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2010年07月11日

第411回「シリーズ人生に必要な力その40見抜く力」

 ほっかぶりに唐草模様の風呂敷。泥棒というとそんなイメージがありますが、それはマンガやドラマの世界だけで、実際にはそんなわかりやすい格好はしていないでしょう。まるで「僕は泥棒です」といわんばかりの服装。過去に存在していたかさえ疑わしいですが、いまの泥棒は普通にスーツを着て、周囲に気付かれないような格好で盗みをするはずです。だから周囲に馴染んでいても、どこか不審な点を見抜く必要があります。ただ、見抜くといっても、スーツの泥棒なんてまだまだかわいいもの。なぜなら、「盗んだ」という「悪」がわかりやすいから。この世に存在するのは、盗みや殺人のようなわかりやすいそれだけではありません。非常にわかりにくい悪。悪どころか、むしろ「善」に見えている悪。真の悪は、それを悪と呼ぶかどうかは個人の自由ですが、悪と気付かれないように、善のフリをして涼しい顔で存在しているのです。
 たとえば、「エコ」に関してもそう。一般的に「エコ」を推進することに疑問を抱く者はあまりいません。しかし、それに便乗してお金を儲けようとする人たちはいます。エコという時代の価値観を利用して、いや、時代の価値観を作り上げて、お金儲けをする。税率をあげるとかそんな輪郭のはっきりしたものではなく、大衆の気付かないようにお金が流れ込むシステム。自分たちが得するシステム。その技術に優れ、そこに命を懸けている。もちろんお金儲け自体を責めることはできないし、お金を得るだけなら別に構いません。お金がすべてではないのだから。でもそのシステムが、貧困に苦しむ人々をさらにどん底に突き落とし、多くの命を奪っている。たとえば、産業のための戦争。産業のためのエコ。それでも平気で正義の顔をしている。正義を掲げているものにこそ、その裏側に悪が潜んでいるもの。僕たちは、正義の仮面のその奥に潜む悪の眼差しを見抜かないといけないのです。
 悪を悪じゃないように見せること。悪が正義になるシステムを構築すること。正義か悪かは、人々の価値観で変わるので、悪が正義になるように人々の価値観をコントロールする。でも、人々はコントロールされているなんて気付かない。一度常識として認めてしまうと、誰もそのことを疑わなくなるのです。
 カルト教団の信者たちを見て僕たちは、中にいると気付かないんだ、と思ったりします。外側にいると気付くことも、中にいると気付けない。じゃぁ果たして、僕たちは確実に「外側」だといえるでしょうか。もしかしたら、「なにかの内側」にいるのではないでしょうか。宗教とかそんなわかりやすいものではなく、もっとわかりにくいカタチで、なにかの内側にいる可能性は充分ある、というか、残念ながら、そうなのです。僕たちはなにかの内側にいるのです。本当は外側があるのに、そこからの情報は遮断されているのです。
 もちろん、内側にいるからといって殺されたりするわけではありません。なにかが得をするシステムが組み込まれた世界で生きている。それを僕たちは常識という言葉で気付かないようになっている。でもこの世に常識なんてものはなく、あるのは、このシステムを維持するための規則だけ。僕たちはたまたまそういった「内側のルール」で生きているだけなのです。それは外側からしたら常識でもなんでもないのです。この壁は法の力では破壊できません。なぜなら法律はこの壁を守るためにできているから。この壁を壊せるのは唯一、大衆の力。僕たちが内側を自覚しない限り、この壁は崩壊しないのです。
 世の中の舵を握っているのは善でしょうか、悪でしょうか。きっと後者、善のフリをした悪が舵を握っているのです。99%の乗客が正しい船だと信じていても、気付いている人はいます。気付かないほうが幸福だと思う人や気付かないフリをしている人もいるでしょう。気付かなくてもなんの問題もなく生きていけます。しかし、この船を動かすには多大な犠牲を払っていること、この船を動かす燃料のために苦しんでいる人たちの存在に気付かないといけません。世界のどこかに「豊かさの犠牲」がある。そこから目を背けていることは、結局僕たちも「悪」に加担していることと同じなのです。
 本当の悪を見抜く力。この力があれば、巷にあふれる偽善に満ちた笑顔なんて簡単に見抜くことができます。善のフリをした悪。悪が善になっている世界。この歪んだ世界を矯正するためにはまず、内側の自覚が必要です。どのシステムが世界を動かすのか、システム対システムの争いはいつまで続くのでしょう。それは僕たち大衆の見抜く力にかかっているのです。

