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2010年10月17日

第422回「虹と灰色のそら〜アイスランド一人旅2010〜」

第四話 それは決して特別なことではなく
 燦燦と輝く太陽、そして青空の下でキラキラしている海。僕を待っていたのはそんなさわやかな光景ではありません。分厚い雲に遮られ陽光を奪われた世界。波のない海は静かにただ群青色に染まっています。太陽がいないとこんなにも印象が変わるものなのでしょうか。
 砂浜はなく、すとんと切り落とされた絶壁。その向こう側で土筆のように伸びる奇岩。ジグザグな海岸線と茶色の山肌を分断するように道がうねりながら伸びています。夏にはこの絶壁にたくさんの海鳥たちが休んでいるらしく、パフィンの愛らしい姿も見られるのかもしれませんが、いまはなにもなく瞬発力のある風が通り抜けていくだけ。ただ、パフィンこそいないものの突然鳥たちが視界に飛び込んできては一列になったり輪になったり、泳ぐように空を飛び回ります。都会で見るそれと違うように感じるのはこの背景のせいでしょうか。建物がない分、いつまでも目で追いかけることができるのです。羊よりも野鳥を目にするこのエリアはもはや人間が踏み込んではいけないと感じるほど神聖な地域。どこか野鳥の世界に迷い込んでしまった気さえします。人間の言葉は通用せず、鳥たちの言葉が飛び交う島。人間よりも鳥たちの生活が重視される場所。車に並走する野鳥を見ると道を外れてついていきたくなる。そしたら彼らの群れにたどり着くことができるのでしょうか。これらも青空の下であれば清清しくも見えるのでしょうが、雲に覆われた灰色の世界はどこか神秘的で畏敬の念すら抱いてしまいます。「ヴァイキングの神が宿る場所」と古くから言い伝えられていることがわかる気がしました。
「あ…」
 鳥たちに目を奪われていると、フロントガラスに透明の液体がぽたっと落ちてきました。気のせいだろうか。ぶつかった衝撃で散らばった水滴はスピードに押されてガラスを這い上がっていきます。雫が広がっていくとまた別の場所にも水滴が落ち、同じように風に押されていきます。きっとすぐにやむだろう、なんせここはアイスランド、これまでだってほとんど晴れていたのだから。しかし、水滴はやむどころか大量の仲間を連れてやってきました。
「すぐにやむさ」
 ついにワイパーが動き始めました。雨はあっというまに視界を奪い、海も山も空も消え、見えるのは目の前に現れるアスファルトだけ。大粒の雨と真っ白な霧。ワイパーの休憩時間はなくなり、このまま異次元にでも連れて行かれそうです。
「すぐにやむさ…」
 視界を奪われたかと思えば突如もやの中から茶色の山肌が浮かび上がりこちらに迫ってきます。どこかで休んでいたのか鳥たちが一斉に羽ばたき音を立てて飛んでいく。雨が雨のように感じなくなる瞬間。天国とはこのようなことなのでしょうか。ようやく水滴が落ちてくる場所を潜り抜ければ目の前の異変に気付き始めました。
「もしかして…」
 それは虹でした。目の前にかかる大きな虹。最初は焦点があわずぼんやりだったのがその存在に気付くと一気にくっきりと浮かび上がってきました。アーチのようにしっかりと両足をつけて真正面に立っています。晴れてきたわけではありません。どこの光が反射しているのか、灰色の空に大きく描かれています。まるで、いつもここにあるかのように。いったいいつまでついてくるのでしょう。なかなか潜り抜けることはできません。虹はずっと空を彩っています。  
 それにしても、この虹を見ている人はいるのでしょうか。もしかしたら一人だけなのかもしれません。この虹はいま僕にしか見えていない、そんな感覚になれるのもアイスランドの素晴らしいところ。世界と自分が対峙する。でもきっとアイスランドが特別なのではありません。自然にあくまで自然、特別なものなんてないのです。そして虹は、ゆっくりと空にとけていきました。
「コーヒーひとつ」
 途中に点在する海辺の小さな町、といっても人口は数百人程度。こういった小さな町がときどき現れてはカフェに立ち寄って一息つきます。もちろんカフェといってもガソリンスタンドに併設されたちょっとしたラウンジ。ここに地元の人たちがやってきておしゃべりしている光景を眺めながら飲むコーヒーが気持ちを和ませてくれるのです。
町にはレストランもあります。でも、それっぽい看板を掲げていないし周囲の民家と変わらないので、よく見ないとわかりません。観光客ではなく地元の人たちが利用するレストランなのでしょう。旅人には、この違いがすごく重要で、観光客向けでなければないほど、心が惹きつけられるのです。
「やってないか…」
 夜には地元の人たちが集い暖かな光がこぼれているのでしょう。この扉の向こう側の世界を想像しながらも車は町をあとにしました。しばらくすると右手に氷河が見えてきます。スナイフェットルスヨークトル。この氷河を折り返し地点にして、針に糸を通すようにいくつかの小さな町を潜り抜けながら、車は半島の付け根の港町、スティッキスホウルムルに到着しました。ここはフェリーの発着点というのもあり比較的大きく、人口も二千人ほど。港にはシーフードレストランも多く見られますが、車は教会の前にいました。
 教会のある場所、それはアイスランドで印象に残る光景のひとつ。車に乗っていると緑の牧草地帯に赤い三角屋根をした木造のかわいらしい教会が遠くに見えます。でも、ここにあるのはそういった類のものではなく、どちらかというとレイキャヴィクのそれのようなタイプ。真っ白で流線型。海の上に突き出すようにそびえたつ教会は一瞬、風変わりな灯台のようにも見えます。押し返されるだろうと思って手をかけた扉はなんの抵抗もなく動き、おそるおそる足を踏み入れると真正面に見たことのない絵画が飾ってあります。しかし、あまりの静寂と神々しい空気にこれ以上なかに進むこともできず、旅人は木製の扉をゆっくり閉めました。
「さぁ、どこにいこう」
 半島をぐるっと一周したのでもうあとは自由。心にハンドルを委ねるだけ。なんとなく地図を眺めていると、どうしても気になる文字がありました。
「ブーザルダールル」
 呪文のようですが、これは町の名前。一昨年に訪れた場所です。でも観光名所とか、見ごたえのあるとかそういうことではありません。しいていえば空がキレイだったことくらい。あのとき見たブーザールダールルの空はずっと僕の心のなかから消えずにありました。
「また、ポテトでも食べよう」
 いい加減おなかも空いてきました。かつて見たあの光景に思いを寄せながら車を走らせていると背後からなにかがやってくる気がしました。
「やっときた…」
 あれだけ厚く遮っていた雲にようやく切れ間ができ、そこから澄んだ青色が顔をだしています。雲のもわもわした感じに対して凹凸のないガラスのような青空。やがてそこから太陽が顔を出すと目の前の世界に大量の光が注がれて一気に鮮やかになりました。それからというもの、その切れ間はどんどん広がって、あっという間に雲は羊の群れのようにちぎれていきました。
「これだからやめられないんだよ」
 牧草地帯は鮮やかな緑を取り戻し、落ちてきた雲はふわふわの羊たちになって草を食んでいます。山の上から、雲の影が大地をゆっくりと移動していくのが見えます。これもアイスランドの好きな光景のひとつ。羊たちに掛ける声が山を駆けおりていきます。そして車はブーザルダールルに到着しました。夏のような日差しがあの日と同じように照らしています。まるで、晴れた日曜日のように、町が輝いていました。

