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2010年07月04日

第410回「シリーズ人生に必要な力その39ノラ猫力」

 だからといってホームレスのような生活とか非社会的な人間になることを勧めているのではありません。ちょっと最近、なんだかみんな、行儀良すぎるというか立派な人になろうとしすぎというか、もっといろんな人がいてもいいのになぁと思うのです。そもそもなにが立派でなにがそうじゃないかなんて簡単には決められないし、重みのある言葉以上に軽い言葉だって価値はあって、薄っぺらい人間にこそ強さがあるかもしれないのに、巷にあふれるものさしは偏ったものばかり。場にそぐわない言葉はまるで処刑台にでも乗せられるかのように吊るしあげられて、常に周囲を気にしていないとなにもできない風潮。失敗が許されない社会、失敗の価値を認めない社会。なにかあるとすぐ排除する動き。どうも自由がないのです。民主主義を盾に無駄が省かれ、効率の良さばかりを追い求めているうちにこの国から、のんびりの妖精も寛容の神様も軽さの王様も手間隙王子もいなくなってしまいました。この島はいったいどこへ向かうのでしょう。
 その点、路地裏の塀を渡り歩くノラ猫たちはほんといいなぁと思う。犬のように小屋を与えられなくても、なんの支障もなく生活している。アスファルトの上で溶けるように寝転んでいる猫たちにほのぼのするだけでなく羨ましくすら感じる。ストレスに苦しみながら人間が一生懸命構築した社会のうえで、のんびり暮らしている猫たち。本人はのんびりだなんて思っていないのだろうけど、ストレスなんてものもない。ストレスという言葉も責任という概念もない。そういった胡散臭い言葉を城壁にして社会という城を構築してきた人間も、少しはあのノラ猫たちを見習うべきなのです。
 社会人だとか、責任だとか、洗脳するように重たい言葉が飛び交っているうちに、社会はとても窮屈になってしまいました。和を乱さないようにしているうちに、寛容の潤滑油が空になってしまいました。だからいつもぎすぎすしているのです。日常生活に潤いがないから重たい空気だけがのしかかる。直接言うのを避けて空気として責め立てる。いったい理想の社会とはなんなのか。そもそも社会というものに期待しすぎなのです。完璧な社会を求めすぎ、社会に埋没しすぎ。社会は「世界のすべてではない」のです。だから365日、24時間社会人でいる必要もなく、社会に取り残されたからと言ってそれを悲観視する必要もない。24時間社会との関わりのなかで生きていればストレスに押しつぶされるのも当然。ときにはあの猫たちのように社会から離れてみることも大切なのです。 
 もちろん、法律違反をしていいわけではないし、社会と切り離してずっと生活することは不可能。そういうことではなく、社会的に優等生であろうとしたり、社会に理想を求めないで、こんなのやってらんねーよと、たまには社会という学校を抜け出して、屋上で昼寝したり、河川敷で石を投げているだけの時間だって必要ということ。「必要」なんて言葉も使いたくないのですが。なにも考えずたまにはノラ猫たちのようにのんびりひなたぼっこをして過ごす日。仕事をさぼる日。そんな自分を許せるかどうか。自分に寛容になれるかどうか。最終的にたどり着くのはそこなのです。結局、自分を許せるかどうかが、寛容な社会の第一歩なのです。
 貧しい国と豊かな国、そのものさしは一般的に経済的なものをさしていて、それに対して本当の豊かさとは経済的なものじゃないとか、ちょっと哲学をかじるとそういうことを声高にいう人もいる。でも、お金があるほうが心が貧しくて、お金がないほうが本当の豊かさがある、なんてことが一般常識になってしまったらそれはそれでおかしいし、そのことに気付いたのはお金が活躍した時間があったからで、人々の価値観は流行のように変化していくもの。もし仮に、田舎にこそ本当の豊かさがある、という価値観を万人が抱いていたらきっと、都会の人はお金を払って田舎の生活をするようになる。企業がその価値観に目をつけて動き出す。常に人の多数派の価値観を伺いながら経済は動いていく。失われたものを補いながら、時代の価値観は変化していくのです。
 幸福だとか不幸だとか、結局、誰の言葉も正しくない。社会の価値観にあてはまる必要なんて全くない。そんなこととは関係なく自分の価値観で生きればいい。僕たちはもっと自由気ままに生きていくべきだし、生きていける。ノラ猫たちのようにのんびりと。いろんなことを気にしすぎ。周りに気を遣いすぎ。批判を恐れすぎ。立派な人間になろうとしすぎ。立派な人間を求めすぎ。そんな奴がいたっていいと寛容な気持ちを持つべき。貧困とか裕福とか、記号に惑わされすぎ。社会に完璧を求め過ぎ。世界はいつだって自分の理想にはならない。理想の世界になってなにも言わなくなるより、理想の世界にならなくて愚痴ばかり言っているほうがむしろ健全。世界を自分の理想にしようなんてもってのほか。こんな矛盾に満ちた世界でもノラ猫たちはあんなに気持ちよさそうに寝ているではないですか。人間も、ノラ猫になってみたらきっと、肩の力が抜けて、すーっとラクになるはず。地面に寝そべってみれば、また違った世界が見えてくる。
 生きていくことが辛いと感じるときもあるかもしれません。社会に取り残されたり、社会を冷たく感じたり。そんなときこそノラ猫になったらいいのです。彼らと目が合うだけで、いろんなことがどうでもよくなってくる。なんだかいろいろ許せてくる。だから人生には、社会という枠組みなんて気にしないで生きていく、ノラ猫の力が必要なのです。もちろん、この話にだってとやかく言う必要もなく、適当に聞き流せばいいだけの話で。

