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2006年11月05日

第244回「命の重さ」

それにしても、日本のマスコミはひどいものが多いです。物事の真実を捉えようとせず、単に悪者を吊るし上げて楽しんでいるだけに終始していることがよくあります。テレビや記事から伝える場合、どうやったっても100%真実にはならないのだけれど、限りなく100%に近づくようにしなくてはなりません。なのに、それがまるで真実であるかのように脚色して伝えてしまう。世間の関心を引くために色をつけてしまう。それではいつまでたっても真実は伝わりません。誰が悪者なのかの前に、もっと物事の本質部分にレンズを向けなければ、問題は解決しないのです。そういう意味で、一連のいじめ報道の中には、メディアによるいじめを行っているだけにすぎないものが多いようです。
さらに、いじめ報道というのは非常に危険をはらんでいます。誰かを悪者に仕立てあげることによって、まるで自殺という行為が正義のように見えてしまうからです。自殺が美化され、自殺志願者の気持ちを助長しかねないのです。日本人はとくに帰属意識が強いため、いじめられている人がニュースを見て、「僕もこういう人と同じだ」という感情が芽生え、同じ道を辿ろうとしてしまうのです。ましてや、自分の居場所がないと感じる人たちは、画面に流れる自殺者になんの抵抗もなく吸い寄せられてしまうでしょう。だからこそ、こういった報道は常に慎重にやらなければだめなのです。報道することが必ずしも良い結果を生むとは限らない、むしろ自殺者を助長するケースだってある、ということを理解したうえで放送するべきで、僕が見る限りでは、そういった類のものがとても少ない気がします。
マスコミにかぎらず、世間一般でも、昨今のいじめ問題に関して言及することは、ときに誤解を招き、ときに危険が生じます。それは、人が死んでいるからです。人が死んでしまうと、物事の判断能力が鈍りやすくなります。普段は人を殺すことなんて考えたことのない人も、恋人を殺されたら犯人を殺害することを考えるでしょう。そこには、正義とか善悪とかを突き抜けた感情があるのです。そうすると、冷静な判断ができなくなってしまうのです。あらかじめ言っておきますが、これは自殺志願者をとめようとするための文章ではなく、あくまで僕の頭の中にあることを表現するだけであることをご了承ください。
そもそも、いじめのない社会というのは実現できるのでしょうか。世界的にいじめが存在すること、国内でのいじめ件数の多さからみると、いじめのない社会の実現はなかなか難しいかもしれません。人間には、嫉妬、羨望、競争心など周囲に対する意識が常に存在するため、資本主義だろうと共産主義だろうと、いじめというものは必ず社会に存在するものなのかもしれません。ただ、国、時代によって、いじめの方法などは違います。ネットによる中傷などはまさに現代のいじめといえるでしょう。しかし、いじめは強さからうまれるものではなく、人間の弱さからうまれるものであるということは、どの時代、どの国でも共通していることではないでしょうか。つまり、いじめは弱い人間がすることなのです。
弱い人間が実行しているのに、いじめを撃退することは容易ではないのが現状です。それはあまりに陰湿な方法でいじめを行うからです。つまり、正々堂々としていないのです。これらを根こそぎ排除するのが難しくても、芽を摘むことはできるはずなのです。しかしながら、学校という社会においてそれをやることが難しくなってきています。子供たちの権利を守りすぎたために、教師たちが自由に叱ることがしにくい環境になってしまったのも、要因のひとつです。
それでも、学校で起きたいじめの場合、なにかと学校がその標的にされます。誤解されないように言っておきますが、僕は教師や学校側を擁護するつもりもありません。ただいえるのは、教師は神ではないということです。何十人もの生徒の人生の面倒を見れるほど、完璧な人間ではないのです。大事なのは、「教師が悪くない」ということではなく、「悪いのは教師だけではない」、ということなのです。
教育というのは、学校だけでおこなわれることではなく、すべての環境が子供たちの教育の場だと思います。そういう意味で、周囲の力、それは地域の力ともいうべきでしょうか、個人と地域とのかかわりが欠如していることが、昨今のいじめ問題の大きな要因のひとつであるであるといえるのでしょう。
「とてもいい子でしたよ。いじめられるような子には見えませんでしたけどねぇ」
