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2011年02月20日
第438回「絶滅危惧種カタログ〜僕はキミを忘れない〜危惧番号③公衆電話<後編>」
だからといって、ケータイが悪いわけではありません。ポケベルを手放したのはあくまで僕たちですから。それにポケベルを絶滅させた原因はポケベルが普及したことによる意識の変化であって、ポケベル自身が絶滅に追いやったともいえます。流行ほど恐ろしいものはない、ということでしょうか。ただ、ひとつ断っておきたいのは、僕たちだってまさかこんな風になるとは思わなかったこと。こんなに振り回されるなんて、誰も予想していなかったのです。
「それなに?P?使いやすい?」
「これFだけど、結構いいよ」
まるで別れたかつての恋人のことなど見向きもしない女性のように、もうポケベルのことなど振り返ることもなく、新しく手に入れた恋人にすっかり心を奪われていました。僕がはじめて手にしたのはおそらく21歳のときで、たしかシルバーのP203。まだ画面も小さく、白黒で、文字しか表示されません。当初は通話料金も異様に高く、長電話なんてもってのほか。メール機能もありましたが字数が限られていて絵文字どころの話しではありません。いまからすればとても未熟で、頑張れば自分でも作れるのではと思ってしまうほどシンプルなこの携帯電話を、あの頃はだれもが欲しがったのです。
ただ、それがぽっと出の新人かといえばそうではなく、それなりに下積み時代はありました。まだ一般に普及する前の携帯電話はやたら大きくて、まるで軍隊のように肩で背負いながら通話していました。昔のテレビドラマなどでも、牛乳パックのように異様に大きなそれを見かけたものです。当時は携帯電話というよりも移動電話、車に搭載する電話などもその類でしたが、かつては車に電話がついていただけで興奮したのです。それが時を経て、ビジネスマンの間で普及するとともに小型軽量化が進められ、片手で操作できるサイズにまで縮小されて、僕らの手に渡ってきたのです。
ただ当時はまだビジネスツールとしての名残があり、ポケベルのように腰につけている人もいれば、ホルダーでぶら下げたり、デザイン性も追及されていません。そういえばアンテナもあって、「伸ばさないと体に悪影響だ」なんていう噂も流れました。電波の入り具合もいまほど良好ではなく、すぐに声が途切れ、聞き取りにくいことや行き違いで異様にストレスを感じました。それでも僕たちは携帯電話を手放そうとはしません。もう戻ることができなかったのです。こうしてポケベルを世の中から追放した携帯電話は、僕たちを公衆電話からも遠ざけていったのです。
「メール機能が新しくなりました!」
「着信音が3和音になりました!」
「カラーになりました!」
いまでは当たり前のようなことも、当時はテレビCMで華々しく伝えられたのです。たしかその頃は090のほかに、030、010と、最初の3桁で加入時期や加入者の増加を実感したものです。学生たちの間でピッチと呼ばれて親しまれたPHSは050だったでしょうか。バカボンのキャラクターを用いたアステルのCMも懐かしいです。また090のあと、最初は7桁だったのが途中で8桁に変わったこともその爆発力を示していたでしょう。それからというもの、日を追うごとに新機能が搭載され、折りたためるようになったり、デザイン性も高くなり、あれよあれよというまに携帯電話は、日常生活に欠かせないものになりました。「携帯」という言葉はもはや「携帯電話」のもの。その後も「携帯」はいろんな機能を吸収し続け、文字通り、たくさんの機能を「携帯」する道具、「ケータイ」として現代社会の文明の象徴になったのです。原始人が火を用いたのならば、現代人は「ケータイ」を使用していたと、歴史の教科書に載るのでしょう。もはや電話はメインではなく、数あるうちの一機能。もしかするとこれが電話から始まったものだと知らない子供もいるかもしれません。いずれにしても僕たちは、夢の道具を手に入れたのです。
