« 第406回「シリーズ人生に必要な力その36不幸力」 | TOP | 第408回「シリーズ番外編人生に必要な県」 »

2010年06月06日

第407回「シリーズ人生に必要な力その37残さない力」

 ハードディスク・SDカード・メモリースティック、家電量販店に行くとコンビニのお菓子コーナーのように陳列されている記録メディア。3ギガだとか5ギガだとか、かつては耳にしたことのない言葉を掲げて並んでいます。CD−RやDVD−Rなど、なんとなく記録している面が見えればイメージしやすいもののこんなプラスティックのいったいどこにという感心することもなく人は、当然のようにデータを記録・保存し、持ち運ぶようになりました。
 写真にしても、あんなに馴染みのあったフィルムをあっけなく手放し僕たちは、この小さなカードに思い出を記録するようになりました。フィルム時代にあった、途中で本体を開けてしまってフィルムが飛び出して叱られるということも、カメラ屋に持っていって出来上がりをわくわくしながら待つことも、絹かどうかを選ぶことも、フィルムの分いびつに膨らんだ袋を手にすることも、もうなくなってしまいました。やがて卒業アルバムも小さなプラスティックで渡される日が訪れるのかもしれません。
 テレビ番組にしても、もはやビデオテープに録画する人は稀で、ほとんどの人がHDD・ハードディスクレコーダーに保存するようになりました。音楽においても、カセットテープはもちろん、CDで聴く人も少なくなり、アナログ時代にあった巻き戻すという行為は言葉だけになりました。あの回転している音を知っている人は決して多くない時代、人々はあらゆるものを記録・保存するようになりました。身の回りになくても、ネットの世界で探せばどこかしらに保存されています。アーカイブという言葉を耳にするようになり、人々は、まるで布団のように、圧縮してでもデータを保存するようになったのです。でも果たして、保存することはそんなに素晴らしいことなのでしょうか。
 そもそも人はどうして保存するのでしょう。見たい番組が見られないから録画しておく、これはなにも間違っていません。でも、ハードディスクの登場で録画がいくらでもできるようになったいま、ためるだけためておいて結局全然見ないというケースも少なくありません。いつでも見られるという油断。「いつでも見られる」は「一生見ない」のです。それに、同じ番組でも、放送中に見ることと、録画したものを見るのでは受け止め具合・角度は違ってきます。それがいけないことではないですが、後者の場合、自分のタイミングで見ることによって貴重さは薄まり、なにより、「いま」じゃなくなってしまうのです。  
 いつでも見られる番組、いましか見られない番組、どちらが魅力的かというと「いましか」の方ではないでしょうか。もちろん、たくさんの人たちに見てもらうためには「いつでも」のほうが有利でしょう。でも長い目でみたら、もしくは、心に刻まれる深さは、「いましか」のほうが強い気がします。ハードディスクレコーダーの登場が視聴率を下げているとしたら、それは単に録画する人口が増えたからだけではなく、いつでも見られることによる放送自体の価値が下がってしまったからかもしれません。
 昔はそれが当然だったから、きっと「残らない」ということに価値を見出さなかったのでしょう。でもこれだけ残すこと、残ることが普通になってしまったいま、もはや残らないことのほうが困難であり、美しいということに気付かなければなりません。残す美学ばかりが取り沙汰されているけれど、残らない美学もあるのです。
 花は枯れてしまう。花火は散ってしまう。そして生き物もやがては消えてしまう。なんでも残すこと、それはいうなれば、人工的に雨を降らせるようなもの。雨はいつ降るかわからないから雨なのであって、人間が意図的に降らせる雨は雨じゃないのです。人間がコントロールして作りだす虹なんてなんにも美しくないのです。
 旅行先で撮影した写真をあとで見ながら思い出に浸ることも楽しいでしょう。でももしかしたらカメラなしで旅行にでれば、カメラ持参のそれとは別の世界が見えるかもしれません。いましか見られないと思って出会ったものはきっと、心のメモリースティックにしっかりと刻まれているのです。
 もちろん保存・記録することも必要で、なにも保存するなと言っているわけではありません。ベートーベンやビートルズの曲が時代を越えて愛されているのは記録技術のおかげです。いつも言うようですが、大切なのはバランス。残すことばかりに気をとられて「いま」の大切さが軽視されている。いまの重みがなくなっている。いまを伝える、いまを共有する、そこには失敗も成功もないのです。
 残すことによって生まれる安心感が、その瞬間を受け止めるときの気持ちを緩めている気がします。もしかしたらやがて、目にしたものすべてが勝手に保存される時代が訪れるかもしれません。そこに疑問を感じず、なんでも残してしまう時代だからこそ、人生には残さない力が必要なのです。

