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2011年11月13日
第466回「だから僕は走りたくなったんだ〜アイスランド一人旅2011〜」
第八話 だから僕は走りたくなったんだ
まるで海の上を走っているような感覚。海の青と空の青。海のそれが濃くて、空のそれは透き通るような水色。そして太陽が手の届きそうなところで浮かんでいます。岸壁の上に伸びる海沿いの道は、カーブのたびに青の世界へ飛び出しそうで、空を飛んでいるような気分にもなります。昨年とはまるで別世界。これ以上の気持ちよさはあるのでしょうか。窓を開けると流れ込んでくる風。いつものように、いま感じていることすべてが、音に刷り込まれていきます。しかし、いつもと違うことが起こりました。
「これでいいのだろうか…」
いまだかつてあったでしょうか。5回目にして初めての感覚。こんなにも快適なドライブに、少し違和感を覚え始めました。
「これじゃない…」
体がむず痒くなってきました。なんだか熱くなってきました。それは日差しによるものでも、疲れによるものでもありません。妙に心が疼いて、いてもたってもいられなくなってきました。
「だめだ!やっぱりこれじゃだめだ!」
そして僕は、アクセルの隣にあるペダルを思い切り踏み込みました。
海に飛び出すように突き出た場所に、一台の車が停まっています。時折、風が弄ぶように車体を揺らします。
「あれ?どしたの?」
「ちょっと走ってくる」
「走ってくるってどこに?」
「さっきの場所」
「さっきの?」
車から降りて話しかけていたマシュマロ地帯がありました。
「落としもの?」
なにも落としていません。
「なにかあったの?」
なにもありません。
「じゃぁどうして」
すぐに言葉に変換できません。
「あんなところ車ではすぐだけど」
距離は結構あることもわかっています。でもこの海辺の道を見ていたら、自分の足で進みたくなったのです。ただアクセルを踏んで通過していくことが嫌だったのです。幸いというべきか、昨日からずっとスウェットで靴はスニーカー、まさにジョギングにはちょうどいい恰好をしています。
「なんでまた急に」
「急だといけない?」
「だって、今日は行くところがあるんじゃ?」
たしかにそうです。まだ北東部の入り口。ここからぐるっと一周するのだから、道草くっている場合ではありません。
「いま感じているものを…忘れたくないんだよ…」
その時ばかりは波も風も雲も、一瞬とまったようでした。ドアをロックすると、男は軽く膝の屈伸などをして、なにかに動かされるように走り出しました。
「ちょっと!!」
呼び止める声が風に消えていきます。考えて躊躇するくらいなら、何も考えず走ってしまおう。後悔するならやって後悔。人生、どうにかなる。
「心が走りたいと言っているんだ」
青空と太陽と海と風、この色を、この空気を、この世界をもっと記憶したい。どんなことが起きようとも忘れてしまわないために。どんなに上書きされても消えてしまわないように。いま感じているものを体に刻み付けるように僕は、走りだしました。
自分の呼吸の音が聞こえています。頭にタオルを巻き、スウェットパンツにTシャツ、その上にジャンパーのようなものを羽織っています。もちろん、イヤホンはしていません。衝動的ではありましたが、こんなにも贅沢なジョギングコースはないでしょう。しかもひとり占めしています。そうして幕を開けたアイスランドマラソン2011。開始早々、トップランナーは上着を着ていることを後悔しはじめます。気候は涼しいものの、あっという間に体が熱くなり、汗が噴き出てきました。置きに戻るのも面倒なので、ジャンパー片手にカシャカシャ音をたてながらのジョギング。しかし、自分の足で進むと、いつもは聞こえないものも聞こえてきます。水の音や草の音。車では感じることのできない存在。なにか語りかけているのでしょうか。普段は通り過ぎてしまう小さな現象に意識を奪われます。ダイナミックな自然を構成しているひとつひとつはきっと、どれもかわいらしい存在なのでしょう。
「いつか…」
この島を自分の足で旅してみたくなりました。アイスランドをジョギングで。どれくらいの日数がかかるかわかりませんが、リングロードだったら不可能ではないはず。これまでとは全然違う世界が見えてくるはずだし、一生忘れないものになるでしょう。痛みを感じながら刻みつける。痛みながら記憶する。それは記憶をより強固にするもの。大好きだからこそ痛みを感じたい。人はこうやって死ぬ場所を選ぶのでしょうか。
「結構あるな」
しかし、痛みは想像以上のものでした。思っていた以上の距離。何度カーブに期待し、何度裏切られたことでしょう。なかなか、さっきの場所が現れてくれません。車でうずうずしている時間は体感的にほんの一瞬だったものの、実際には結構あったのでしょうか。すっかりTシャツも濡れてきました。
「文明とはこういうことか」
上空に飛行機雲がかかっています。自分の力では大変なことを、いとも簡単にこなしてしまう。文明とは、良くも悪くも、こういうことなのでしょう。通り過ぎる車の運転手もやはり気にしています。自転車で移動している人はいても、さすがにジョギングで旅している人は見かけません。ましてやここはリングロードでもありません。そして何度も歩きそうになるのをこらえながら、どれくらい経ったでしょうか。ようやく遠くに牧草地帯が見えてきました。
2011年11月13日 00:17