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2012年02月12日
第475回「パイとタルトとマトリョーシカ」
第五話 大航海時代
「大陸だ…」
コロンブスと同じ心境でした。長い長い航海を経て、ようやく目の前に現れた大陸、それは大きなタルト。クッキーのような茶色で縁取られた真っ赤なまあるいタルトがショーケースのなかで輝いています。宝石のように輝くその大陸を気にしながら僕は、通りの見えるテーブルに着きました。
「テレ!」
エストニアの挨拶。巻き舌でいうひともいます。赤いテーブルに緑のソファー。このお店がこれまで見たカフェと雰囲気が違うのはおそらく地元のひとたちが集まる場所だからでしょう。店員さんはもちろん、お客さんも、日常の空気。だから賑やかというより、落ち着いた時間が流れています。
「どうしよう」
果たして上陸すべきだろうか。なにせ、ついさっき朝食でお腹を満たしてきたばかり。しかし、あの大陸を目の前にして、無視するわけにはいきません。
「ラズベリーのタルトなの」
大陸の向こうから顔を出す女性の声。ほかにもいくつか大陸はあるけれど、未開拓なのはこの赤いタルトのみ。あらためて見る、ショーケース越しの赤い大陸はやはりほかのどれよりも魅力的で、むしろ上陸するのがもったいない気がしてしまうほど。
「どうぞ」
テーブルの上で小さな蝋燭の火が揺れています。カフェオレの白と茶色。ビールのように口のまわりについてしまいそうな白い泡の部分を通り抜けて、茶色い部分が流れてきます。鋭角に切り取られた大陸。これが今回開拓した場所です。先端から切り崩されると、冷たいラズベリーが体のなかを冷たいまま、ころころと降りていきました。
「うん、上陸してよかった!」
わざわざエストニアまできて、小さなカフェでカフェオレとタルト。こんな大人にいつなってしまったのか。ときどき、馴染みのある音楽が流れてきました。
「Must puudel?」
切り取られたばかりの大陸が、ガラスの向こうでどっしりと居座っています。なんて読むのか、どういう意味なのかわからないまま、お店の名前をカメラに収めました。
「いい天気だ…」
気づくとここにきてしまいます。この賑わいは幸せの音。この匂いは幸せの香り。この広場の引力から逃れることができません。どこかへいっては必ずここに戻ってきてしまう。時間がたつと気になってまた来てしまう。なにもしない旅はいつのまにかフィンランドではなく、このエストニアでしっかり決行されていました。
「イヴァロまでは…」
窓からは石造りの家並み。部屋に戻ると明日以降の予定を立てていました。イヴァロというのはフィンランドの最北の地。いまは雪に覆われて、オーロラ観測もできる場所。ここで真っ白な世界に囲まれて「なにもしない」というのはどうだろうか。凍てつく寒さ、静寂、神秘的な光景、そしてオーロラ。なにもしない場所としては最適です。極上のなにもしない場所。ベッドの上で光が舞っています。そして夜が更けていきました。
2012年02月12日 13:04