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2010年02月21日
第395回「シリーズ人生に必要な力その26褒め力」
かつての受験戦争なる言葉をよく耳にしていた時代ほどではないにせよ、相変わらずその過熱ぶりは衰えず、少子化のおかげで門の幅が多少広くなったにもかかわらず、受験生に対するプレッシャーや受験に対する考え方は以前と変わらないようです。受験自体は決して悪いことではなく、力を試す場、本気を出す練習としては有効ですが、まるでそれが人生すべてを決めてしまうような雰囲気には少なからず疑問を感じます。ここからが合格でここからが不合格、社会はそんな単純な境界線はないのに、そういったシステムを頭に植えつけてしまうことは非常に危険なのです。受験だけでなく、世の中にはいろいろな局面で試験が行われますが、同じ試すのなら良いところを発見するためのそれがあってもいいのに、普段の学習がどれくらい身に付いているかを知ろうとするあまり、どれも欠点を探す試験ばかり。どんなに素晴らしい教科書や参考書、教師やカリキュラムをもってしても、そういった教育全体の考え方が最も良くない教育であることにどうして気付かないのでしょう。たとえ美味しい料理を作ることができてもお店が不衛生であったら意味がないように、人にやさしくない教育システムはそれ自体が悪影響を及ぼすのです。
教育というとどうしてもその「教える」という言葉に気をとられて知識を与えることばかりに重点を置いてしまいます。たしかに知識も大切ですが、それを伝えればいいというほど教育は薄っぺらいものではありません。そもそも知識は使わなければ単なる情報にすぎず、活用して初めて知識と呼べるもの。ただ与えるだけでなく、それを活用する場も必要になってきます。もうひとつ大切なこと、それは「見つけること」です。
人によって向き不向きがあり、得意分野がそれぞれ違います。なのに、ひとつのものさしをみんなにあてていたら一部の人しか心地よくありません。人の数だけものさしが必要であって、一人一人が輝くにはどの角度から光をあてたらいいのかを、教える側は考えなければなりません。そもそも精神的に未成熟な状態で否定ばかりされていたら逃げたくなるのは当たり前。なんでも頭ごなしに否定するのではなく、「キミのここは素晴らしい、でもここは直したほうがいい」と、弱点の前に良い場所を見つけてあげることが必要なのです。教育は、与えることと見つけること、このふたつが共存してはじめて成り立つのです。
若い頃どうしても外見だけで人を判断してしまうのはものさしをたくさん持っていないから。しかし、経験を積んで大人になっていろいろな価値観を身につけると、人を多角的に見ることができるようになります。人を見る目がかわり、褒める場所を見つけられる。教師たちに求められるのはそういうことであって、たくさんの価値観が必要なのです。そうすれば違いを認めることもできるでしょう。人と違うことは責めるものではなくむしろ褒めてあげるべきもの。それが社会のルールを逸脱していないかはまた別の話で。ゆとりが必要なのは時間ではなく、教える側の器なのです。
もちろん学校だけの話ではありません。部下にしてもスタッフにしても、やり方を教えるだけではだめで、いい部分を見つけてあげることも上司の役割。褒められて伸びるタイプとかそうでないタイプとか言いますが、褒められて嫌な気分になる人はいないでしょう。ただ注意や否定ばかりしていたら、なにを言っても心に響きません。褒められて心が開いてはじめて言葉が届くのです。
褒めることと甘やかすことは違います。もちろん、ゴマをすることでもありません。やさしい教育、それは存在を認めてあげること、それぞれの違いを認めてあげること。みんな同じことだけが美ではないのです。褒めること、それはやさしさであり、強さの証。違いを認め合える人たちがたくさんいれば世界はもっと変わるでしょう。いろんな角度で世の中と向き合い、良い部分を見つける、そんな褒める力が人生には必要なのです。
2010年02月21日 10:31
コメント
自分はいい歳をしてちゃんと人を多角的に見ているかな?
