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2007年05月27日

第269回「T子の部屋」

部屋にはいると彼女は、緊張する僕をやさしくエスコートしてくれた。
「どうぞ、こちらに座って」
やわらかいソファに腰を下ろした僕は、まるで僕が来ることをわかっていたかのように置かれた涼しげなグラスをテーブルから持ち上げると、まろやかな冷たい緑茶を乾いた口の中に流し込んだ。そして、その緊張が伝わらないように、平静を装っていた。
僕と彼女が出会ったのは、4、5年前だっただろうか。初めて訪れた仕事先に彼女がいた。「ひとし君」なる人形の置き方に戸惑う僕の隣に、彼女が座っていたのだ。ただそのときは、彼女の言動に、頭のいい女性だなぁと関心すらしたものの、当然異性としての意識もなく、仕事上の、それ以上でもそれ以下でもない関係でしかなかった。そんなある日のことだった。
「毎日、男を連れ込んでいるらしい…」
彼女に関する妙な噂が僕の耳に届いた。それによれば、彼女は毎日のように男を部屋へ招き入れては、一時間もしないうちに帰してしまう。しかも、週末ではなく、平日に限って連日、真昼間に行われているようだった。
「一度呼んだ男を二度と呼ぶことはない…それを許されるのは黒いサングラスの男だけ…」
でも、僕にとっては、そんな噂などどうでもよかった。彼女がどんな男といようと、どんな男を部屋に連れ込もうと構わなかった。そのときが来るまでは。
「T子の家に行くことになった…」
ある日、仕事の上司が彼女の部屋に呼ばれたことを打ち明けた。どういういきさつがあったのかわからないが、仕事の関係で招待されることになったらしい。しかし彼は、一人で訪れることに一抹の不安を抱いたのか、後輩たちを連れて行くことになった。その後輩たちの中に僕がいたのだ。
「あら、今日はずいぶんと大勢でいらして…」
動揺を悟られないように、僕たちはサングラスをかけて座っていた。サングラスをかけた男6人を前に、彼女は物怖じせず、平然と振舞っていた。僕らはというと、彼女を喜ばせるために全員で彼女に話し掛けていた。あまりに必死だったから、どんなことを話したかは覚えていない。ただ、覚えていたのは彼女の鼻にかかった声と、あどけない笑顔だった。おそらく僕よりもずっと年上であろう彼女に、どこか年下の少女のような印象さえ抱いた。
「あはは、あなた面白いわね!」
それが、彼女を異性として意識した最初の瞬間でもあった。そして、何事もなく時間だけが流れていった。もう彼女の前に現れることはないだろう、僕はそう思っていた。
「あなた、昔はずいぶんモテてたんですって?」
そして今日、僕は彼女の部屋に一人で来ていた。僕が招待されたのか、勝手に来てしまったのか、そんなことさえも忘れていた。ただ僕は、もう二度と来ることができないのだから、せめて与えられた時間を有意義に過ごしたい、できるだけT子を楽しませたい、それだけを強く思っていた。
「あなた昔から髪型かわらないのね」
「あなた3人兄弟なの?」
「ピアノをやっていたのね?」
あたかも他の誰かに教えてあげるかのように、彼女はたくさんの質問をし、僕はそれに答えていた。その光景はまるで、恋人の部屋を訪れたときに昔のアルバムを見ながら話すカップルのようだった。そして二人の会話は、途切れることなく進んでいた。
「で、あなたは一人旅をするんですって?」
彼女が、旅について訊ねたときだった。
「そうなんです。30歳すぎてから、自分の時間を大切にしようかなと思いまして」
写真を見せながら僕は、数年前の海外の話をしていた。
「あら!あなたもあそこにいたの?!」
すると突然、彼女の目の色が変わった。
「はい、カウントダウンをここで…」
「あら!私もそこにいたのよ!」
それはある意味、奇跡だった。この広い地球上で、あの日、あのとき、あの場所で、僕たちは同じ光景を目にしていたのだ。奇跡でもあり、地球の狭さも感じた瞬間だった。そして、二人の間にあったなにかがようやく取り払われた頃、ゆったりとした音楽が流れ始めた。
「ルルルという歌が聞こえてきたら、帰らなきゃいけないみたいだぞ…」
僕は、かつて耳にした言葉を思い出した。僕は、すっかり汗をかいたグラスを持ち上げ、最後の一口を口に含むと、今日のお礼とお別れの挨拶をした。
「じゃぁ、またいらしてくださいね…」
そう言って、かわいらしい笑顔を僕に見せると、妖精のようにどこかへ消えてしまった。今度、いつ僕があの部屋に呼ばれるかはわからない。ただT子の心の中に、僕という一人の人間が刻まれたのなら、それでよかった。いつか、また会えることを願って。
PS:
6月21日オンエア予定です。あと、6月10日19時から、新宿のタワーレコードでインストアイベントを行います。軽いトークとプチライブとアルバムサイン会です。見学自由なので興味のある方はぜひ遊びにきてください。

1.週刊ふかわ |2007年05月27日 09:30

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