2010年10月17日 00:21

コメント

まるで童話の世界に入ったようです。虹がかかるまでの灰色の世界は、天国の領域だったかもしれません。そこにとけていく虹はそんな天国からのメッセージのように思えます。そしてブーザルダールル。本当に呪文のような響き。夏の日差しの輝きの行方は・・・?来週がたのしみです。
ふかわさんの「ポテトでも食べよう」がなんだかとってもクスッと、クスクスッときます。ポテトがお好きなんですね。 

投稿者: アキコ・ハミング | 2010年10月17日 08:52

一日に天候の移り変わりが頻繁にあるのも、アイスランドの特徴のひとつなのでしょうね。

私は晴れ渡った雲一つ無い海の景色も好きですが、キーンと張り詰めた冷たい空気のグレーな空の海も好きです。(暗い性格なのでしょうか?)

車を運転しながら空の変化を楽しめるなんて、まさにデフラグですよね。日常の煩わしい事から解放されて、ただ自然と一体となって心と身体をリラックスする。そんな時間は年に何度かはしたい、いや、しなければいけないですね。

ブーザルダルールではどんなハッピーな事があったのでしょうね。また次回まで楽しみが増えました!

投稿者: ラブ伊豆オール | 2010年10月17日 09:52

外国を旅していると、神の存在を強く感じることがありますよね。
神秘的な建物や風景だけでなく、暮らす人々の感覚からも強く感じます。

虹の描写が恋に落ちる瞬間みたいで、すっごくキレイ。来年には、虹がとろける大好きな街に出会えますように。

来週も楽しみにしてます。

PS.外国の教会ってすごくオープンなのに、なぜ日本の教会はちょっと閉ざされている感じなのでしょう。

投稿者: チオリーヌ | 2010年10月18日 00:38

なんだかとっても綺麗な文章ですね。可愛らしい挿絵のたくさん入った本を読んでいるようです。
アイスランドの雨と虹、見てみたいなぁ。
気持ちがとても疲れた時にじっくり読ませていただいたので、元気をもらいました。次回も楽しみにしていますね!

投稿者: Sweet Fish | 2010年10月21日 18:38

特別なことでなく、これがアイスランドの日常。

自分だったらそんなふうに気づかないだろうなと思いました。

すべてが悠然と、淡々と繰り広げられている自然の偉大さ。

おもしろいのが、世界地図で見たアイスランドの形がちょっと焦ってどこかに行こうとしているように見えて。なんだか可愛いです。

投稿者: ひょう | 2010年10月22日 07:01

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