しかし、一見この便利でなんでもできる夢の道具は、必ずしも人にやさしいものではありませんでした。タバコが肺に害を与えるものなら、ケータイは心に害を与えかねないものでした。常につながっていないと不安になる。つながりを感じられる反面、つながっていないことも感じてしまう。それでいて、常につながっていることに窮屈さを感じてしまう。あのときはなくても大丈夫だったのに、いまではケータイのない生活が想像できない。もしかしたら「ケータイ」を携帯しているのではなく、携帯されているのは僕たちなのかもしれない、そんなことに気付いた頃にはもう手遅れで、「ケータイ」は人の体の一部分、もはやひとつの臓器になってしまいました。
便利さとはなんなのか、とても難しい命題ですが、便利さが人を苦しめるときがあります。便利さゆえに人を追い込んでしまう、果たしてこれを便利と呼んでいいのでしょうか。人の暮らしを豊かにすることが「便利」の目的だとしたら、人を苦しめる「便利」は本当の「便利」ではありません。
もしかしたら人類は、この小さな道具にたくさんの機能を詰め込むだけ詰め込んで、最終的に手ぶらがいちばんだと気付くのでしょう。それは、ケータイを人体に埋め込むという意味ではありません。道具は家に置いておくものだと気付く。便利さを追求した結果、手ぶらがいちばん便利であることに人は気付くのです。それがいつになるのかはわかりません。いまは、そのことに気付くために必要なプロセス。そして人々が手ぶらになったとき、公衆電話がふたたび現れるのかもしれません。
いまあたりまえに存在するケータイも、いろんな人たちの努力と時間の賜物であることは間違いありません。ただ、ケータイがいろんな機能を吸収している間に僕たちはいろんなものを手放してしまったことにも目を向けなければなりません。もちろんすべてを取り戻す必要もありませんが、心の病にかかる人たちのことを思えば、人や社会のあり方を見つめなおす必要はあるでしょう。つながりとはいったいなんなのか。
もう、公衆電話に女子高生たちが並ぶ姿は一生見られないでしょう。いまではお地蔵さんのように道端にひっそりと佇んでいます。あのとき10円玉を握り締めて駆け込んだ場所も、いまはありません。きっと誰かにとっての思い出の場所もそうでしょう。僕たちが新しく生まれるものに気をとられている間に、公衆電話は街から消えていったのです。このまますべてなくなってしまうのでしょうか。たとえ絶滅してしまったとしても、僕は忘れません。あのときの10円玉の匂いも下に落ちていく音も、好きな子に取り次いでもらえなかった夜も。スーパーマンが変身していたことを。紙コップに声が伝わってきたことを。あの頃があって今があることを、僕は、忘れない。
2011年02月20日 00:09
コメント
時代の先端を走っている気など毛頭ないですが、手ぶらがやっぱりいいです!携帯見ながら、あるいは打ちながら歩くなら、テンポよく歩くほうが体のためにも絶対にいいと思います。横断歩道もさっさか渡れば車の流れも良くなります。車好きなロケ兄ならわかりますよね?
投稿者: 下町の根強いふかわファン | 2011年02月20日 07:24
ぼんやり思い出しています。そういえばあの頃、「あれっ・・・?」というまもなく、次々と番号が出現しましたね。 呼び方も「携帯」から「ケータイ」へ。 その方が、おしゃれな気がして・・・。
便利さだけに依存してつながっていると、生きていることを急かされているようで、かえって不安です。 ケータイという道具に、人生を預けてはいけませんよね。
手ぶらになり、疲れた頭をクールダウンさせたい! つつましやかでも心は豊か。 そして、魂は売らないぐらいの意識を、いつも持ち合わせていたいですね。
世の中を読み取るメッセージ、いつもありがとうございます。 今日から完全に、ケータイを家において外出しますね〜♪。
投稿者: アトリエのピンクッション | 2011年02月20日 16:06
現代人は、電車の中、バスの中、歩きながら...いつでもどこでもケータイに目をやり、耳では音楽を聴いていますね。私は、電車でもバスでもボーっと外の景色を眺め妄想に耽っています(‘∀‘)♪
小中学生の頃、学校で毎日会うのに友達と手紙を交換したり、交換日記をしたり...携帯を持つようになる前は今よりのほほ〜んとしていました。
投稿者: ばんばん | 2011年02月21日 23:10
よくわかります!私もこれ以上の便利さの追求には反対派なんです。