2010年07月11日 11:33

コメント

本日のお題は中々難しいですね〜。うーん…内なる悪…。私の中でいくつか思い浮かぶものがありますが…。(ここで書いたらちょっと問題になるかもしれませんので、事例は割愛します…)

私たち、大衆の力でその善を装っている悪に気が付いたとして、果たしてそれを打ち破る事ができるでしょうか。個人一人の力ではどうする事も出来ない気がします。影響力のある人間ならば(議員であったり有名人であったり有権者など)その人たちの言動によって大衆を動かす力となる気もしますが。でもそれも勇気が要りますよね。それをする事によって自分の立場が危うくなったり、下手をしたら危害を加えられる恐れもあるかもしれません。そんな気弱なことを言っていて、他人事みたいに思っている人間が多いから良くなるものも良くならないんだ!と言われればそうなのかもしれません。

ただ一つ言える事はいつでもその見えにくい悪を、事の本質を客観的に見極めて、絶対に加害者側の立場にはなるまいとする心構えだけは持っていたいと思います。

投稿者: ラブ伊豆オール | 2010年07月11日 15:13

今日はなかなか難しいテーマですね。

最近これが悪といえるのかは、わからないけど、ふかわさんは調味料に「みりん風調味料」というものを知っていますか?

これはみりんではなく、ただ化学調味料を混ぜ合わせてみりん風の味をだしているだけのものなんです。裏の表示を見る癖がついている人はすぐ気付くんですけど、完全にだまそうとしている感みえみえだなと。 でも安いからそっちを選ぶ人もとても多いと思います。特に普段料理をしない人や、若い人は本物をしらずにずっと「安い」ものを選び続けちゃうんじゃないかな―って。本物を一生懸命作ってる人に失礼だなーって思うんです。

お砂糖の三温糖(茶色いお砂糖で精製していない砂糖です。)も、パッケージに三温糖ってでっかく書いてるのに白砂糖にカラメルで色つけただけものもわんさかあります。

「安い」ものにひかれて、ほいほい買ってしまうよりも、ちゃんと本物を買うことで調味料業界のゆがみを矯正できるかも!なんて、テーマからずれてしまったような気がしますが私が今日このテーマをみてこう感じたのです。 では。

投稿者: チオリーヌ | 2010年07月11日 18:30

ロケショーの「フニオチ」が今日のテーマに絡むように感じます。真面目にやっている人より、ずる賢く上手くやっているが得をしていて、モラルを守ろうとする人は法律を守らない人のために苦しんだり、悩んだりとフニオチですね!ふかわさんは独身ですが、僕は自分の子供に「あの人なんで赤で信号渡るの?」といったような疑問をぶつけられました。僕は子供には「父さんはしないし、お前もあんな大人になるな、自分自身をしっかりもて」と言ってます。それでも親子ともども辛いシーンに出くわす事もあり、最近そんな時、ふかわさんの気持も和らげばいいのですが、ナルト疾風伝の暁(悪役なのですが)の飛段の言葉で「人の痛みの判らない奴には神の裁きがおりる」という言葉を親子で心の中で噛締めています。

