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2011年05月15日
第446回「便利と不便の相関関係」
これまで再三に渡って言及してきましたが、その度に実態を掴めそうで掴めない、ドジョウのようにするっと抜けていく感覚がありました。ひとくちに「便利」といっても、いろんな「便利」があるわけで、そのすべてにおいて当てはまるように定義をするのは困難かもしれませんが、頭の中を整理するためにも、あらためてこの「便利」というものの実態に迫ってみたいと思います。
人は「便利」という言葉に魅了され、それがまるで素晴らしい絶対的な価値観であるかのように信じてきました。なぜだかそこには「豊かさ」という言葉もセットでついてきて、あたかも「便利さ」がないと「豊かさ」に繋がらないかのようなイメージがありました。「便利さ」という定規で社会が築かれる。しかしいま、その物差しで作られた社会が揺らいでいます。価値観が大きく変わり、当たり前であったことが当たり前ではなくなる。世の中、便利なだけではだめであること、豊かさとそれは必ずしもセットではないことを、人はおぼろげながら感じはじめたのです。
ヘリコプターで連れて行ってもらって眺める山頂からの景色と、自分の足で登ったときのそれとでは、同じ景色でも全く異なるでしょう。どちらも素晴らしい景色であっても、自らの足で時間をかけてたどり着いた世界のほうが美しく感じる。深く心に刻まれる。便利とはつまりこういうことで、楽をして目的を達成することなのです。
山頂からの眺めに限ったことではありません。普段の生活は、ある意味登山そのもの。道が平坦であろうと、スーツを着ていようと、目的地に向かうという意味ではどれも同じなのです。では、日常生活における登山のなかで、人はどれだけ楽をするのでしょうか。電車に乗ること、ケータイで話すこと。これら日常生活の「便利」も「楽をすること」のひとつですが、通勤の際に「電車って便利だなぁ」と噛み締めながらつり革を握っている人はいません。「携帯できるなんてすごいなぁ」とカバンに入れる人もいません。電車は時間通りに来て当たり前。ケータイやパソコンがあって当たり前。たくさんの当たり前に溺れて、それが便利であることさえ気付かず、結果、日常生活のどの瞬間を切り取っても、素晴らしい景色に出会うことができなくなってしまいました。
「便利」とは、楽をすること。楽をしたらその分、感動や実感は半減してしまう。この「便利さ」と「生きる実感」の反比例の関係性に人は気付かないといけません。また、「便利さ」は社会から人との関わりあいを奪っていきます。人が人を助けあうこと、こんな当たり前のことも当たり前でなくなってしまったのです。なのに世界は便利に染まっていく。それでは、生の実感にはつながらず、いつまでたっても充足感が得られないのです。ましてや人間は一度慣れてしまうとそれが「便利」だとも思わなくなり、空虚感だけが残ります。こうした「実感の欠如」や、「人との関わりの欠落」、空虚感が、自殺大国である要因のひとつとなっているのではないでしょうか。
もちろん、山の麓まで電車や車でいくことは、便利の恩恵を受けています。家から山の麓までも自分の足で行ったらまた違った感動が待っているでしょうが、その調子でいたら時間がいくらあっても足りません。なので、必ずしも「便利」や「楽をすること」が悪いわけではなく重要なのはバランス。「便利さ」と「不便さ」がほどよく共存している生活が望ましく、便利さに溺れた生活は、甘いものに溺れた病気と同じなのです。
バランスを保つためには、個人が節度を持つことも必要でしょう。昨今の「節電」という流れも一種の「不便」。「なんでもある」世界よりも「なにかが足りない」世界のほうが、きっと生きる実感は強いのです。すべてが足りてしまうと人に頼らなくなってしまう。頼っているのだけど、頼っていないかのような錯覚に陥ってしまう。だから、「なにかが足りない」ということが、社会にとって必要な要素なのです。しかし、意図的に「足りない社会」を構築するのは容易ではありません。モノが「ありすぎる社会」から「いつもあるとは限らない社会」へ。電力エネルギーの不足こそ、社会に「豊かさ」や「充足感」をもたらしてくれるのかもしれません。
そしてもうひとつ大事なのは、ビジョンを持つこと。いったいどんな社会を目指すのか。どういった社会を思い描くのか。そんなビジョンもないまま、効率の良さや利便性ばかりを追い求めるから、誤まった価値観が植えつけられ、社会に閉塞感が生まれていたのです。いったいどこに山頂があるかもわからず、ただヘリコプターに揺られている。素晴らしい景色を見出せないまま、責任とか権利とか、窮屈な言葉の重圧に自由を奪われ、社会の居心地が悪くなってしまう。そうならないためにも、未来を描くことも重要でしょう。
戦後間もない頃、町を走るバスは木炭を燃料にしていたため、ガス欠が頻繁に起こり、その度に乗客たちが降りてバスを皆で押したそうです。いまでは考えられないでしょう。運営の責任はどうだとか、補償はどうしてくれるんだとか、目くじらを立てる人が目立ちそうです。便利さに甘えている人。しかし、当時はそれが当たり前だったから、そこで文句を言う者はいなかった。故障することが当たり前だったから、ちょっとやそっとのことで人は動じなかったのです。
いったいなにが大切なのでしょう。会社に時間どおりに着くことも大切、動かなくなったバスを皆で助けあって押すことも大切。でも最近まで社会は、時間通りにいくために、人との関わりあいを減らし、効率の良さばかりが重んじられてきました。人間らしい部分は「駄目な部分」として切り捨てられ、機械のような正確さが求められるようになりました。世の中はこうやって窮屈になっていったのです。人間はいつのまにか、完璧さが求められ、同時に求めるようになる。時間通り、失敗をしない。でも、大切なのは、時間通りに動くことよりも、時間通りに動かなかったときに冷静に対処すること。失敗に対してどう動くか。失敗のない社会なんて人間の社会ではない。便利さに溺れて、人間の本質、人間らしさを見失ってしまったのです。