なんてインタビューに応えるおばさんほど、その子のことなんてなにも知らないのです。お前がなにを知ってるんだ、ってことなのです。でも、おばさんが悪いのではないのです。そういう社会になってしまっただけなのです。
かつては近所のおばちゃんがしょうゆを借りに来たり、おかずをわけにいったりしたものでした。しかし、文明の発達とともに、そういったアナログなコミュニケーションは激減・崩壊し、ほとんどの地域社会が有名無実なものになってしまいました。いまあるのは、デジタルなコミュニケーション、つまり、ネット上でのやりとり、それはある意味で架空、バーチャルなコミュニケーションだといえるでしょう。昔は、もっとも僕が生まれる前は、物理的になにもなくっても温かい社会でした。なのにいまは、物質的にはあふれているのに、温度があがらない社会。冷え切った社会になってしまったのです。おそらく、ネット上で自殺志願者を食い止めることもできるケースもあるでしょう。しかし、直接的に声をかけたりする社会というものがなくなっていることは、いじめや虐待などを発見できない要因なのです。隣人に誰が住んでいるかわからない状態では、隣の部屋で人がコンクリート詰めにされていても気づかないのでしょう。だからといって、その隣人を責めることはできないのです。そういう世の中になってしまったのです。文明の発達によって、個人の権利が重んじられたばっかりに、家族、そして地域という集団の筋力がとても弱ってしまったのです。
いじめられている人を救うものはたくさんあります。友人だったり先生だったり、ネット上の仲間だったり。人間だけでなく、音楽だったり本だったり映画ということもあるでしょう。そういった、救ってくれるものがなにもないという人もいるでしょう。でも、そういう人でも、「生きるしかない」のです。どうにか生きる場所を探さなければならないのです。場所が見つからない人のためには、生きていく場所をつくるべきなのです。それは、学校と家庭との間にあるものかもしれません。なんらかの場所、コミュニティーが必要なのです。老人には老人ホームがあります。いじめられている人にも、精神的にぼろぼろになっている人の心のケアをする施設が今後、必要になってくるわけです。ある意味、防空壕のようなものです。空襲が終わるまで、わざわざ地上にでる必要はないのです。ほとぼりがさめるまで守ってあげられる場所が必要なのです。罪を犯した少年のために少年院があるなら、生きる力を失くした少年にも、それに適した場所が必要なのです。とにかく、死なせちゃいけないのです。そういうことに税金を使うべきなのです。
そして最後に、これは決して自殺者を責めるわけではありませんが、
「自殺と他殺は同じ」だということです。
自殺をする人は、本当につらい日々を送ってきた果てに、自ら命を絶つということを選択したのでしょう。しかし、殺しちゃいけないのです。それがたとえ自らの意思であり、自らの同意があろうとも、殺してはいけないのです。いじめる人は、人間として最低だと思います。しかし、世の中、最低な人間ばかりです。つまり、仏のような完璧な人間なんていないのです。世間は鬼ばかりなわけで、世の中うまくいかないものです。きっと「私は世界で一番不幸だ」なんて、生きていくうえでみんなが感じることなのです。だから絶対に死んではいけないのです。自分のことをいじめる人を憎んで殺してしまうのと、いじめられるのが嫌で自分を殺してしまうのは、僕は同じだと思うのです。どんなにつらくても、誰にも命を破壊する権利なんてなくて、人の命も自分の命も、同じ重さなのです。
僕はスピリチュアルカウンセラーでもなんでもないけど、もし仮に、魂というものが肉体を借りているのだとしたら、僕たちの肉体は借り物に過ぎないのです。一つ前の肉体を前世というのであれば、自殺した人は、きっと次の肉体を借りれないのです。
「お客さん、契約違反なんで、もうお貸しできませんよ...」
ということなのです。
どんな状況であっても、命を破壊してはいけないのです。だから、自殺してはいけないのだし、そうならないように、社会が救わなければならないのです。いじめをゼロにすることが難しいのなら、いじめが起きた後にすぐ解決できる社会にはなるはずです。そうすることで数を限りなくゼロに近づけることはできるはずです。そのためには、社会の変化、文明の発達によって失ったものをしっかりと認識し、ぽっかりと空いてしまった部分を埋めていかないといけないのです。いじめの第一の原因は、僕たちを含む社会にあることを、みんなが認めなければならないのです。

1.週刊ふかわ |2006年11月05日 10:00