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2009年09月20日

第376回「シリーズ人生に必要な力その18しょうゆとソースの判断力」

 住宅街の中にも意外と公園はあるもので、ブランコや砂場など、昔ながらの光景を見ることができます。しかし、そういった遊具よりもひときわ目立っているものがありました。膨大な量の注意書きがされた看板。ボール遊びもだめ、大声もだめ、花火もだめ、楽器もだめ。とにかくあらゆる「してはいけないこと」がたくさん書かれています。そうなるともう、黙ってブランコに乗っているか、ベンチでじっと読書をしているしかありません。そんな、窮屈な公園を最近よく見かけるのです。
 ある知人は、家族で花火をやろうとしたところ、どこへ行っても禁止されていて、はるばる1時間以上もできる場所を探したそうです。東京から遠く離れた美しい海岸線に立てかけられた看板には「バーベキュー、花火禁止」という文字。この国は、自由に花火もバーベキューもできないのです。 
 たしかに禁止事項をつくることは大切です。近隣住民に迷惑をかけたり、海を汚してはだめです。でも、多すぎるのです。問題を回避することは大切ですが、その回避方法がいつも「禁止」、つまり「やらせない」のです。それはいわゆる事なかれ主義。なにもしないのが一番というあまりに短絡的な発想なのです。
 花火をやって後片付けをしない人たちがいるから砂浜での花火が禁止される。バーベキューをして汚す人がいるからできなくなる。でも、砂浜を汚さずに花火やバーベキューをやる方法を考えるのが人間であり社会であって、なんでも禁止すればいいというものではありません。少数の悪い人たちのためにルールが作られて、大多数の人たちの権利が奪われてしまう。なにかあるとすぐ、禁止していないからいけないんだ、みたいなわけのわからない理屈のせいもありますが、そんな責任を押し付けた結果、この国は禁止だらけになってしまったのです。
 これによって人は、禁止されているかどうかで判断するようになり、自分で判断する習慣がなくなってしまいました。やっていいことと悪いことを自分で判断する力が鈍ってしまったのです。禁止されているからダメ、禁止されていないからいい、常に誰かの価値観を参考にしないと行動できない。このままでは、「だって看板に書いてないよ」と、公園で馬を放し飼いにする人がでてしまうかもしれません。
 当然、信号が赤でも大丈夫だったら渡っちゃおう、ということを推進しているのではありません。そうではなく、現代の世の中は信号が多すぎるのです。必要のないところにまで信号を設置するから窮屈でしょうがないのです。少数の非常識な人たちを簡単に取り締まろうとするから、常識的に行動している人たちの行動が狭くなる。予防線ばかりを張り巡らしている社会は同時に人間を信用していない社会ともとれます。本来なら、もっと人の判断力を信用するべきなのです。
 こうして判断する機会を失ってしまった僕たちがもう一度、判断力を取り戻すためにはその力を身につけるためのトレーニングが必要です。それに適したものが「しょうゆかソースかの見極め」なのです。お弁当についている小さい容器もあれば定食屋のテーブルに置いてある場合もあります。はっきり「ソース」と書かれていたり、魚の形をしていたりすればある程度中身もわかりますが、必ずしもそういう親切なものばかりではなく、えてして紛らわしいもの。また、キャップが赤だからしょうゆ、青だとソースとは限らず、そんな先入観を抱いているといつかさんまにウスターソースをかけたりコロッケにしょうゆをかけてしまう破目になります。そんな失敗も判断力を身につける上では必要ですが、大切なのは、それがしょうゆなのかソースなのかを自分の力で判断すること。その訓練を積むことで、それがロースなのかハラミなのか、脈ありなのか脈なしなのか、この収入でこの家賃を払えるのか、結婚すべきなのかどうかなど、あらゆる局面において自分で判断する力が身につくのです。
 禁止することは簡単ですが、禁止しすぎては個人の判断力が衰えてしまいます。判断ができないというのは、自分のものさしがないということ。自分のものさしを使ってこそ、自分の人生。自分のものさしで判断する機会が失われている時代だからこそ、人生にはしょうゆとソースの判断力が必要なのです。

2009年09月20日 10:59

コメント

しょうゆとソースと題名にあったので、どこでつながるんだ?と追っかけっこしながら読んでいました(笑)こういう切り口で、自分で判断する習慣がなくなってしまったことについてを語るとともに、解決策まで流れる文脈に惚れぼれしました。おもしろかったです。

投稿者: 堀口ひとみ | 2009年09月20日 11:23

このシリーズを読んでいると、よく「仕事上の自分」が思い浮かび、反省させられることが多いです。
本当は自分のアタマで考えられる余地がもっとあるのに、判断したり責任を負ったりしたくないから、"既存のルールや常識"に盲従することに慣れてる。

>自分のものさしを使ってこそ、自分の人生。
。。。耳が痛いです。

投稿者: junxxx | 2009年09月20日 14:26

ハッ!!脈がないのに気づかずアプローチしてないか自分?
て考えさせられました!。

花火もできないなんて淋しいですね
町の片隅に花火用の縁側でも設置されないかな?。

投稿者: 咲子 | 2009年09月20日 14:51

すごく面白いブログですねっ!
また、遊びにきます。

投稿者: 生命保険の見直し方 | 2009年09月22日 05:48

脈ありなのか脈なしなのかの判断力というか見極め力は、確かに人生に必要な力だと思いました。

判断力を突き詰めると、自己責任を激しく問われる社会になりそうです。それはそれで殺伐としそうな気がしないでもないですけど。庶民の常識的思考によるバランス感覚が大事ですよね。

投稿者: naoki DOLCE | 2009年09月23日 00:10

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