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2012年01月22日

第472回「パイとタルトとマトリョーシカ」

第二話 長い夜を抜けて

 透き通る青空。燦々と輝く太陽。多くの人とカモメたちで賑わうマーケット広場。かわいらしい女の子が販売するカラフルなアイスクリーム屋さん。5年前の夏のヘルシンキの色はいまは見当たりません。周りにあるのは、街灯が照らす薄暗い街。水っぽい雪がぽたぽたと溜まっていく石畳。同じ街とは思えません。あの頃の色を思い浮かべながら僕はバスの車窓を眺めていました。

「もう無理!」

 ホテルで温められていた手が悲鳴をあげています。スーツケースを引く、剥き出しになった手の甲につぎつぎと雪がとけてゆく。昨日とは格段に違う寒さは早朝だからでしょうか。手袋をしないと痛くてちぎれそうです。そんなことも知らずに近いから大丈夫だろう、昨日も平気だったしと、油断していた男は慌てて手袋に救援を頼みました。みぞれ状の道がブーツの色を変えてゆく午前7時。ヘルシンキ中央駅15Aのバスは、車内に数人ほどをのせてゆっくりと動き出しました。水色のリュックにぶらさがるアイスランドのキーホルダーたちが揺れています。大根おろしに覆われた街を抜け、20分ほどでバスは港らしき場所に到着しました。ここから8時発のフェリーに乗ります。

「これ?」

 目を開けていられなくなるほどの吹雪が迎えてくれた船着き場には、さらに視界を奪うように大きな建造物が立ちはだかっていました。それはフェリーというよりも豪華客船。豪華客船というよりタイタニック、というより巨大なジャスコ。まさしくイオングループのような建物が立ちはだかっています。まさかこれに乗るのでしょうか。

「片道1枚」

 25ユーロ。だいたい2500円くらい。切符を手にしてゲートをくぐるとやはりショッピングモールに吸い込まれていきました。カフェテリア、レストラン、バー、宿泊施設、売店、エレベーター、まるでいまから世界一周でもしそうなほど充実した設備に海の上であることを忘れてしまいそうです。奥にあるバーラウンジは比較的空いていて、ヴェルヴェットのイスの上に水色のリュックが置かれました。バーカウンターから運んできた白いカップのコーヒーがかたかたと演奏しはじめると、ジャスコはゆっくりとヘルシンキを離れていきました。

「なにもしない旅」

 それが今回の目的。新年をなにもしないでのんびり過ごす。なにもしないことをする旅。その場所として選ばれたのがフィンランドでした。「なにもしない」を求めて北欧へ。なにもしない、じっとしているわけではなくて、観光客の動きではあく、フィンランドで暮らしている人のように過ごす。これほど贅沢なものはありません。なにもしないなら日本でいいじゃないか、そう思う人はきっとここにはいないと思うので説明は割愛しましょう。しかし、「なにもしない」を実行するのも容易なことではありません。誘惑はたくさんあります。それにいまこうして海の上にいます。なにもしないはずなのに、いったいどこに向かっているのでしょう。

 ジャスコがゆったりと波に揺られています。船酔いをするほうなのですが、船が大きいからかあまり揺れを感じません。暗くて景色が移動しないので動いているかわからないときもあります。馴染みのない陽気な音楽が朝とは思えない音量で流れています。

「挨拶かな?」

 スタッフらしき女性がマイクで話しはじめました。おそらくフィンランド語なのでまったく言葉を掴めませんが、挨拶にしては若干ながい気もします。話が終わると再び音楽が流れ始めました。

「そういうことなの?」

 それはさきほどの音とは異なるものでした。奥のカーテンが開くといつからスタンバイしていたのかバンドが現れ、ライブがはじまったのです。バンドといっても若者ではなく人生の波を乗り越えて来た熟年の人たち3人によるもの。それを知っていてか、さっきまでまばらだった客席がいつのまにか満席になろうとしています。船内はまだ夜を楽しんでいるようです。穏やかな時間こそ訪れないものの、闇雲に流れる音楽より、スタンダードナンバーを織り交ぜた熟年のハーモニーはやさしく、コーヒーにとてもよく合いました。

「映画のようだ」

 何組かの夫婦が踊っています。画面上では何度も見たことのある光景ですが、自然に発生するダンスシーンは、それが外国人であることが余計に映画のようで、夢を見ているような、不思議な光景でした。

「またなにかはじまる?」

 スタッフの前に列ができています。なにがはじまるかわからないまま並んだ男の手に一枚のカードが渡されました。

「ビンゴ?」

席に戻ろうとすると、女性の声がどうやら僕に向かって発せられているようです。

「あなた、言葉はわかる?」

「えっと、英語なら少し…」

 ビンゴなんて数字をマークするだけなのだからどうにかなると思いましたが、フィンランド語で25といわれてもわかりません。それにカードも日本のそれと違い、大きな四角が3つあるので、ルールも異なりそうです。

「よかったら私が教えてあげるわ」

 そして、黒板の前で勉強させられる態度の悪い生徒のように、番号を読み上げるおそらく年下であろう女性に面倒を見られながらカードにしるしをつけていました。参加者の目線が集まる場所からの景色も、夢を見ているようでした。

「もう少しかな…」

 フィンランドの国旗がバタバタと風にあおられています。窓の向こうでは熟年バンドの2ステージ目が行われていました。こんなにも長い夜はあったでしょうか。にぎやかな船内にくらべてデッキの上は静かではあるものの、帽子を奪っていきそうな冷たい風に、長時間は耐えられません。

「あれかな?」

 島影が見えてきました。長い夜が明けたばかりの青白い光景。ヘルシンキを出発して3時間半、僕はエストニアはタリンに到着しました。

「こっちのほうが寒い?」

 どんよりした灰色の雲とそれを突き刺すように伸びるこげ茶色の煙突。葉っぱのない真っ黒な木々。ターミナルから氷の膜が四方八方に広がるように、凍った道がのびています。これが本当に滑りやすく、油断したら転倒してしまいそうで、思うように歩けません。どうにか人の流れについて歩いていくと、ほかとは異質な建物が見えてきました。

「あそこだ…」

 ベージュの石造りの壁にオレンジ色の屋根。パウダーをかけたように雪がほどよく残っています。独特の色合い。焦る気持ちを抑え、足元に気を遣いながら石のアーチをくぐると、そこにはタイムマシンでやってきたかのような世界が広がっていました。

2012年01月22日 11:18

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