2010年06月06日 00:32

コメント

子供のためにと、10年近く学校行事というとビデオカメラによる撮影をしていましたが、「いましか」という気持はひしひしと感じています。撮影より拍手や声援により、みんなが一体となって過ごすひと時の方が大切だと思います。まあ10年以上後に、子供から感謝される時もあるのかもしれないけど、それからふかわさん大丈夫ですか、胃痛とは無理はしないで、ください。ゆっくり今年を攻めれば、いいじゃないですか!

投稿者: 下町の根強いふかわファン | 2010年06月06日 07:57

技術の進歩とともに人間の心までもがそれにコントロールされるようになり、いつの間にかそのことにさえも気付かないくらい、デジタル力に飲み込まれかかっている今だからこそ、原点である「瞬間の感動」の良さと「本質」の大切さを、改めて教えてくれるような内容でした。
どんどんたまった画像やファイルなどのデータ、気が付くと収集つかないくらいの数に。。。本当にデリートマンの助けを借りたいくらい(!)
心のキャパと同様、情報の容量も適度に空けておかないと新鮮な情報が入ってきませんよね。これを機にちょっとお掃除!

何だか「残す美学」の方を重視していると、直感とかイマジネーションがどんどん失せてしまいそう、なんて直感で思いました。

投稿者: 手まわしオルガン | 2010年06月06日 09:41

 今回ふかわさんが語られていることと似たようなことに、【“見識力”の低下】が挙げられると思います。ここで私が言う“見識力”とは、“(客観的な)知識・(独自の)経験則を自分なりに組み立てて見識へと昇華させることで、それまで経験したことのない事態に対しても適切に対処できる能力」のことです。
 
 最近は、(客観的な)知識に関してはウィキペディアなどで「いつでも見られる」ようになったことで、自分の脳という記憶装置に記憶することを疎かにするようになってきているように思えます。その結果、恒常的に駆使できる知識――いわゆる「常識」――が少なくなってしまっているように思います(←以前ふかわさんも、「わかりきったようなことまで、いちいち注意書きやアナウンスで知らせる時代になってきた」といった趣旨のことをこのコーナーで語られていたと記憶しています。その大きな原因の一つがこれではないでしょうか?)。
 そして……最終的には【“見識力”の低下】につながり、物事を自分で考えて判断する力が衰えてきているような気がしてなりません。

投稿者: 明けの明星 | 2010年06月06日 11:52

はい そうですよね! 私は 
音楽ば〜か を観ながらロケショー聴いてます♪
時間がかぶっちゃってるのが嫌です!!

投稿者: 咲子 | 2010年06月06日 12:16

前にベッキーのベッ記にふかわさんのブログのことが書いてあり、気になって見てみました!
なんだか感心しました。確かに昔はあのTVがあるから早く帰ろう!と言う意識がありましたが今やユーチューブなどで後からでも簡単に観れることで残らない価値が無くなってますよね。
ふかわさんがこういう事を考えているという事を初めて知りました。素敵です。

