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2012年03月11日
第478回「パイとタルトとマトリョーシカ」
第八話 声を集めて
「一応持っていこう」
今回の旅では普段持っていかないものもありました。それはボイスレコーダー。記者たちが政治家にむけているアレです。この小さな機械で、旅先で出会った人たちの声を録る、それがなにもしない旅のなかでの唯一やること。もちろん義務にはせず、もしもそんな気分になったら。
「うまく録れるかなぁ」
滞在日数が増えて、気持ちに余裕ができたのか、出発前にぼんやり抱いていた想いが徐々に明確になっています。ただ、声といってもなんでもいいわけではありません。僕が求めているのはたった一言。どうなるかわからないけれど、とにかくやってみよう。お願いしてもらうべきか、自然の会話を録音するべきか。なにも言わずに向けるわけにいかないし、勝手に録るのは盗聴しているようだし。
「すみません、もしよかったら…」
カフェの店員さんや、おみやげ屋さん。日本でさえ警戒されかねない内容を英語で説明する、しかもエストニア語が公用語の場所で。にもかかわらず、小さなマイクに照れくさそうにしながらも、要求に応じてくれました。
「言ってみるもんだ」
しかし、どうも納得がいきません。どこか心が痛みます。それは店員さんとお客という関係。お店でお願いするのはずるいのではないか。よほど仲良くなった店員さんであればいいけれど、そうじゃなければお客という立場を利用している。そうじゃなくて、もっと、人と人との関係で声を録りたい。
「とはいってもなぁ…」
いきなり声を掛けるのはどうなのでしょう。旅の恥はかき捨てとはいうものの、容易に捨てられるものでもありません。それに街中は観光客ばかり。楽しそうにしている人たちに自分のやりたいことを押し付けて不愉快な思いにしたくありません。地元の人にいきなり声を録らせてくださいというのも怪しいし、道を尋ねる延長でお願いするのは詐欺のようで気が引けます。そんな葛藤はやがて、旅人に真夜中の石畳を歩かせました。
昼間とは違う旧市街。広場こそ静寂が漂っているものの、週末だからか場所によっては地元の若者たちをちらほら見かけます。お店の前でたむろしている男女。そこからすこし離れたところでうろうろする日本からの旅人をオレンジ色の街灯が照らしています。
「よし、行ってみよう!」
片手にお酒を持ってたばこの煙を勢いよく吐き出しています。ポケットの小さな機械を指で確認しながら。
「すみません、日本から来たんですけど…」
深夜3時を過ぎています。
「実は、声を集めていまして…」
若者たちの表情が緩みました。
「なんだ、日本から来たのか!」
意外にも、彼らは日本人の言葉を受け入れてくれました。
「ここにいえばいいのかい?」
これほど酔っ払いに感謝したことはあったでしょうか。お酒に感謝したことはあったでしょうか。もの珍しさとアルコールの力を借りて、欲しい言葉を機械のなかに入れることができました。店員さんではなく、街中で声をかけて仲良くなる心地よさ。昼間だったらこんなにうまくいかなかったかもしれません。そうして、小さな機械のなかに少しずつ、気持ちお酒のはいった「hello!」がたまっていきました。
「ここで、声を録れたら…」
目の前にはサンタクロース、そしてたくさんの人たちがいます。こんなチャンスはありません。このステージからマイクを向けられたら。昨晩の経験が僕に自信を与えています。酔っ払いたちに声をかけていた男にとって目の前のステージはもはや、手の届かないところには見えません。ポケットの中でボイスレコーダーを握りしめました。
「すみません!すみません!!」
人生ではじめてサンタクロースに声を掛けるとき。しかし、周囲の音にかきけされてしまいます。
「すみません!!」
すると、イベントのスタッフらしき女性が声をかけてきました。
「パスポート!?」
「そう、パスポートがなかったら帰れないでしょ」
「それはさすがにどうなの?」
「だって、この街にいてもらうには、それくらいのことしないと」
そういって、上から3番目のマトリョーシカはソファーの上に置かれたカバンの中に侵入しました。
「いやぁ、やってみるもんだ」
満足げな表情で帰ってくる旅人。窓の外に白いパウダーが降ってきました。
2012年03月11日 01:37