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2010年11月14日

第426回「虹と灰色のそら〜アイスランド一人旅2010〜」

第八話 羊たちに会いに
「きゃー!」
その日も302号室から悲鳴がきこえていました。
「また302ね、新人がくると必ずこうなのよね」
婦長の宮本が呆れ顔でナースステーションを飛び出します。
「フルカワさんだめでしょ、新人さんがびっくりしてるじゃない」
「大袈裟なんだよ、別に触って減るもんじゃないんだし」
「いいですか、ここはそういうお店じゃないんですよ。そういうことしたいなら元気になって退院してからにしてください」
「わしはもう充分元気だよ!」
そう言って、また看護師の腰に手を伸ばしました。
「きゃぁ!」
そんな302号室から悲鳴が聞こえなくなったのはそれから半年後のこと。
「あ、また食べ残してる。だめじゃないですか、しっかり栄養摂らないと」
「どうせ食べたって治らない」
妻に先立たれてからと言うもの、すっかり意気消沈してしまい、看護師の体に触れるどころかすっかり口数も減りました。
「元気ないですね、フルカワさん」
「あぁ見えて奥さんのことすごく愛していたのよね。でもちょうどいいんじゃない?元気よすぎたから」
「そうですね…」
新人の川上はフルカワの様子を気にしていました。
「そういえば最近よく写真見てますけど、あれってなんの写真ですか?」
「え、あなた知らないの?私なんかねぇ…」
宮本は、フルカワから度々写真の話を聞かされていました。
「アイスランド?」
「そう、若い頃、毎年旅していたんだって」
「アイスランドって、イギリスの上でしたっけ?」
「それはアイルランドじゃない?私もよくわからないけど、フルカワさんが行ったのはアイスのほう」
「何しに行くんですか、アイスランドに?」
「今度それきいてみなさい、たぶん1時間以上話こまれるから」
川上は気になってパソコンを開きました。
「地球の素顔?」
「そう、地球の素顔と静寂。あそこには都会にない本当の静寂がある。そしてな…」
嬉しそうに語るフルカワの話を川上は興味深げに聴いています。
「オーロラも?」
「そうだ、あれはすごかった。ただ、わしが行くのはオーロラがあるからでも巨大な滝があるからでもない」
「なんですか?」
「マシュマロだ」
「マシュマロ?」
「そうだ、緑の上にたくさんの羊たちがいてな、それがとても真ん丸でやわらかそうで、まるでマシュマロのように見える」
「そんなに羊いるんですか?」
「そりゃぁもうたくさんな。声を掛けたときに振り向くしぐさが愛おしくてな。あの頃は本当に羊飼いにでもなろうか迷ったほどだよ」
「またいけるといいですね、アイスランド」
フルカワの目の輝きに川上は少し安心しました。
「おじいちゃん!」
ある朝、孫の亮太を連れて娘の由美がやってきました。
「おぉ亮太か、来てくれたのか」
「これ、お見舞い」
そういって紙の袋を手渡すと、中から真っ白なぬいぐるみがでてきました。
「おじいちゃん羊好きでしょ」
「ありがとな、亮太は本当にやさしい子だな」
亮太の頭をしわしわの手が覆います。
「僕もいってみたいな、アイスランド」
「そうか?行って見たいか」
「うん、いつかおじいちゃんと一緒に行ってみたい!だから早く退院してよ!」
「亮太、おじいちゃん頑張って病気治してるんだからそう焦らせないの」
そう言って、由美は花瓶の水を取り替えに部屋を出て行きました。
「ちょっとどうしたんですか」
その夜、川上が見回りに来ると、フルカワが私服に着替え、カバンに荷物をつめていました。
「なにしてるんですか!」
「いつまでもこんなところにいたんじゃ人生棒にふるだけだ」
「そんな荷物持ってどこ行くんですか」
「どこだっていいだろ」
「そんな無茶したら体もっと悪くなりますよ」
川上は必死にフルカワの手をとめます。
「また会いにくるって約束したんだ」
「元気になったら行けるじゃないですか」
「元気になったらっていつまでたってもよくならない、なら悪くなってもいいから行かせてくれ」
もう一度あの場所を訪れたい、それがフルカワにとって人生最後の願いでした。
「そんなわがままいったら天国で奥さんに会えませんよ。きっと元気になりますから!」
しかし、容体は決して良くはなりませんでした。
「ねぇ、また呼んでない?」
「もう今日で5回目」
ナースステーションに男の声が響いています。
「おーい、おーい」
案の定、302からです。
「フルカワさん、用があるときはこのボタンでしょう。そんな大声だしたらみんな起きちゃうじゃないですか」
それでも彼は叫び続けます。
「おーい、おーい」
「フルカワさん!ここにいますよ!」
「おーい、おーい!」
まるで寝言のようにフルカワの口から発せられています。その度に川上はナースステーションから駆けつけていました。
「302号室、容体が急変しました!」
数日後のことです。食べ物を喉に詰まらせたフルカワの容体が悪化し、呼吸もままならなくなっています。担当医師が駆けつけた頃にはもう意識を失っているようでした。
「おじいちゃん!」
連絡を受けてやってきた由美と亮太の目には、チューブを鼻に通して動かなくなったフルカワの姿が映っています。
「え?ひとりで?」
「そうなんです、実は病院を抜け出しましてね」
レンタカーを借りたフルカワはあの頃のようにリングロードを走り抜けていました。
「おーい!元気だったかぁ?おーい!」
遠くまで散らばったマシュマロたちに声を掛けると一斉に車に目を向けます。
「久しぶりだな、元気だったか」
車から降りたフルカワは、羊たちの群れのなかにはいっていきました。
「どした?珍しく今日は逃げないんだな。ようやくわかってくれたのか」
まるで彼を受けいれたように、羊たちはそのまま草を食べ続けます。そしてフルカワは、羊たちと同じように緑の上に寝そべりました。
「ねぇ、おじいちゃん、笑ってる」
フルカワが微笑んでいるように見えます。
「もしかしたらいまごろアイスランドを旅しているのかもしれないわね」
 その夜、彼は息を引き取りました。苦しむ様子はなく、穏やかな表情。由美は亮太の手をやさしく、強く、握り締めました。川上の頬を涙がつたっていきました。
 アイスランドの空を白い雲たちが静かに流れています。緑の上の羊たちが次々に草を食むのをやめ、顔を上げました。アイスランド中のマシュマロが、まるで誰かの声に反応するように。やがて雲の間から太陽がゆっくり顔を出すと、すべてを包むように大きな虹が架かりました。羊たちの毛が風に揺れています。やわらかな雨が、陽光にきらめきながら、空から落ちてきました。