いつも携帯の進化をはじめ、何やら便利そうなものが発売される度不満そうな顔をしてしまいます。
そんな私を見て、先日知人からこう言われました。
「君の言いたいこともよくわかる。でもどうだろう、現実君の考えは少数派であって、多くの人が喜んで携帯等の進化を受け入れている。
何故か。それは皆自分のことで精一杯だから。君だって世の中全体ではなく自分のことしか見ないようにしていたら進化していくものをおもしろがって手にしているかもしれない。
いや、機械音痴の君はやっぱり嫌うのかもしれないけれど。
皆そんなこと考える余裕なんてないんだよ。いくら君が嫌おうともまだまだ進化していくだろう。
新しいものが発売されると君はいつもその弊害にばかりに注目する。多くの人は利点ばかり見て喜ぶ。弊害は気づきにくい。
何事もバランス感覚が大切だよ。今度便利さに関して君と相反する人の意見を聞いてみなさい。」
「うんうん!なるほどー。」
と言った私が周りを見渡してみると、相反する意見を持って良そうな人…ほとんどだ!と思いました。
いつかきいてみます。
しかし、ふかわさんがこのようにブログで考えを述べて下さり、いつも自分の意見に自信がない私に最近少しだけ自信が湧いてきました。人と違う考えを持っていてもいいんだなと思えるようになりました。
ありがとうございます。
今後も応援しています。
お体に気をつけて頑張ってください。
投稿者: Sweet Fish | 2011年02月22日 06:03
ポケベル・PHS・ケータイの3つの怒涛の時代を駆け抜けてきた今回のお話は、なるほどね〜の連発でした。
わたしの中学高校時代に一気にケータイが普及し、恋愛とケータイメールは常にセットになっていました。25歳あたりが元祖ケータイ恋愛世代なのかもしれません。ケータイがないと恋愛できないくらいの勢いで、一番多感な時期を過ごしたので、やたらケータイメールに固執している自分を最近発見して(発見してというか、30代後半の方と話しているときに30代後半世代は恋愛においてケータイメールをそんなに重要視してないと言われ)、メールが来ないだのなんだので胃が痛くなっていた自分がばっかみたいだな!!と思ったら、フッと気が楽になっていたところです。
最近メッセージカードを渡した人に「わーこういうのもらうの5年ぶりくらいかもー!」とすごく喜んでもらえて、やっぱりデジタル表示の文字より、手書きのカードってうれしいのか〜と実感しました。だから雑貨屋さんでもメッセージカードのコーナーは常にあれだけのスペースをとっているのでしょうね。
便利なものは使うべきだと思いますが、本当に気持ちを伝えたいときは原始的な方法をとるほうが伝わるのかな〜なんて思ってまーす。
投稿者: チオリーヌ | 2011年02月22日 09:06
携帯するのか、されるのか
『…もしかしたら「ケータイ」を携帯しているのではなく、携帯されているのは僕たちなのかもしれない、…』という言葉は、まさしくその通りだと、むしろ人間はケータイに振り回されているのではないかとも思えてきます。
普段はこんな小さい機械に振り回されまいと家のどこかに放置できたりするのに、
恋をすると話は別で、毎時間ごとに携帯を開いてはメールセンター問い合わせなんかしてしまったりして、受信があればいいものの、一向に鳴る気配のない携帯はむしろ捨ててしまった方が楽になるんじゃないかと思いながらも、やっぱり気になって同じ事を毎時間繰り返してしまいます。
結局私はこの小さい機械に振り回されてしまうのです。
投稿者: lady beetle | 2011年02月22日 22:28
3和音、オルゴールみたいで美しかったですね。
レインボーに光るイルミネーションも、夢中で眺めていたのを思い出しました。
確かに、すべての物事は臨界点を超えた時、原点に戻る気がします。
さんざん追求したからこそ、その上に成り立つシンプルイズベスト。すごく納得します。
最近は外で携帯をさわる事は少なくなりました。
でもここを読み返しながら、空を眺めながら、コーヒーで一息つく時間は大切にしたいです。
スーパーマンが電話ボックスで変身していたことの記憶なんて、どれくらいぶりに意識しただろう・・・
ハッとしました。忘れちゃいけない、ですね。
投稿者: ひょう | 2011年02月25日 07:21