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2011年12月04日

第469回「だから僕は走りたくなったんだ〜アイスランド一人旅2011〜」

最終話 この地球のどこかで 

「あぁ、生き返った」

 マラソンの疲れがすぅーっと抜けていくようでした。固まった体が温かいお湯でほぐされていきます。フーサヴィークでお腹を満たした旅人は、北東部への未練もなくミーヴァトンへと向かいました。これまで何回浸かったことでしょう。もしかすると日本のどの温泉よりも足を運んでいるかもしれません。まだ太陽は高い位置にいます。クリームソーダ色の水面に反射する光はまるで温泉に浸かっているよう。空と、水の揺れる音に囲まれた水色だけの世界。頭のなかでピラーが羊たちを追いかけています。あのほんの数時間の出来事はきっと一生輝いているのでしょう。明日は出発の前日、レイキャヴィクに戻らなければなりません。今日のこと、この数日間の出来事が勝手に蘇ってきます。

 人と人との関わり合いに心が満たされるのはきっと旅の途中だからではありません。人は人に接することで幸福を感じられるはず。こんな簡単なことなのに、どうしてうまくいかないのでしょう。幸福を邪魔するものはいったいなんなのでしょう。見栄や虚栄、地位や名誉、権力、思想、言葉、いったいなにが僕たちを幸せから遠ざけるのでしょうか。

 時間をかけて構築した社会。多数決によって出来上がった世界。得たものもあれば、失ったものもあります。人が人を好きになること。生きていることに感謝すること。本当の自分に出会えること。どんなに社会が発展しても、これらが満たされていなかったらそれはあるべきカタチではありません。どんなに富を得ても、生きていることや人との関わりに感謝できなければ、それは真の豊かさとは異なるもの。生の実感。本当の自分。これからはそういった価値観がより必要とされるはずなのに、文明はますます人間同士の関わりや心の栄養を奪っていきます。コミュニケーションは画面上で行われ、現実世界で人は、人と関わらなくても生活できると錯覚する。偏った幸福の尺度。これまでの、そして現在の社会のあり方が間違っているのではなく、あくまで通過点。社会は常に問題を抱え、世界はいつも未完成。あるべき姿を模索して進んでいくのです。これまでの人類はいわば、自然という親への長い長い反抗期。だから今後は、親孝行しなければなりません。親には到底かなわないということ、自然のなかに存在する生き物であること。人間のあるべき姿。自分の自然な姿。そこから社会を構築していくべきなのです。

「来年もまた、来るのかな」

 今度は自転車で周るのもいいかもしれません。車で移動していたらまた走りたくなることでしょう。痛みを感じたくなるのでしょう。今度はどこでマラソン大会が開かれるのか。そしていつか、この島を自分の足で一周するのかもしれません。また訪れたとき、ピラーは覚えているだろうか。幸せはピラーの尻尾。幸せは、海の青さであり、空の青さであり、マシュマロの白さ。地球のどこかでこの色たちが存在していること。それがなにより僕を勇気づけてくれます。この島に出会っていなかったら、僕はまだ、本当の自分にも出会っていなかったかもしれません。僕にとってそれがたまたまアイスランドだったわけで、そういった場所は誰にでもあって、いま存在しなくてもやがて見つかることで。

「また来るね」

 最終日の前日。今日はアークレイリからレイキャヴィクに戻り、いつも泊まっている宿に向かう日です。夜が明けたばかりの牧草地帯。かじかんだ手をあたためながら、朝食をとる羊たちを眺めています。ここはもう、遠い国ではありません。この島は僕のからだの中にはいっています。というより、僕のからだはもはや島の一部分になのでしょう。

「車で帰ろう」

 太陽は今日も世界を照らしています。飛行機を使えば50分ほどのところを車で5時間かけて帰るのは、まだまだマシュマロたちを眺めていたいから。虹にも遭遇するかもしれません。燃料をたっぷり入れた車は、朝もやに包まれるアークレイリの街を抜けていきました。

2011年12月04日 11:22

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