投稿者: みかん | 2010年06月06日 23:06

ロケ兄の今週のタイトル「残さない力」。目からウロコです。そうそう、そうなんだよね〜って感じです。記録媒体が発達した現在、どんな場所でも、どんなツールでも、どんな形へも何もかもが保存できる世の中、その保存する実態そのものの価値が薄れてきてしまってますよね。結婚式や子供の運動会・お遊戯会、あるいは旅行先の風景や街並み…あらゆるシチュエーションで人はその瞬間を留めようとします。でも、それってどうなんでしょう…。撮っている側の人間は果たしてその対象人や物を、リアルタイムで楽しんでいるのでしょうか?残すことに必死になり過ぎて、本来の目的を見失ったりしていないでしょうか?一昔前は絶対に見逃してはいけない歌番組を見る為に早めにご飯を食べて、5分前からテレビの前にスタンバイしていたり、眠い目を擦りながら好きなタレントさんの深夜ラジオを聞いていたり…。思い出となる瞬間はファインダーを通してではなく、自分の目で、自分の視点で感じたり脳に記憶したりするのが一番の本人にとっての良い思い出となるような気がするんですよね。ただ、残念ながらリアルタイムでどうしても見たいテレビというのも最近は少なくなってきている気がします。記録媒体の性能向上と利便性の発達によってテレビ番組が面白くなくなってのか、もしくは番組制作の低俗化なのか、私が単純に冷めた見方をするような年齢になってしまったのか…。実は私はあまり写真や動画を撮りません。さらにそれ以上に写真を撮られるのが本当に嫌いです。撮った写真を編集して圧縮してメールで友人達に送る手間暇が面倒くさいという理由も多少はありますが、基本的にはロケ兄の言う事を私も常々思っていたからです。友人の結婚式など、出されて料理も殆ど手を付けず写真ばかり撮っていて、気が付いたら料理が下げられてて、お酒も楽しく飲む余裕もなく、ひたすら新郎新婦を撮り続けている…プロのカメラマンならばお仕事なのだから当然かもしれないけれど、友人として祝福するために呼ばれたのに、この人、やり過ぎだよなぁ…とそういう人を見てはいつも思ってしまいます。楽しい瞬間、滅多に見られないような光景・風景など、記録に残すのも大事ですが、記憶に残す事の方がもっと大切なのでは、と思うのです。もちろんロケ兄の曲だってCDという媒体(配信楽曲もありますが)がなければ、私たちにはロケ兄の曲が聞けなかったわけですものね。多少の記録は大事ですね。そこは文明の進化に感謝をしないとです。やっぱり「バランス」なんですね!

投稿者: ラブ伊豆オール | 2010年06月06日 23:34

本当にそうだと思いました。
自分の記憶力、感じる力も弱くなっていると思います。「保存してあるから忘れてもまた見れば大丈夫」「ネットで探せばすぐ見つかる」といった物事に対する軽さ、人の発する「心」への軽視。
読んでいて怖いと思いました。
すべてに対して「なんとかなる」と思っている、この甘えが軽視となり、傲慢につながる。自力でやっていることなんてとても小さなことなのに。保存だけの問題ではないけど、もっと一つ一つ、人の発する声、心、それを感じ取る自分の心を大事にしたいと思いました。
勉強になりました☆ありがとうございました!

投稿者: mu | 2010年06月07日 00:38

残さない力・・・
力シリーズのネーミングがいつもすごいなぁと思います。


人の五感に勝るメモリースティックはあるのでしょうか。

量的なことではなく質として。


これを読んで、記録としては残っていない、いくつかの忘れられない景色がばーっとよみがえってきました。

残さない力・・・
ふたたびその瞬間を求める心への反動力、ともなりえるかもしれませんね。


なんだか行動したくなってきました。
ありがとうございます。

投稿者: ひょう | 2010年06月08日 10:38

ふかわさん、こんにちは。

初めてデジタルカメラを購入したとき、夏の花火や自分の大好きな場所のきれいな景色を沢山撮りました。
最初は「きれいだったねー」って思い返して楽しかったのですが、結局データを消しました。

やっぱり生で見るのが1番きれいです。
写真に残さないで、おぼろげな自分の記憶を思い起こして、「たしかすんごい綺麗だったなあ。今年も行くぞー」って考えている方がワクワクできますよね。

去年は写真を撮るのに夢中だったけれど、今年の花火大会は何にも考えずに記憶に残したいです。

投稿者: えりんぼ | 2010年06月09日 17:35

本当にそうですね…
うちの子供の卒園アルバムは、
卒園DVDとなって持って帰ってきました。

投稿者: tarumachi | 2010年06月10日 10:29

コメントしてください

名前・メールアドレス・コメントの入力は必須です。




保存しますか?

(書式を変更するような一部のHTMLタグを使うことができます)