2010年07月04日 00:25

コメント

ノラ猫力、いいですね〜。
 私の中には、社会の規律の中で優等生としてキッチリご主人様の為に仕事を全うして頑張るワン、グループの中で愛されていたいワンという犬的な要素と、自由気ままに一人で好きな時間をゴロゴロしたり、私には私のものさしが有るから良いんだニャ〜ン、枠組みなんて気にしないんだニャという猫的な要素が、同居してます。

とりあえず、最近は長年務めてた一流企業と言う枠組みからおさらばして、まさにノラ猫モード真っ只中。
にゃ〜〜ん♪

追伸:今夜のロケショーは選曲や全体通した雰囲気が今日の自分のテンションに近かったり、夜明けのピアノが聴けたり(これ、めちゃめちゃ嬉しかった〜♪)で一層心地よいひとときでした。

投稿者: LINA☆ | 2010年07月04日 05:08

確かに世の中全般がギスギスしている気がします。
かと言って、国民が一斉にノラ猫になったらそれはそれで大問題ですが、右にならえの風潮が強すぎると言うか。理想と現実のギャップが大きすぎるから、わぁわぁとなってしまうのでしょうか。
私は50%ぐらいかなぁ、、、ノラ猫力。

先週のロケショーの「100人くらいに聞きました」で今の日本に足りないものブロックで、私は「余裕」にエントリーしましたが、「ゆとり」という答えで出てきましたね。ゆとりとか人を受け入れるキャパシティがないと感じているのは、大半なのかもしれないけれど、なかなかノラ猫力を発揮するだけの勇気やパワーが欠けてしまっているのでしょうね。
でもそこは勇気を出して、自分は自分というスタイルを確立してみたいですね。そう、大御所「所さん」のように。

投稿者: 手まわしオルガン | 2010年07月04日 08:37

ふかわりょうの真骨頂を今日のブログに見た気がしました。
ふかわりょうの意義、ふかわりょう的生き方がここに凝縮されています。私達が共感する理由がここにあります。
ふかわりょうの醸し出す違和感・異質な存在感、何か主流派、主流社会に異議を申し立て、疑問を呈している感じ(決して声高にではなく、自然に、そして存在そのものによって)に魅かれ、ふかわさんの文章を読み始めましたが、その理由が今日のブログに書いてある事だったのだなと改めて気づきました。