投稿者: 下町の根強いふかわファン | 2010年07月12日 11:29

正直なところ、私は「内側の自覚」があまり備わっていなかったように思います。
昨日は選挙にも行ってきましたが、変な固定観念を捨てて、各政党の掲げる政策を自分なりに見抜いたつもりで「ここなら任せても大丈夫かな」という党を選んだつもりでしたが、それだって無意識のうちに常識に囚われている考えが働いているのかもしれないし。

ある程度人生経験を積んでからじゃないと見えてこないことが世の中あまりにもありすぎて、でもそれを知ったところで、心が折れたことに対するやりきれなさだったり、一人の無力さからくる諦めなどが原因で、なかなか勇気ある一歩が踏み出せなかったりします。
でも、そういうのって変えられるってことですよね。そうでなければ、法律なんて一生変わらないことになってしまうし。
一人の力が小さくても集まればひとつの成果を成し遂げられる、って事をもっと肯定的に受け止めた方がいいんなだなって目が覚めました。

「大衆の見抜く力にかかっているのです」
------この言葉がすごく重くのしかかってきました。
何でも「これで当たり前」と決め付けることが自分の考えや行動を、無意識のうちに制限してしまっているような気がするので、もっと考えながら生活していかないとなぁと思いました。

物を書く人とか表現者の中には、いろんなことに疑問を持つ人が多いなぁと常々感じていましたが、ロケ兄の今回のブログを読んで、その思いがまた強くなりました。
放っておくと私はフィーリング重視で生きてしまうので、こういったいろんな視野から見ること、特に習慣的に疑問を持つという事ができたら人として成長できるし、そうなりたいなと思いました。
でもフィーリング、こころで感じる部分ももちろん大事にしていきますよ〜♪

投稿者: 手まわしオルガン | 2010年07月12日 21:18

今の日本を思わせるようなとても深い内容ですね。思うところは沢山ありますが......一人でも多くの人がこのブログを読み、それぞれに感じ考え明日を向かえてほしいなぁと思いました。

投稿者: ずんずん | 2010年07月13日 21:17

考え始めたら自分では答えがみつけられず、最近では「難しい問題ねえ。」ということで落ち着かせています。
そして毎日の物事をスムーズに行う為に、考える事すら辞めてしまいそうになります。
解決してくれてそうな誰かの意見をただ聞いてわかったような気分になりたくて本を読んだりしています。

ブログを読んで、
思考を止めないようにしよう。
自分の感じることを少し信じよう。
と思いました。

ああ、これはちゃんと自分で考えれてるのでしょうか。。。

投稿者: なみへい | 2010年07月15日 01:10

 「常識」あるいは「内側のルール」にしたがって生きたほうが楽であり安全であるかぎりにおいては、(仮にその中に潜むおかしな点に気づいたとしても)それをわざわざ打破しようという方向には行きにくいと思います。というのは、以下の二つの理由があると思うからです。
 
 1.おかしな点がなかなか気づかれないような巧妙なシステムは、そのおかしな点を啓蒙し、そして最終的に破壊するのに膨大なエネルギーが必要となる。

 2.壊すだけ壊しておいて後のことは知らない、というのではあまりにも無責任であり…壊した後に件の問題点を払拭した新たなシステムを構築する必要があり、こちらにはより膨大なエネルギーを必要とする(←壊すことよりも創ることのほうが難しいと思うので)。
 ここで、「結局、完璧な『善』のみのシステムなど構築できるわけがないのだから、何らかのシステムを構築しようというのがそもそもの誤りなのでは?」という意見もあるでしょう。しかしながら、たくさんの人間が各々勝手に行動したのでは、それこそ「悪を善に上手くカムフラージュできる偽善者の天国」になってしまうでしょうから、(最初は良くても時代が変わっていくと共にだんだんと)欠陥が出てきてしまうシステム・枠組みであっても設けておく必要はあると考えます。
 