私へ否定ばかりしてくる人へ私から褒めてないな・・
やっぱりふかわさんすごいなぁ!。
投稿者: 咲子 | 2010年02月21日 16:12
違いを認める(ひいては自己の存在理由を与える)教育・職場……大切なことではありますが、実際にはなかなか難しいことだと思います。
まず教育現場についてですが…国公立の場合は文部科学省などの「お国の機関」から指示された教育カリキュラムの遂行が第一になる傾向があると思います。私立学校の場合は、こういったことの影響は(比較的)少ない代わりに、先生方は様々な“目に見える実績”――例えば、東大に何人合格させたとか、一年に本や論文をどれだけ出しているか、といった“数”に換算されるもの――の有無によりクビがつながるかどうかが決まる(と思われる)ので、どうしても「自己保身のために仕事を“こなす”(←教育とは、“こなす”ようなものではないのですが・・・)」という事態に陥ってしまう傾向があると思います。
会社の職場の場合も、教育カリキュラムの遂行→仕事のノルマと言い換えれば(“目に見える実績”は、(無論その具体的内容に差こそあるものの、)その概念自体は同じように通用します)……ほぼ似たようなものであると言えるでしょう。
以上のように……教育・(会社の)職場いずれにおいても、ノルマ・自己保身・マニュアルの遂行といったものが強い影響力を及ぼしているように思えます。そして、そこから導き出される結果を一言で言うならば、【“同じもの”の再生産】ということになり、「違いを認める」こととは正反対の方向性になっていると言わざるを得ません・・・。
投稿者: 明けの明星 | 2010年02月21日 17:47
初めてブログを拝見しました。
ふかわさんのテレビとは全く違う一面を見せて頂いた感じで、とても好感を持ちました♪
これからも応援します^^
投稿者: ako | 2010年02月21日 18:47
一人の人間の無限に広がる可能性を信じ、光をあてていく教育。とても大切だと思います。人それぞれの価値観や差異を認め合っていく先に、平和があると思います。
投稿者: りん&メリー | 2010年02月22日 00:19
初めてコメントします。
以前からふかわさんの本のファンでしたが、もっと読みたくて最近こちらのブログも拝見させていただくようになりました。
読みやすく、笑いあり、大真面目あり、しかも必ず何かを私たちに気づかせてくれる、そんなふかわさんの文章が大好きです。毎週楽しみにしています!
またコメントさせていただきます。
投稿者: ぶたずきんちゃん | 2010年02月22日 11:00
同感です。なんだかやっぱり、ふかわさんと私の考え方似ているかもしれません。共感できる人がいると嬉しいです。そして私は言葉で説明するのが苦手なので、まるでふかわさんが私の考えていることを代弁しているかのようで、面白いです。
一人の教師が何人もの生徒を様々な価値観から観てあげるのは大変かもはしれないんですが、そうであって欲しいなぁと心から思います。「もしかしたらこの子はこうなんじゃないか」みたいな、そういう一人一人の良さを常に考えてあげられる教師で溢れていて欲しいです。
P.S. 「ムーンライト・セレナーデ」、来月の私の誕生日に合わせて友人が買ってくれることになりました。読むの楽しみです。
投稿者: Yuko | 2010年02月22日 11:55
存在を認めること、それぞれの違いを認めること...。他人を認めることは、同時に自分自身を認めることにつながるのだと思います。褒め力のある人間でありたい。その方がきっと人生が楽しいはず。自分に子供がいたならば、最も伝えたいことの一つだと思いました。
投稿者: サルキ | 2010年02月22日 23:01
初めまして〜\(^^)/
ブログの更新いつも楽しみにしてます。
これからも頑張ってくださぁい〜(^▽^)
投稿者: yui | 2010年02月23日 10:41
ふかわさん、こんにちは。初めてコメントさせて頂きます。
私は、海外に住んでいる高校1年生です。日本の大学に進学するため、今必死に勉強中です。
海外から日本の大学に入学するには「帰国子女枠」という物が使えて、SATという英語と数学を含む合計2000点のテストで、最低1500点取らなくてはいけません。1500点以上取らないと、「帰国子女枠」を使って大学に入学できないからです。
今SATの勉強に行き詰まっていて、すごくイライラしていた所、ふかわさんのブログにたどり着きました。
ふかわさんの言葉、すごく心に響きました。私の下手な日本語じゃ伝え切れないけど、ふかわさんがもっと好きになりました。
私は日本で英語塾の教師をやって、正しい発音を子供たちに教えるのが夢です。私が教師をやっている時代では、あまり子供たちが受験のプレッシャーを感じないような環境で育っていることを願います。
投稿者: 千咲 | 2010年02月23日 15:44