投稿者: Mya | 2010年07月04日 12:50

早速ノラ猫を見つけに行こー!♪

ふかわさんの柔軟な優しさがあったかいです。
どうぞロケ兄様がぼーっと気ままに一休みされていますように☆★

投稿者: 咲子 | 2010年07月04日 13:22

このストレス社会の中で生きていると、どうしても周りとの協調を重んじるばかり、自分というものを殺しても同調したり、愛想笑いでごまかしたりする自分がほとほと嫌になる事があります。たまにチャレンジ精神が顔を出し、自分を主張すると、やっぱり出る杭は打たれて、やめれば良かったと後悔し、この出過ぎた杭によって自分に対する評価が下がってしまったのではないかと、ビクビクする事もしばしばあります。

人によっては自分というものをあえて持たず、周りの人たちに適当に相槌を打っていれば自分が仲間外れにされる事はないので、逆に楽だ、という人もいるかもしれません。それは人それぞなので、それ自体が良い、悪いという判断はできません。しかし、きっと私はそういう人間ではないです。しかし、ロケ兄がおっしゃったように、だからと言って反社会的な行動を取ったり、犯罪を犯してまでもという事ではないですよね。

そういう自分が自分でいられないような環境の中で、敢えて厭世的にならず、たまには自分を解放して、休ませてあげる。それはノラ猫のようになるという事ですよね?それと同時に私は「ブレない力」を持つ事だと思うのです。自分は自分。それが必ずしも己の意見・主張・目的が通らなかったとしても、それをあえて受け流す。結果がどうであれ、自分の中の根幹が常にしっかりしていればストレスも溜まりにくいのではないかと思うのです。

前述した自分というものを持たない人間の方がよっぽど人生損しているというか、つまらないし、寂しい生き方だと思います。

確かに周囲の中で自分だけが取り残されるのを怖がって、イエスマンになってしまう自分が嫌になったりしそうですが、そこはロケ兄が言う通り、たまにはサボったり、自分を解放してあげる日があっていいんだと思います。たまにのサボりはいつも「優等生」な自分に対しては周囲はそんなに評価が変わる事はありません。そうやって日々サラリーマンは仕事終わりに一杯やりながら一日の嫌な事を吹き払うように飲んでは愚痴り、明日への活力としているのです。

ものの価値観。そうですね、それは千差万別、十人十色。貧しい事によって、それがバイタリティーとなり裕福になれた人はそれが幸せだと言うかもしれない。または元々裕福だった人は人生お金じゃなく、心の豊かさだという人もいるかもしれません。それはエソラ(ミスチルの歌にありましたね)事に聞こえるかもしれませんが、自分のこれまで生きてきた中で確立された価値観がそれぞれあって良いのであって、正解などなくて当然なんですよね。

時代に、流行に捉われず自分という軸をブレずに、見失わないように、ストレスを溜めすぎず、たまにはノラ猫のように気ままに生きて行きたいものです。

投稿者: ラブ伊豆オール | 2010年07月04日 13:26

ふかわさん、大分ストレス溜まっているのでしょうか、大丈夫ですか!野良猫気分な休日というと、小学校に入る前の子供の時、いわゆる幼稚園時代、まだ宿題やなにか暗記しなきゃと考えずにいた頃が懐かしいです。僕は育った街でいまだに暮らしているのですが、休みの日は幼き日に一人あるいは友達と冒険気分で足を伸ばした道を歩き、自分の子供には申し訳ないけど一緒に僕が幼き日からある古きお店を訪ねたりします。ふかわさんも実家に帰った時にこんな体験もしてみてはどうですか?日々疲れる気持は僕も同感です。貴重なお休みを上手く気分転換に使うこと必要でしょうね!

