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2012年01月29日

第473回「パイとタルトとマトリョーシカ」

第三話 ノックアウト

「エストニア、ラトヴィア、リトアニア」

 韻を踏むようにリズミカルな響きをなしているのはバルト三国として知られる3つの国。その一番北に位置する国がエストニアで、ここから海を隔ててスカンジナビア半島があります。さきほど船が渡ってきたのはフィンランド湾。入国審査はないものの、チケット購入の際はパスポートを提示しています。地図を見るといまにもくっつきそうですが、両社は民族的にも近く、言語も似ているのだそう。

 歴史の教科書にも登場する「バルト三国」。ソビエト連邦崩壊の呼び水となったその独立は、遠い記憶ではありません。あれから二十余年。いまはもう社会主義の空気はありません。こうして簡単に入国できるのも民主化の恩恵のひとつでしょう。

 港から凍った道を歩くこと20分。僕はタリンの旧市街にいました。石の城壁に囲まれた旧市街は13世紀に創設された町。城壁はもちろん、教会、市庁舎、ハンザ商人の住居や倉庫が中世のままの姿で保存されています。生きた博物館とはこういうことをいうのでしょう。石造りの家々に、四角い木枠の窓。三角にとがった屋根は雪が積もらないようにでしょうか。どこに目をむけても現代ではありません。ヨーロッパに踏み入れること自体、それなりのタイムスリップ感はありますが、ここはさらにディープで濃厚な感じ。デジカメじゃなかったらいくつあっても足りません。スーツケース泣かせの石畳の道は、かつてベルギーのブルージュやプラハを訪れたときと、手に伝わる振動が似ています。スーツケースをかたかたと揺らしながら進む旅人を、窓越しにマトリョーシカたちが見つめていました。

「なにもしない旅」

 それが今回の目的であるにも関わらず、さっそくアクティブに行動しているのは、かつてフィンランドを訪れた際に気になっていたためで、とりあえず最初にその心残りを片付けておきたかったのです。

「ここかな…」

 日帰りも可能ではあるものの、やはりここはのんびりと。せっかくなので勇気をもって予約した5つ星のホテルは旧市街のなかに位置する、とてつもなく中世なもの。15世紀のハンザ商人の建物を利用した館内は、太い天井の梁やフレスコ画、暖炉や石の壁が中世の商家を彷彿とさせ、僕は完全にヨーロッパ人になりました。

 ふかふかのソファにリュックを置くと、休みたがっている体を心が許しません。コーヒーも飲まずに冷たい雨が落ちてくる石畳の町へと繰り出しました。世界遺産に登録されているだけあって、観光客も多いものの、アジア人にしてみればそれほど雰囲気を壊すものではありません。むしろテーマパークのような賑わい。おとぎ話にでてきそうなお菓子の屋台や、ピーターパンのような衣装をまとった人々は、町全体がショーのようです。ハンザ同盟に加盟して栄えていた頃のタリンが、いま目の前にありました。

「クリスマスソングだ」

 そこはラエコヤ広場とよばれる旧市街の中心地。そこにはかつて「母を訪ねて三千里」でみたようなマーケット広場がありました。屋台のような木製の小屋が無数に並び、中央には大きな三角の木、端にはイベント用のステージもあります。雲を突き刺すような教会の屋根。大きなフランクフルトが鉄板の上に並び、くるくると回転するバームクーヘンのようなお菓子を青い瞳をした子供たちが見つめています。

「まいったなぁ」

 こんなにもいい場所だとは。こんなにもピースフルだとは。僕は、普段は見向きもしないホットチョコレートを片手に、丘の上から赤い屋根の町を見下ろしていました。

「なんの入り口だろう」

 広場を囲うように聳え立つ大聖堂のような建物を人が出入りしています。石の壁のクリーム色と木製の扉のこげ茶色。それがなんなのかわからないまま中に入ると、たちまち異様な空気に包まれました。

「あったかい…」

 サウナとまではいかなくともとても温かい空気と甘いにおいに包まれました。まるで洞窟のなかに隠れているようです。完全に光を閉ざされた空間を灯すのはオレンジ色の蝋燭の火。人々の影が石の壁に揺れています。分厚い木製のテーブルの上には土器のような器。BGMもなく、みな静かにおしゃべりしながらなにか食べているようです。

「パイのお店?」

 大きな窯から、光り輝くものがでてきました。こんがり焼けた半月型の黄金のパイ。甘い匂いとあたたかさの正体はこれだったのでしょう。さっき大きなフランクフルトを食べたばかり。デザートにはちょうどいいかもしれません。

「ふたついけそう…」

 焼きたてのパイをかじる音。僕が選んだのはアップルパイで、土器のような器にスープがはいっているようですが、暗くてまったく見えません。それにしても焼きたてのアップルパイはまるで小さいころ食べていたかのような懐かしさ。あつあつの果肉の酸味と甘みがちょうどよく、サクサクのパイ生地がアイスクリームに対するウエハースのようにうまく絡みあって、いくつも食べられそうです。この雰囲気が後押ししているにしても、こんなにもパイをおいしいと思ったのははじめてかもしれません。

「日帰りにしなくてよかった…」

 一日あれば十分と書いてあるものの、狭い路地に入ればかわらしいお店やカフェが現れるので、歩きだしたらきりがありません。こんなにたのしく道に迷えるなんて。おもわずレンズを向けたくなる階段や坂道。起伏に富んだ幻想的な石の町を灰色のブーツが歩き回りました。

「ノックアウトだ」

 寄り道気分で訪ねた中世の町にすっかり魅了された男を、ショーウィンドウの向こうからマトリョーシカが見ていました。





2012年01月29日 00:14

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