしまった…」
カフェテリアのショーケースのなかに、発見してしまいました。大きな丸いタルト。だれも踏み入れていないレアチーズ大陸。冒険家の血がさわぎはじめます。
「素敵な町だった…」
コーヒーを飲みながら、青白く染まる海を眺めていました。吐く息が、汽笛のように風に流されていきます。パスポートケースに映るタリンの街は、見ているだけでシナモンの香りが蘇ってきます。予定にはなかった長い長い寄り道。遠くに島影が見えてきました。これから冬のフィンランドのはじまりです。
http://soundcloud.com/rocketmaaaaaan/hello-1
2012年03月24日 12:33