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2007年08月26日

第282回「それが当たり前の街」

 「はい、あります、だいじょうぶですよ」
 もし名前がなければ必死に頼み込む覚悟でいましたが、電話一本でもちゃんと予約がとれていました。チェックインを済ませ、すっかり不安が解消された僕は、キーを片手に部屋に向かいました。外観をはじめ、ロビーやそこからのびる廊下、そして階段にまで、いたるところに北欧デザインがあふれています。扉を開けてもその期待は裏切られず、まるで家具のパンフレットに載っているかのような客室で、窓からは木々の合間にピエリネン湖を望むことができました。
 少し休んだあと、オーディオプレイヤーをポケットに入れてホテルを出ました。ホテルの周りにハイキングコースがあるのですが、そこからピエリネン湖を見渡すことができるのです。何億年前もの岩に座りヘッドホンをつけると、ショーがはじまるかのように霧が通り過ぎていき、その雄大な姿がくっきりと現れてきました。その後は前にお伝えしたとおりです。
 ホテルに戻った僕は、夕食前にサウナにはいることにしました。知っている人も多いと思いますが、フィンランドはサウナの国。サウナの我慢大会があるくらいです。日本人の温泉好きと同じくらいフィンランドの人はサウナが好きで、サウナのあとにソーセージを食べながらビールを飲むのが習慣になっています。僕自身、これまで旅館の温泉にあるサウナに何度かはいったことありますが、正直、それらとは快適さが違いました。なにより香りが違います。鼻から入ってくる蒸気が体内をめぐり、全身が浄化される感じがもうたまらないのです。滝のように汗をかいてはシャワーで流し、またサウナで汗を流す。すっかり病みつきになっていました。
 夕食をとった僕は暗くなる前に寝てしまい、はっと目が覚めると窓から光が差し込んでいました。時計をみると夜中の2時過ぎ。ここではもう朝日が昇る時間なのです。そして僕は再び、ハイキングコースにでていつもの岩に座り、太陽が昇る湖を眺めていました。
 「来年も来ようかな...」
 毎年こんなところで夏を過ごせたらどんなに素晴らしいでしょう。このホテルにこもって原稿でも書いていたらどんなにいいでしょう。普段は浮かばないことも思いつきそうな気がします。その後、早朝にホテルを出発した僕は、地元の人と一緒に車に乗って、空港まで送ってもらいました。
 ほんの数日間の出来事を何週にもわたって書き綴ってきたフィンランド旅行記。僕自身もこんなに長くなるとは思いませんでしたがこれでもかなり抜粋で、細かいことに触れていたらそれこそ半年くらいかかっていたかもしれません。
 僕がフィンランドを旅して感じたことはいろいろありますが、そのひとつに、「デザインの力」があります。フィンランドの街は、ヘルシンキにしても郊外にしても、とてもかわいらしくて、まるで雑貨屋さんをそのまま街にしてしまったかのようです。特に印象に残るのは郵便局です。あまりにかわいくて、つい写真を撮りたくなる郵便局なのです。でもきっとフィンランドの人たちは、おしゃれな郵便局にしよう、みたいな話し合いをしたんじゃないのです。この街にあった郵便局をデザインすることは、彼らにとっては当たり前なのです。つまり、生活とデザインとがとても密接につながっているわけで、単に機能を果たせばいい、という風にはならないのです。だから山頂のホテルが、単なる宿泊施設にはならず、とても洗練されたホテルになるのです。必ずそこに、デザインの力があるのです。
 ここで大事なのは、デザインすることは、ただおしゃれにすればいいということではない、ということです。つまり、異質なものを作って目立とうとするのではなく、周囲との調和の取れたデザインであることが重要なのです。調和を保ったまま、存在感を出しているのです。だから疲れないのです。それはきっと、自然に対する意識と同じです。自然を尊重しているからこそ、常に周囲と調和したデザインになり、全体的に雑多ではなく、ひとつのテーマパークのような街になるのです。
 日本の郵便局や街が駄目ということでは決してありません。ただ日本人は、利便性や経済性ばかりに意識を奪われていたため、そういう観点でしか街をはからなかった事実は認めないといけません。おしゃれな建物ができても、それは周囲とは違った、異質なものでしかありませんでした。異質なものは刺激的と評価され、ネガティブな視線は向けられませんでした。ある程度の刺激も必要ですが、刺激ばかりでは疲れてしまいます。人の心を満たすのは利便性や刺激だけではありません。調和の取れた街は人の心を潤すだけでなく、無駄なコストをなくし、自然を守ることができるのです。
 土地や建物は不動産屋で売っていても、街は不動産屋では売っていません。つまりみんなのものなのです。街は、人々の共有の財産なのです。なのに、国がルールを作らず、お金持ちが勝手なことばかりするから、街は混沌としてしまいました。それはそれで、クリスマスもお正月もなんでも欲しがる日本の特色といえばそうですが、昔はそんなことなかった気がします。日本には調和があったのです。しかし経済発展とともにその精神はどこかへ消えてしまい、いまでは誰も口にしなくなってしまいました。破壊は一瞬でも、築くには時間がかかります。
 街をみれば、そこに暮らす人々がなにを尊重しているかがわかります。いまの東京の街は、経済主義、便利至上主義を映している気がします。それは、環境を考慮しない人間のエゴの表れです。欲望を尊重して環境が軽視されてきたのです。そういった欲望と環境のバランスを保つのがデザインなのです。デザインに対する意識がもっと高くなれば、欲望にブレーキがかかり、環境との調和が保たれるのです。そして、環境が変わると感性も変わります。そこで流れる音楽が変わるのです。それはつまり、人々の生活が変わるということです。北欧の音楽が世界で支持されるのは、それは単なる音だけではなく、北欧の人々の精神が世界で支持されているということなのです。
 豊かな暮らしとはなんなのでしょう。人間らしく生きるとはどういうことなのでしょう。経済発展を遂げ、モノにあふれた時代、これから手にするものさしはいままでのそれと同じでいいのでしょうか。温暖化はひとつのきっかけにすぎません。温暖化があろうとなかろうと、人間の生き方を見直さなければならない時がきたのです。そういう意味で、北欧の人々の暮らしには、僕たちが今後見習わなくてはならないものがいくつもある気がするのです。10年後、東京にあるのは欲望と調和、どちらでしょうか。


朝日が昇るピエリネン湖


部屋にも光が差し込みます


楽しそうな郵便局

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1.週刊ふかわ |2007年08月26日 09:30

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