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2007年12月09日
第297回「謝罪フェスタ2007」
こんなに多くの謝罪を見たことはこれまでなかったんじゃないかと思うほど、今年はとにかく謝罪の年でした。政治家や官僚をはじめ、ボクサーや力士、芸能人、そしてあらゆる企業の責任者まで、ありとあらゆる人たちの頭を下げる姿が連日のように放送されました。謝罪に始まり、謝罪に終わろうとしている2007年はまさに、謝罪のお祭り、謝罪フェス2007になってしまいました。
ひとえに謝罪といっても様々なタイプのものがあります。現在記憶にあるものでも、好感の持てたものとそうでないものがあったように、その奥に潜んでいる人間性が露呈するために、謝罪という行為ひとつで、相手に与える印象は大きく変わってきます。
謝罪のしかたひとつで一企業の将来を大きく左右するわけですから、謝罪のエキスパートが存在するのも必然的なことです。どうしたら反感を買われないのか、どうしたらプラスに転じることができるのかと。それこそヘタな謝罪をしたら、そもそもの過ち以上の過ちをおかした印象を与えかねません。傷口を一層深めてしまうのです。逆の場合も当然あります。なにか大きな過ちを犯したとしても、それにつりあう謝罪をすれば、過ちが帳消しになるどころか、カブをあげることにだってつながるのです。謝罪には(厳密に言うと、言葉には)そんな不思議な力があるのです。謝罪が鍵を握っているのです。
人によっては、謝るのが仕事、というケースもあるでしょう。立場上、納得行かなくても謝らなければならない仕事、腑に落ちなくても頭を下げなければならない仕事、そういう職業って少なくありません。なかなかストレスのたまるものだと思いますが、謝罪に謝罪を重ねていくと、その技に磨きがかかり、なんのためらいもなく頭をさげ、相手の気持ちをなだめることが可能な、謝罪のエキスパートとなれるのかもしれません。さらに、謝罪セミナーなどが開講され、相手に好印象を与える謝罪を、プロの謝罪人(アヤマリスト)に学ぶような状況も考えられます。とにかく、社会の潤滑油である上手な謝罪を手に入れたほうが、それだけ世の中うまく渡れるのです。
いずれにせよ、謝罪そのものはないほうがいいです。いつだって、謝罪ばかりの世の中よりも、謝罪のないそれのほうが明るいです。謝罪ばかり見ていると、なんだか気が滅入ってしまいます。そういう意味では、この謝罪フェスタが開催された2007年は、子供たちからしたら、無意識に夢を奪われるようなものだったのでしょう。テレビをつければ大人たちが頭を下げている。こんな世の中では希望もなにもありません。夢を売らなければならないテレビから流れるのが大人たちの謝罪シーンばかりでは、子供たちは社会になにも期待しなくなってしまいます。そればかりか、バラエティー番組もいつのまにかクイズ番組ばかりになってしまい、なんだかテレビの中が魅力的でなくなってしまっている気もします。僕たちが子供だったころのように、見たい番組のために早くかえる、というようなパワーがテレビになくなってしまったかもすれません(タレントとしての自分と人間としての自分の葛藤)。ゲームだって僕からしたら、子供たちの財布からお金を巻き上げているようにしか思えません。大人の策略にはめるのではなく、子供は子供たちの間で生み出されたもので遊ばせるべきなのです。とにかく、このままでは、子供たちが大人に魅力を感じなくなってしまいます。大人を信用しなくなってしまいます。そうなったらもうおしまいです。誰も大人になろうとしません。だから大人たちは、反省しないといけないのです。いつまでも往生際が悪く、ごまかしていてはいつまでたっても尊敬されません。子供たちから信用を取り戻すために、来年こそは、謝罪のない一年にしなくてはならないのです。そのためにはまず、大人たちが子供たちに、しっかりと謝罪することで、この謝罪フェスタ2007の幕を閉じるべきではないでしょうか。そんな大人、出てこないかなぁ。
1.週刊ふかわ |2007年12月09日 09:42
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