2010年11月14日 00:30

コメント

フルカワさん、大往生ですね。大好きなアイスランドのマシュマロさんに囲まれながらこの世とお別れできるなんて、きっと本望でしょうね。マシュマロさんたちには聞こえたのでしょうね。雲の隙間から「おーい」って呼んでるフルカワさんの声が。

フルカワさん、泉谷しげるさんみたいになっちゃうんですかね(笑)

でもフルカワさん、この世にアイスランドのマシュマロさんたちがいる限り、それを元気の素にして、長生きして欲しいですね。お風邪、お大事に!

投稿者: ラブ伊豆オール | 2010年11月14日 12:30

思わぬ展開を、一気に読みました! ずっと思っていたのですが、羊さんの目って、なんだか心を覗かれているようで、「キュン!」と素直になってしまいます。

最後のところ、自分がミニシアターに居るような感じがして感動しました〜。

歳をとったら、思い出の花束に囲まれていたいなぁ〜

風邪、治ってよかったですね!! 「自分に嘘はつくなよ〜」が、いつも心の支えに・・・。

投稿者: アトリエのピンクッション | 2010年11月14日 15:16

ちょっと切ないけど、フルカワさんはとても幸せな人ですね。
天国で羊飼いになれているといいなあ。

投稿者: チオリーヌ | 2010年11月14日 16:22

口角が上がります。

投稿者: サルキ | 2010年11月14日 21:49

切なくも美しい物語ですね。
大切なことを教えていただきました。

投稿者: ひざの痛み解消人 | 2010年11月15日 03:09

いつものブログも好きですが、今回のプチ小説のような内容の回も好きですヨ!フルカワおじいちゃんは人生の最期までアイスランドと羊たちを愛していたんですね。
次回も楽しみにしていますね。

投稿者: Sweet Fish | 2010年11月15日 19:03

「おーい、おーい」で、
レッドゾーンを超えた涙腺を抑えるために、読みながらモゾモゾ変な動きをしていました。。。

自分は最期に、ここまで焦がれることのできる何かを見つけられるんだろうか。

準備ができるのを待ってたら、いつまでたっても動けない、
を思い出しました。

また気づかせていただきました。
ありがとうございます。

投稿者: ひょう | 2010年11月18日 03:27

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