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2007年11月11日
第293回「地球は生きている9〜のどが渇かない街〜」
「どうしてだろう...」
僕はその日、ほとんど水を飲まずにいることに気付きました。なんだかのどが渇かないのです。もしかするとそれは、一人旅で口数が少なかったからかもしれません。時期も関係しているのかもしれません。個人差も当然あるでしょうが、でもそれにしたって普段必ずペットボトルを持参して車に乗る僕ののどが全然渇かないことは、少なくとも空気が澄んでいることを証明しているのではないでしょうか。空気が澄んでいるからのども渇かないし、虹もくっきり端から端まで見えるのです。空気が澄んでいるから、気分がよくなるのです。でも、ないのは「のどの渇き」だけではありません。日本にあって、アイスランドにないものが、たくさんあったのです。
日本にあってアイスランドにないもの、まず挙げられるのは、ビルなどの高い建物です。都市部でもあるのはせいぜい5階建てくらいで、それ以外はほとんど2階建ての家屋です。だから、空が日本で見るそれよりも何倍も大きく見えます。郊外へ踏み出せば、建物自体見あたらなくなります。家屋もほとんどなくなり、赤い屋根をした教会が時折現れる程度です。さらに商業的な看板も一切ありません。渋滞は当然のこと、信号待ちどころか信号すらないのです。ほかの車を見かけずに何十キロも走ることだってあります。山の合間をただ道が走っているだけです。自然の色だけで構築された世界、そして偶然にしてはうまくできすぎているその自然界の配色に、感動すら覚えるのです。正直、車を走らせることが申し訳なくなります。
日本にあってアイスランドにないもの。それはトンネルです。調べたわけではないのでひとつもないとはいえませんが、まず見かけません。こんなにも山ばかりなのに全然ないのです。日本だったら山があったら穴をほってトンネルを作ります。でもアイスランドではそうはならないのです。山があったら仕方ない、なのです。日本のように、山の中に穴を貫通させるなんていう考え方はそもそもないのです。山があれば、その裾野を走るか、周囲を走るしかないのです。自然を破壊しないのです。自然や自然の景色がしっかりと守られているのです。誰の所有物でもない景観にこそ、そこにいる人々を映す鏡だと思いますが、まさにアイスランドの人々の精神がそこに反映されているのです。
日本にあってアイスランドにないもの。それは大げさな柵や注意書きの看板です。大きな滝のところにそういったものがなく、ほんとうに簡単に飛び込むことができてしまうのです。もし過剰な柵や看板などに囲まれていたら、いくら名所といわれても、せっかくの景色が台無しです。ここでも、ありのままの自然が残され、尊重されているのです。でも尊重されているのはそれだけではありません。人間の判断力です。判断力を信じているから厳重な柵をつくらないのです。「ここに柵を作らないから事故が起きたんだ!」というのは、ある意味責任転嫁であって、人間には本来判断する力があるのです。それがまだ備わっていない子供たちは大人たちが守ればいいのです。アイスランドでは、自然だけでなく、人間の判断力も信じられているのです。判断力を信じられているから、それだけ多くの自由が与えられるのです。
アイスランドにいると、普段の生活がいかに制約を受けているのかがわかります。それに慣れてしまって気付かないのだけど、僕たちの生活がいかに受動的であることがわかります。それはルールがあるから仕方ないのですが、いろいろな局面で自分の行動にブレーキをかけているのです。アイスランドの生活を新幹線とするならば、日本のそれはJR山手線のようなものです。動いたらすぐ停まる、そんな生活を送っているのです。だから知らず知らずのうちに、ストレスばかりが蓄積していくのです。
アイスランドの人々にもストレスはきっとあると思いますが、過剰なルールもなく、それぞれの判断力が信じられている社会で受けるプレッシャーは、僕らの社会からしてみれば、ほんのわずかなものだと思います。たとえストレスが蓄積しても、それは雄大な自然が吸収し、人々から解き放ってくれるでしょう。アイスランドには、ストレスを粉砕してくれる環境があるのです。なのに僕たちは、その装置を破壊して、便利さだけを信じてしまったのです。僕たちが、海を眺めたり、山を登ったときに感じる開放感は、決して気分の問題じゃないのです。自然には、そういう力があるのです。
僕の気のせいかもしれませんが、アイスランドの人たちは待たされることでイライラしていないように思えました。気候によって自分の予定が変わることに対して憤りなどを感じていないのです。事実を受け止めて、「じゃぁ、仕方ない」と、受け入れることが上手なのです。人口の違いは当然ありますが、何時間も飛ばずに2時間おきに飛ぶか飛ばないかを判断されるようなことがあれば、日本ではどっかしらのカウンターで怒っている客への応対に苦労する様子が見られるものです。しかし、そういった光景がまったくみられませんでした。それはきっと人々にゆとりがあるからでしょう。ゆとりがあるからイライラもしないのです。でも、ゆとりというのは、日本の「ゆとり教育」というような単に時間があるとか、経済的なものだけでは手にはいりません。自然を破壊していたらいつまでたっても本当のゆとりを手にすることはできないのです。
日本にあってアイスランドにないもの、それは数え上げればきりがありません。アイスランドにないものはたくさんあって、もしかすると3ヶ月もいたら日本に帰りたくてしょうがなくなるのかもしれません。でもそこには、ありのままの自然、ありのままの地球がありました。それと同時に、アイスランドの人たちの心にある、自然を残そうとする意識、があったのです。
だからログハウスに住みましょう、とか森の中で暮らしましょうということではありません。もちろん、トンネルを元に戻しましょうということでもありません。ただ少しだけ、これまでの生き方を見直しましょう、ということです。それは大きくなにかを変えることではないのです。自然の力を信じることが大切なのです。
人間は、自然を軽視し、文明に振り回され、便利さに翻弄されていました。便利もある程度は必要だけど、ありすぎてはいけないのです。現在の人類は未来の人類に比べどこか残酷に生きているのです。その残酷な部分を少しずつそぎ落としていかないといけないのです。おそらくあと何十年もしたら、現在の暮らしを憐れむことでしょう。僕たちが、昔の人は大変だったんだなぁと想うように、未来の人も現在の人々の生き方をみて「大変だったんだなぁ。まだ気付いていなかったんだなぁ」と思うことでしょう。もしかすると人類は、この何千年という歴史の中で、人としてのあるべき姿をまだ見つけていないのかもしれません。
でも、アイスランドをはじめ、北欧の人々はもう気付いているのです。僕たちが気付かなかっただけで、もうずっと前から知っていたのです。人間がいい暮らしをするために環境を破壊してしまっては、意味がないということ。自然を破壊することは、それはやがて自分たちにかえってくること。自然とともにいきなければ、豊かな生活がおくれないこと。そしてなにより、僕たちが、自然の子供であることを。
1.週刊ふかわ |, 2.地球は生きている |2007年11月11日 09:33
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