 以上の理由から、【自分はおかしいと思うけど、殆どの人がそうは思っていないみたいだし・・・それに、おかしな点を払拭した新たなシステムを責任を持って構築するだけの自信・エネルギーはないし・・・まあ、今のままでいいか】、というスタンスにどうしてもなりやすいのだと思います。

投稿者: 明けの明星 | 2010年07月15日 21:26

こんばんは☆

難しいお話ですね。
わたしも、みんな実は内側にいる説に賛成です。内側のルールは内側の人たちが作り上げたもので、外から見たら、常識も非常識も、正しいも間違いもないのだと思っています。だからと言って、ルール違反なことを何でもやっていいというわけではありませんけど。

世の中の常識(…というより、はじめはブームという感じでしょうか??)は、たしかに人々のコントロールから始まると思います。雑誌やテレビなどから発信されることが多いですね。

でも、そのようなブームを大きくしすぎているのも、実は大衆の力なのかなとも思います。大衆がエコを支持しすぎてしまうから、企業は無理矢理でもエコ製品を出さざるを得ない。企業価値を上げるために、本当は違うなと思っていても、後戻りできずに出さざるを得ないこともあるのではないかと思います。

間違いに気付いた誰かが、思い切ってみんなに発信してみることが、世の中を変えるきっかけになるかもしれませんね(^^)☆

投稿者: さくらパンダ | 2010年07月15日 23:32

 今回言わんとしている事に頷けます。
ただ、私としては「善」とか「悪」とか「正義」って言葉が取っつき難いというか、まだ使いたくない言葉。
ただそれは私がたぶん「気付かないフリをしている人」だから、曖昧にしておきいたいだけだからかも知れない。
 「善」「悪」の線引きを私はまだしたくないから。
「正義」は「善」の中にも「悪」の中にも存在していて、どっち側から見ているかに過ぎないと思うから。
だから線引きはせずに、両方の意味を知り両方に裏の意味もある事を認めた上でなら、自分がその時に良い方を選べば良いんだと思う。あれ?結局「見抜く力」っていう着地点は一緒かな?あれ?ちょっと違う?


「だって、人の為に善いと書いて、『偽善』」という作品を15〜6年前に描きました。
その作品から年月は相当経ったけれど、何が正解かは作者の私にはまだ判りません。
判っているのは、私は「ズルイ」って事。
ずるくない人で居たくても。

投稿者: LINA☆ | 2010年07月17日 01:57

ふかわさんには同感です。本当にあらゆう情報が錯綜し、更には所属する社会が余りに多様化してきてる中、ここでの「見抜く力」って意識していないと、失われてしまうんだなって感じます。様々な内側に居るんだから。例えば、今回の参議院の選挙で、色々な争点を逸らしている様に見えました。本来の政治の問題の本質は「未来」なのに、「現状維持」ばかりを追い求めてるような…。「見抜く力」をみんなが持って、現状に気づけば、いい方向に変わるのになって。あっ駄文になってごめんなさい

投稿者: うさみん | 2010年07月18日 23:38

高校生の自分としてはとても難しいですが、ぼんやりとは分かります。
こういうことは、人に言われたり、何かの本を読んだりしないと普段考えることがないので、ふかわさんのブログを見つけて読んでよかったです。
ふかわさんのことは、前ラジオを聞いて好きになりましたが、ブログがあったのは知りませんでした!「ごきげんよう」見て検索してみました。おもしろかったですよ〜♪

投稿者: amamo | 2010年07月23日 13:50

どうしてそんなことに気づけるのですか?
そんなの気づかない人がほとんどです。
私はよく人が気にしないような疑問がふつふつと湧いてきて憂鬱になることがあります。これは見抜く力といっていいかわかりませんが、周りが見えていないものを自分だけ見えてしまうと、孤独を感じてしまいます。
だけどこれを見て、少し安心しました。同じような視点をもっている方がたくさんいるんだと思って。

投稿者: あいぼぼ | 2010年07月23日 15:03

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