投稿者: 下町の根強いふかわファン | 2010年07月04日 16:51

ノラ猫力わかります。

最近はノラ猫力を発揮して、時間をうまく使ようにするようにしました。自分の仕事が終わっても、ほかの人が終わらないとなかなか帰りにくい雰囲気… と、モンモンとしていたりしたのですが、最近は終わったらサクッとあがって、本屋さんに新作をチェックしに行ったりとうまく使うようにしています。

ノラ猫みたいに、ボロボロに大怪我するくらい大喧嘩することも時には大切なのかもしれないですね。2、3日はツーンって一人でしているけど、気づけばまた仲間と昼寝したりしてますから。

投稿者: チオリーヌ | 2010年07月04日 19:53

今回は、泣きそうです。
出会ってよかった文章でした。

投稿者: なみへい | 2010年07月04日 21:03

ヒッピー的生き方という事が懐かしい響きに聞こえる時代となりました。世間体とは、世間が本体で自分は影ですか?・・・。自分が自分らしく生きるという胡散臭い言葉もナンセンスなのです。海の向こうで暮らしてみるとベクトルが全然違う事に気付きます。日本人は情熱やワイルドさが感じられないのでNO SEXY だと外国人の友人は云っておりました。確かにねー。私はロケ兄がロケショーの一番最後に云う、”自分にうそつくなよ!”という言葉が大好きです! そして同感だと、心の中で毎回うなずくんです。

投稿者: Candy | 2010年07月05日 13:53

ふかわさん、こんにちは☆
初めてコメントします。

わたしも最近、似たようなことを考えていました。
今の日本はみんな同じ優等生であることばかりを求められて、少しでもみんなと違うと、変わった目で見られたり、認めてもらえなかったり。

一度失敗をしてしまうと、今の日本ではあまり挽回のチャンスもないような気がします。一度の失敗で、とても肩身が狭くなってしまう。だから、「失敗してはいけない」と過度な重圧になってしまったり、一度の失敗で「もうだめだ」と思いつめてしまったりするのかなと思います。もっと心に余裕を持って、ゆったり穏やかに過ごせる、寛容な社会になってほしいなと思います。

PS.この間のラジオでは、ふかわさんのピアノが聴けてとっても嬉しかったです♪また弾いてください☆

投稿者: さくらパンダ | 2010年07月06日 03:25

国民の休日に「ノラ猫ちゃんの日」を+して胸を張ってノラちゃんになるっていうのはどうでしょうか…??

投稿者: ずんずん | 2010年07月06日 22:42

周囲に合わせるのがストレスになるのなら、自分がしたいようにすることが、結局は周囲にとって、世界にとって、よい結果を生むと思います。

ノラ猫とおんなじ生き物として、人なりに人らしく、疲れたら休めばいい、帰りたければ帰ればいい。
ほんとはとてもシンプルな気がします。

もっと周囲を信じてワガママに生きたらいい。

Ⅱを聴きながらそんな事を思う。

投稿者: サルキ | 2010年07月07日 10:31

わたしにとっては、猫先生、ねこちゃん、猫氏、ネコ譲・・・
いろんな敬称をつけたい、つけられる存在です。

素直で、自由で、しなやかで、堂々としていて、
ちゃっかりしてるなぁと思うけれど、
シンプルで、かっこよくて、かわいいです。

たとえば、なんだか息苦しいと感じたら
なんでそんなふうに感じるのか?
ホントはいやなんだもーん。
だったら、どーしたい?どーする?
それをチャーミングな言葉で、行動で表現していく力を
つけてしまえばいいじゃないかと思います。

ムリムリって、たいへんって、きれいごとだって、わかってないって言われるし、思っていたけれど、
ホントにー?試してみたのー?

ロケショーを聴いてて、わたしは変わった!!
ロケショーは、猫の集会みたい!!

投稿者: ピカルディ | 2010年07月12日 00:17

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