もちろん便利さも大切です。しかし、社会がすべてそれに染まってしまったら、人は人であることを忘れ、すべてうまくいかないと腹を立てる器の小さな人間になってしまいます。便利さを追及した結果、家族で過ごす時間が減ったり、日常の笑顔が減ったら、社会として本末転倒なのです。人が人らしくいられる社会。テレビを見てではなく、自然に笑顔になれる社会。これが一番優先されるべきこと。「人間主義」の時代。社会主義、資本主義。それらは決して駄目だったわけではありません。あくまで通過点。人間が人間らしくあること、このものさしで社会を構築していかないといけないのです。そのために一度「便利」というものを見直して、過剰なもの、「人間らしさを奪う便利さ」を積極的に減らしていかないといけないのです。そういう意味では多少の不便、不都合さはむしろ歓迎すべきものなのかもしれません。
人間らしさ、本当の豊かさ、これらも曖昧なもので、人によってイメージするものは異なるかもしれません。しかし、ここへきて、便利さがもはやそれほど重大でない段階に来ていることに気付いたはずです。便利さのおかげで得たもの、便利さのかげで失ったもの。でも失ったものこそ、人間らしさだったり、これからの社会に必要なもの。便利さよりも大切な価値観、「人間らしさ」がこれからの社会を構築するための、一番大切な尺度になるのでしょう。
2011年05月15日 00:16
コメント
便利さ故に我がままになっている部分は感じます。便利を支えている人達への思いやりなどを持っているべきでしょうね!そう考えるとロケショーのロケ兄やスタッフのみなさんのようにフニオチBBQなどを企画・開催してくれる御苦労には感謝しています。僕なんかはほんとに1品持ってひょこっと現われればいいだけですから、便利さに甘えているなと思います。
投稿者: 下町の根強いふかわファン | 2011年05月15日 09:06
「便利」イコール「虚構」。 近代化という化粧が剥がれてしまった今、見えてくるものが ありますね。プラスには いつもマイナスがつきもの。その落とし穴に やがて気付くのですね。ツケは必ずまわってくると思ったほうが、いいですよね。
「便利」を謳った情報が多すぎ、処理しきれずに、生活を忙しくさせているのも現実です。「人間主義」は素敵ですね。個人の価値観を 高めていく方向に世の中が変われば、いいと思います。「便利」を捨て、引き算して暮らしたほうが こころも潤います。自律神経を 病んだりしないと思います。
必要な情報は、絞り込む。多くを望まない。人と比較しない・・・。個人の価値観を、なにより大切にできたらと思います。みんなが持たない選択に、向かっていければ・・・。
「ロケショー」、お疲れさまでした。昨年、きゅりあんの壇上で見た、キュートでかわいいミユさんが、目にやきついていたのでとても悲しかったです。 ぼんやりとした不安が そちらへ向かわせるらしいので、正直私も プラス思考第一に、ワクワクすることを日々発見していきたいと思っています。
フィットネスクラブで 水泳。いいですね!ジム通いも 続くと、ON,OFFの切り替えがうまくできて、やめられなくなりますよ!
アビーロードを、さらにカッコよく、闊歩したりして? 今でも もちろん充分カッコいいのですが・・・!
投稿者: アトリエのピンクッション | 2011年05月15日 15:23
同感です。
私も、便利さを求めたがゆえの結果が今回の人災だったのだと思います。
戦後のような貧しさが本来の日本の姿。
それなのに、資源大国と肩を並べようとするからひずみが生じるんだと思います。
貧乏でも、心の豊かな・・・ブータンのような国を目指せばいいじゃないですか♪と私は思うのです。
投稿者: 世の中 | 2011年05月18日 12:27
こんにちは。
便利と不便。わたしは以前ならお家ではパソコンを必要最低限くらいしか使っていませんでした。3月に自分専用のを手に入れた時も「そんなに使わない」と思っていたのに、お買い物をしたり、調べものをしたり「やっぱり一人一台あると本当に便利だ!」と心が変わっていました。そしていまでは「便利だな」とも思わなくなっている自分がいます。まさに溺れています。
こうしてコメントを書くのも、パソコンがあるからなのに。
けど、反対にこういうもののお陰で、会えない人の様子を知ることができたり、笑顔になれたり、自分の意見を発することが出来たり...プラス面もたくさんありますよね。
忙しかったりして自分に余裕がないと便利なほうに流れてしまいますが、そういう時はそれでいいと思うし、ちょっと立ち止まれる時間があるときは、自分の目に映っているものは当たり前のものではないんだと少しでも思えるようになれたらいいなと思います。
投稿者: フィンランドの雨 | 2011年05月19日 11:23
便利さももちろん大切だけど、人間らしさの方が大切ですよね!
作る人も善かれと思って便利な物があふれ、その人達も悪気はなかっただろうけど、人間らしさが乏しい世の中になってしまったのでしょうか…?
投稿者: クローバー | 2011年05月20日 08:49
ここでも長い時間かけて、「便利」に対するしわ寄せが露呈してきたようなことなのかなと感じます。
考え方として、「誰かのため」ということがひとつの尺度になれば分かりやすいのかな、と思います。
ここでの誰かとは、例えば社会的立場上、弱者となるような方々に対して。
特に今の世の中では、いろんな方面でそういった純粋な部分を考えていけたらいいのに・・・と思います。
そのために、便利ではない、不便を不便とさえ気づかないくらいの気持ちで向き合えるような、体力をつけなおしていきたい、と思いました。
便利さに埋もれる前の。
投稿者: ひょう | 2011年05月21日 07:10